-- ◆【第01章】 極東国際軍事裁判で認定されたいわゆる『南京事件』◆ --

--【第08項】 第八章『南京暴虐事件』で認定された事 【後編】--

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では、具体的に【第八章 南京暴虐事件】で述べられた【事実認定】を再検証してみます。尚、この項での再検証は、根拠になったと推定される史料を再確認するに留めます。(※【事実認定】の正確さの再検証は後の項に譲ります。)

最初は下記記載です。内容を確認してみると、【軍隊として統制されていない兵士達】により、【少なくとも一万二千人の非戦闘員】が殺害された事を認定しています。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・掠奪・放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。

他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少くとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。



上記における【非戦闘員】は、【女子供】が含まれている事から、【一般住民・一般市民】の方を指していると判断されます。国際法用語における【非戦闘員】には、別の意味として、【戦闘以外の事務に従事する軍医 ・看護兵等】を指す場合があるので注意して下さい。



【非戦闘員】(※コトバンクから引用)

1. 交戦国の一般住民。民間人。
2. 国際法で、交戦国の兵力に属するが、戦闘以外の事務に従事する者。軍医 ・看護兵・法務官・経理官・従軍記者など。



【非戦闘員】(※大辞林 第三版の解説から引用)

1. 国際法上,戦争において敵対行為に参加する資格を持たない者。これらの者を攻撃目標としてはならない。文民。一般市民。
2. 軍隊組織の中で戦闘以外の任務(医療・衛生,宗教,経理,郵便,通信及び法務など)に従事する者。



『現代戦争法規論』 足立純夫著(※国際法学者) 9.戦闘員及び非戦闘員の識別

大部分の戦争法規は、戦闘員と非戦闘員とを識別することに準拠して構成されている。この識別に従えば、交戦国の国民は戦闘員(武装部隊の構成員)と非戦闘員(一般住民)との2つの概括的な部類に分かれ、各部類はそれぞれ武力紛争時において特定の権利義務を有し、また、いかなる個人も同時に2つの部類に属することなく、これらの部類の中間的なものもない。



『新版 国際人道法』 藤田久一著(※国際法学者) 第三節 攻撃(爆撃)対象の規制

…換言すれば、戦闘員と非戦闘員(一般住民)の区別、軍事目標と非軍事物の区別により、それぞれ後者(非戦闘員と非軍事物)を敵対行為の直接の影響から保護しなければならない原則が存在する。

この区別原則はかなり古くから認められているが、とくに近代国家の国民軍制度の普及により正規軍以外の文民ないし一般住民は直接戦闘に参加しないから戦闘の惨禍から保護される必要があるとして非戦闘員(一般住民)不可侵の原則となり、また、物的対象についても、攻撃しうる軍事目標の定めることによって、それ以外の非軍事物を攻撃から免除することになった。



『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

第二章 第一款 戦闘員及び非戦闘員

…故に非戦闘員たる語には二様の遣方があること知るべきである。一は交戦国(或は交戦当事者と云うも可い)の兵力に編成せらるる非戦闘員で、即ち戦線に立つも干戈を手にして敵と闘ふを本務とするに非ざる軍人軍属、例へば軍医官、主計官、法務官、通訳、軍隊布教師等である。

(本規則第十三条の『新聞の通信員及探訪者、並酒保用達人等の如き直接に軍の一部を為さざる従軍者』は之と全然別である。)

第二の意義に於ける非戦闘員は軍人以外の一般常人で、即ち交戦当事者の兵力の構成員でなく、武器を手にせず、戦時にあるも尚ほ且全然平和的の業務を唯一的に営み又は平和的に生活を送りつつある者を謂ふ。



『空襲と国際法』 田岡良一著(※国際法学者)

第二節 非戦闘員及び私有財産に関する戦争法の原則

此処に言ふ非戦闘員とは、交戦国の国民の内、交戦国の兵力を現に構成せず又武器を執って敵国の兵力に敵対せざる個人の全体を指す言葉であって、私的人民又は平和的人民等の言葉を以ても呼ばれる。

国際条約は時として非戦闘員の語を平和的人民又は私的人民と同一の意義に用ひない事がある。例へば一八九九年及び一九〇七年の海牙平和会議の採択せる「陸戦の法規慣例に関する条約」は、軍隊の一部を構成すれども戦闘を本務とせざるもの、例へば経理部員、衛生部員、法務官、野戦郵便部員の如きものを非戦闘員と名付ける(付属書、陸戦条規第三条)。

然し一般の用語としての非戦闘員は、軍隊に編入せらざる人民の全体を指すものであって、国際法の著述も右の海牙の条約に拘らず此意味に非戦闘員の語を用ふる事が多い様である。本節に言ふ非戦闘員も亦同様である。



本認定の根拠となったのは、【エスピー報告】及び【ジョン・H・D・ラーベ委員長が日本大使館へ宛てた手紙】だと思われます。その該当部分を抜粋します。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・掠奪・放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。



145D 南京アメリカ大使館通信 ---- エスピー報告

一九三八年一月二十五日 南京
南京の状況
在漢口アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン宛

一九三七年十二月十三日、日本軍の南京占領以来の状況についてのエスピー副領事の報告を、ここに慎んで提出いたします。報告内容は大使館スタッフの調査、および南京陥落以来当地に残留しているアメリカ人の記述に基づくものであります。

報告に含まれているのは、勝利に輝く日本軍の南京入城の時から市に発生した事件、市の現況に関する観察、および、日本軍占領の影響を改善するためのアメリカ住人ならびに「南京国際委員会」の仕事の概要、さらに、市内における人命および財産を保護する彼らの尽力に関するものです。

敬具

ジョンソン・M・アリソン三等書記官
報告書作成 一月十五 --- 二十四日
郵送 一九三八年二月二日

T.十二月十日後の主な報告

日本軍の分遣隊による便衣兵狩りや処刑のほかに、日本兵は二、三人ないしはそれ以上に徒党を組み、市内を傍若無人に徘徊した。これらの兵士は極悪非道な殺害、強姦、略奪をして、市を恐怖のどん底におとしいれた。

日本軍の入城以後、したい放題が兵士に許されていたのかどうか、それとも軍の統制が完全に瓦解していたのか、十分な説明はなされていない。

しかし、われわれの聞いたところによると、日本軍指揮官より、兵士を統制下におくよう少なくとも二回の命令が出され、また、入城前、いかなる財産にも放火しないよう、厳命が出されていた。それにもかかわらず、大勢の兵士が市内に群がり、筆舌に尽くし難い凶行を犯したことは事実である。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



第九号 日本大使館への手紙 一九三七年十二月十七日 ジョン・H・D・ラーベ委員長

…我々の目に入ったのは安全地帯の路上を二、三人の徒党でうろつく日本兵達の姿だけであったのであり、そして今は、敢えて述べるが、この統制されていないうろつき廻る兵達が犯す掠奪、強姦の報告が安全地帯のあらゆる所から続々と入って来ている。

(※『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』から引用)



また、下記部分は、【スマイス報告】及び【ベイツの回状】の中で、同様の認識を確認する事ができます。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少くとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。



『スマイス報告』

"WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA" December, 1937 to March, 1938
URBAN AND RURAL SURVEYS By Dr. Lewis S. C. Smythe

2. 戦闘による死傷

数値および原因

[1]. 市内や城壁に隣接した区域の埋葬からの入念な推定では、12,000人の市民が暴行によって殺害された事を示している。このリストの中には、何万もの武器を持たないまたは武装解除された兵士達は考慮されていない。

2. DEATHS AND INJURIES DUE TO HOSTILITIES

Number and Cause

[1]. A careful estimate from the burials in the city and in areas adjacent to the wall, indicates 12,000 civilians killed by violence. The tens of thousands of unarmed or disarmed soldiers are not considered in these lists.

(※【estimate】 ⇒ 見積もり、推量、推定値 --- アルクから引用)



154B <アメリカのキリスト者へのベイツの回状>

ロイド・トリエスティノ 聖「コンテ・ベルデ」
香港近くのマドラスへの道沿いにて 一九三八年十一月二十九日

南京で殺された民間人の数についてのわれわれの最終的な合計は、一万二〇〇〇人です。そのうち九割は当時市内にいて、戦闘行為とは無関係に殺された、多くの婦人や子供、老人が含まれています。この数字は、当時の南京市内で、四家族に一人の割合で殺されたことを意味します。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)




次に、下記記載を見てみます。内容を確認すると、【指揮官の許可】に言及している事から、【軍隊として統制されていた兵士達】により、【中国人男子二万人が殺害された】と認定している様です。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

男子の一般人に対する組織立った大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、 指揮官らの許可と思われるものによって行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団ごとに殺害された。兵役年齢にあった中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかっている。



上記は、日本軍により実施された【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵】への掃討戦の状況について言及したものと思われます。【エスピー報告】では、その時の状況を、この様に報告していました。



145D 南京アメリカ大使館通信 ---- エスピー報告

一九三八年一月二十五日 南京
南京の状況
在漢口アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン宛

ジョンソン・M・アリソン三等書記官
報告書作成 一月十五 --- 二十四日
郵送 一九三八年二月二日

T.十二月十日後の主な報告

日本軍が南京に入城するや、秩序の回復や混乱の終息どころか、たちまち恐怖統治が開始されることになった。十二月十三日夜、十四日朝には、すでに暴行が行われていた。

城内の中国兵を掃討するため、まず最初に分遣隊が派遣された。市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。

正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる。

兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。ほんの些細なことから、兵士であったとの嫌疑をかけられた者は、例外なく連行され、銃殺された模様だ。

中国政府軍の残兵はあまねく掃討するという日本軍の決定は、断固として変更されることはなかった。

(※【あまねく】 ⇒ もれなくすべてに及んでいるさま --- コトバンクから引用)

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



史実においても、日本軍は、【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵】に対する徹底した掃討作戦を実施していた事が確認できます。この掃討戦は、【総司令官松井大将の断固たる意思】の下に行われたものでした。



丁集作命甲号外 十二月十三日 午前八時三〇分 (※第十軍司令官柳川兵助中将下令)

一、敵は南京城内に於て頑強に抵抗を続けつつあり。

二、丁集団は南京城内の敵を殲滅
せんとす。

三、丁集団は作命甲第五十六号第九項の制限を解く。

四、各兵団は城内に対し砲撃はもとより、あらゆる手段を尽くし敵を殲滅すべし。これがため要すれば城内を焼却し、残敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す。

(※【殲滅】 ⇒ すっかり滅ぼす事。皆殺しにする事。 --- コトバンクから引用)



第九師団 歩兵第六旅団 歩兵第七連隊 歩七作命甲第一一一号 歩兵第七連隊命令

十二月十五日午後八時三〇分 於 南京東部連隊本部

一、本十五日迄捕獲したる俘虜を調査せし所に依れは、殆と下士官兵のみにて将校は認められさる状況なり。将校は便衣に更へ難民地区に滞在しあるか加し。

二、連隊は明十六日全力を難民地区に指向し、徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす。憲兵隊は連隊に協力する筈。

三、各大隊は明十六日早朝より其担当する掃蕩地区内の掃蕩特に難民地区掃蕩を続行すへし。第三大隊は部下各中隊より各一小隊を出し第一大隊長の区署を受けしむへし。

四、戦車第一中隊及軽装甲車第七中隊は待機すへし。

五、予は十六日午後以降最高法院西方約一粁赤壁路連隊本部に在り

連隊長 伊佐大佐 下達法 命令受領者に印刷交付す。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



58D<反日活動が消滅するまで掃討する>

MJD グレイ暗号電報
発信:上海、海軍無線局経由
受信:一九三七年十二月十四日午後一二時五五分
ワシントン国務長官宛

第一一五〇号

私の第一一四三号電報(十二月十三日午後四時発信)参照。
松井大将の司令部は、南京は昨夜日没時に陥落したと発表した。日本軍の報告によれば、残敵掃討戦が現在進行中とのことである。

日本軍のスポークスマンが今日の午後に、反日活動が消滅するまで戦闘状態は続けられるであろうと声明したと伝えられる。
兵隊と軍事物資を運ぶ日本の軍用輸送船団が、引き続き毎日のように上海に到着している。漢口と北平のみに転電。

ガウス

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



15 日本軍、三路に分かれて中国軍前線に進撃中

一九三七年十二月十七日 ハレット・アベンド

≪ニューヨーク・タイムズ≫特電
十二月十七日、金曜日、上海発。…

南京への勝利の入城の数時間前に、日本の松井石根大将は用意された声明を発し、勝利の栄光は米英艦船に対する「きわめて不幸な事件」によって損なわれた事実を言い、そしてこう言った。「私は心の底からこれを悔やむものである。」

松井大将は、日本軍は南京入城に示された陸・海・空戦力の成功ではまだ満足するものではない、と宣言した。彼は、「東亜の永続的な平和確立のための現下の掃討戦」を断固としてやりぬくという目的を、繰り返し言明した。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



第九師団歩兵第七連隊 水谷壮一等兵 1937年12月16日の日記

目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みにくる。

市民と認められる者はすぐ帰して、三十六名を銃殺する。皆必死になって助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという。多少の犠牲者は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



この時、支那敗残兵と間違われた【一般人がいた可能性】は否定できないと考えられます。従軍した第九師団の兵士の日記には、この様な記載があります。



第九師団歩兵第七連隊 水谷壮一等兵 1937年12月16日の日記

目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みにくる。

市民と認められる者はすぐ帰して、三十六名を銃殺する。皆必死になって助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという。多少の犠牲者は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



第九師団作戦経過の概要

三、城内掃蕩
師団は爾後右翼隊主力を以て城内の掃蕩に当り七千余の敗残兵を殲滅せり

四、本戦闘に於ける彼我の損害左の如し(淳化鎮附近を含む)
友軍 死者 将校以下 四六〇名 傷者 将校以下 一、一五六名
敵軍 死体 四、五〇〇 他ニ城内掃蕩数 約七、〇〇〇

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵と間違われた一般市民】がどの程度いたのかは、唯一の学術調査結果である【スマイス報告】を参照する必要があります。これについては、後の項で再検証したいと思います。

それにもして、下記認定にはおかしな点があります。検挙された者全てが【男子の一般人】とされていますが、多数の【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵】がいた事実は、連合軍側も米国公文書等(※【第03項】参照)により確認していたはずです。また、それらの敗残兵達により、【たくさんの事件】が引き起こされていた事も明らかになっていたはずです。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

男子の一般人に対する組織立った大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団ごとに殺害された。兵役年齢にあった中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかっている。



20 中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為
一九三八年一月九日 F・ティルマン・ダーディン

上海十二月二十二日発 ニューヨーク・タイムズ宛航空便

武装を解く
日曜日夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。

軍服と一緒に武器も捨てられたので、通りは、小銃、手榴弾、剣、背嚢、上着、軍靴、軍帽などで埋まった。下関門近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から二ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨場のようになっていた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



一九三八年二月四日 A・T・ステイール
<シカゴ・デイリー・ニューズ>紙外信部特別通信
<シカゴ・デイリー・ニューズ>社版権所有、一九三八年

南京発。……

日本軍が街路をゆっくり巡回して、走ったり疑わしい動きをするものなら誰でも、機関銃と小銃で射殺するようになると、敗退し闘志を失った軍隊はいわゆる安全区になだれこんだ。そこは掃討を受けていない最後の地域の一つであったが、一方、街路は地獄であった。

まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨てていた。町のあちこちで兵士が軍服を投げ捨て、店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を身につけているのを見た。下着だけで歩き回る者もいた。中国の役人の家から盗んだらしい山高帽に下着だけの格好で、ある兵士が得意げに町を散策しているのも見かけた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



145D 南京アメリカ大使館通信 ---- エスピー報告

一九三八年一月二十五日 南京
南京の状況
在漢口アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン宛

ジョンソン・M・アリソン三等書記官
報告書作成 一月十五 --- 二十四日
郵送 一九三八年二月二日

T. 十二月十日後の主な報告
しかしながら、ここで触れておかなければならないのは、中国兵自身も略奪と無縁ではなかったことである。彼らは少なくともある程度まで、略奪に責任を負っている。日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われたのであった。

気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに殺人まで行った。

この時期、退却中の兵士や市民までもが、散発的な略奪を働いたのは確かなようである。市政府の完全な瓦解は、公共施設やサービス機能をストップさせ、国民政府および大多数の市民の退却は、市を無法行為に委ねることになり、混乱を招いたようだ。…

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



これについて、本件裁判では、【弁護側】【検察側・裁判長】との間で一悶着がありました。下記は、本件裁判における検察側の陳述です。この時、検察側の提出した証拠資料の中には、【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵】がいた事実、及び、それらの敗残兵達により【たくさんの事件】が引き起こされていた事実を示すものが含まれていたのですが、検察側は、陳述の際、その部分を【読上げなかった】のです。



極東國際軍事裁判速記録. 第59号 (昭和21年8月30日)
[ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269336 ]


〇サトン検察官 『証書三二八号の朗読を続けます。英語文の十頁第二節から読み始めます。』
[ モニター 只今より証書三二八号の朗読を続行致します。 ]
[ モニター朗読 ]
然るに日本軍南京に入城するや秩序の回復及既に発生し居りたる混乱の終止どころか市の恐怖政治が愈々本式に初まり(※ママ)たるなり。十二月十三日の夜及同十四日の朝迄に暴行は既に起こりつつありたり。先第一に日本軍の分隊は派遣され城壁内に残されたる支那軍人を一網打尽に掃蕩することとなれり。市内の街路及建物に亙り慎重なる捜査は行はれたり。総ての前軍人及其の疑ある者は着々と銃殺せられたり。詳細なる記録は入手し居らざるも悠々二万以上の人々が斯くして殺されたりと計算せられ居れり。前軍人と実際に支那軍に働きしことなき人々との区別に付ては殆ど考慮せられざりき。或者が軍人たりしならんとの疑が僅かにでもあれば其の者は殆ど例外なく連行せられ銃殺せられたり。支那政府軍の総ての残兵を掃蕩する日本軍の決心は確固不抜のものらしく見受けられたり。…
[ モニター 之を以て国際検察団側より当法廷に提出されたる証拠第三二八号の日本語訳其の儘の朗読を終わります。 ]



本件については、【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵】の存在が、日本軍による安全区内の徹底した掃討作戦につながったのですから、弁護側としては、この部分を省いた検察側に一言言及しないわけにはいきません。言及せずに放置してしまうと、弁護側は【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵】の存在を特に問題視しているわけではないと受け取られかねません。



極東國際軍事裁判速記録. 第59号 (昭和21年8月30日)
[ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269336 ]


(※続き)

〇ローガン弁護人 『此の報告書の十頁から三節ばかり読まして戴きたいのでありますが…



この弁護側の言及に対して、検察側が回答をしたわけではなく、なんとウェッブ裁判長が弁護側を制止する様に発言をしていました。弁護側は、検察側の提出した証拠資料に異議を申立てをしようとしたのではなく、単に検察側が【省いた部分】を読上げ様としただけです。元々検察側が証拠として提出しようとしたものを読上げるだけですから、何の不都合も無いはずです。しかしながら、ウェッブ裁判長は、検察側が【省いた部分】の読上げを認めませんでした。



極東國際軍事裁判速記録. 第59号 (昭和21年8月30日)
[ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269336 ]


(※続き)

〇ウェッブ裁判長 『当法廷は弁護人側が、検察側の申して居る時に、其の中に入り込んで物を言ふことをやらさないと云ふことに決定して居ります。それは秩序を維持する上に必要なのであります。此の段階は弁護人側から総ての証拠が提出されるまでは、決定されないものでありまして、其の提出された時に、或は本件に関係することがあるかも知れませぬ。』
[ 小野寺モニター 一寸訂正致します。此の裁判と云ふものは、弁護人側が全部証拠物件を提出するまでは、済まないものであります。其の時に検察側で提出した証拠物件に付き、言及することを其の時にしても宜しうございます。 ]
『是等の各節は証拠として提出されて居ります。併しそれは検察側の事件として、まだ「レコード」には載って居りませぬ。弁護人側は其の「レコード」を自分達の方の事件として提出して宜しい。何度も何度も斯う云ふ工合に申出られることは、我々に証拠を抑へるやうに申されることと解釈致しますが、それはいけませぬ。』
[ 小野寺モニター 一寸訂正致します。斯う云ふ風に弁護人側では、度々証拠物件の提出に付て異議を申立てると云ふことは、外から見ると如何にも裁判所側で弁護側を抑え付けて居ると云ふやうに見えますが、さうではありませぬ。 ]



極東国際軍事裁判の資料を読むと、ウェッブ裁判長が検察側に代わって弁護側に反論し、弁護側と衝突する場面を頻繁に確認する事ができます。本裁判の公平性に甚だ疑問符が付くのですが、それは置いておいて、弁護側は単に【省いた部分】もきちんと読上げて欲しいと言及しただけなのに、それすら却下するウェッブ裁判長に対して、弁護側が激しく抗議します。



極東國際軍事裁判速記録. 第59号 (昭和21年8月30日)
[ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269336 ]


(※続き)

〇ローガン弁護人 『今までの所、検察側は被告の中の数名に対して、此の南京の虐殺事件に付て、責任を有して居ると云ふことを主張して居るやうであります。併しながら是に於て検察側は一つの文書を提出したのでありますが、此の文書を見ますと、或る事件に関しては、日本側は責任を有して居ないと云ふことを明らかにして居るのであります。即ち、中国人の或る兵隊は、其の兵服を棄てたと云ふことが記述されて居るのであります。併しながら是が記述されて居る三つの節は、只今検察側は省いたのであります。



弁護側は、【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵】に関する事件については、【日本側は責任を有して居ないと云ふことを明らかにして居る】と判断していた様です。その弁護側の有力な根拠となる部分を検察側が省いたのですから、弁護側の方で改めて読上げて欲しいと要求したのは至極当然の事と思われます。

この弁護側の主張に対して、ウェッブ裁判長は、検察側に見解を再確認するのではなく、驚いた事に持論を以て弁護側の主張を封じ様としていました。このウェッブ裁判長の持論に対して、弁護側は、ウェッブ裁判長の発言を【さえぎってまで】更に反論していました。弁護側と検察側が対立するのは普通の裁判の構図ですが、弁護側と裁判長がこれほど対立するのは異様な事です。弁護側としては、提出されている証拠が、例えどちらかに不利に働くものであろうとも、【裁判においては全てを明らかにするべき】と当然の原則論を述べたにすぎません。



極東國際軍事裁判速記録. 第59号 (昭和21年8月30日)
[ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269336 ]


(※続き)

〇ウェッブ裁判長 『中国人は其の服を脱ぎ棄てたからと云ふ理由で、射殺することは出来ませぬ。彼等は後から正当な法律手続を履んでから処刑されるべきであります。さうして確証が上がって後に…

〇ローガン弁護人 『併しながら此の兵服を棄てた中国人が、他の中国人の民間人を掠奪し、さうして虐殺したと云ふことも、此の文書に依って明らかになるのであります。此の事件に付て総ての事実を、只今此の時に当たって裁判所側に打明ける必要があると思ひます。
[ 小野寺モニター 一寸付加へます。此の中国の兵隊が中国の民間人から掠奪し、或はそれを殺し、それに依って民間人の服を得んとしたと云ふことがあります。 ]



ウェッブ裁判長の持論についてですが、日本軍は【其の服を脱ぎ棄てたからと云ふ理由】で安全区内の敗残兵を処断したわけではありません。単に安全区内を徹底して掃討しただけです。事実誤認も甚だしいのですが、それ以上に上記持論の注意点として、【ウェッブ裁判長の個人見解でしかない】という点が上げられます。極東国際軍事裁判判決文に反映されれば本裁判の認識となるのですが、その様な文言は判決文のどこにも書かれていません。(※後の項で改めて検証します。) そもそも、判決が確定する以前に裁判長が持論を述べるのは異様で、加えて、【ウェッブ裁判長自身の国際法に対する知見のお粗末さ】にも問題がありました。ウェッブ裁判長の知見は、同僚の判事団から見ても惨憺たるものだったのです。



『東京裁判の国際関係』 日暮吉延著

第五章 判事団の権力状況 第二節 判決作成の政治過程 一 判事団の対立構造

2. 裁判長の意見書
ウェッブは、イギリス系法廷の慣例通り、多数判決の基礎となる「先導的判決」を裁判長が書かねばならないと自任していた。そして、ニュルンベルグ裁判の判決が出るのを待ち、一九四六年十一月二七日、管轄権問題に関する意見書を配布した(この文書は、ウェッブの指示のもと、彼の若い助手二名が上智大学教員の協力を得て準備したものである)。それは、ウェッブの八月以来の考えに沿って、アリストテレス、ポリュビオス、聖パウロ、聖アウグスティヌス、トマス・アクィナス、フランシスコ・スアレス、ジャン・ジェルソン、フーゴ・グロティウス、エメリッヒ・ヴァッテルらの言説を一緒くたにして長々と引用しつつ、古典的な自然法で侵略戦争--不正な戦争--の違法性を説明し、憲章は自然法と一致するゆえに正当だと論じるものであった。しかし、この意見書は、英連邦三判事やソ連の判事から叩かれ、おとなしく控えめな中国判事の梅汝コウ(立法院外務委員会)にさえ批判された。ノースクロフトは「学生が書いた出来の悪い国際法の論文」だと陰で酷評したが、要するに、使い物にならない粗雑な案であった。ウェッブは、屈辱を感じ、いたく立腹したが、自分の支持者がいないことに気づくと、その意見書は参考資料だと考えてほしいと述べた。判事たちは、ウェッブが態度を改めたのだと思った。しかし、それは間違いであった。ウェッブは、以後も同僚判事の見解を一切受けつけず、物腰の柔らかいマクドゥガルの十二月二三日付意見書に至っては、読まずに突っ返す有様であった。しかし、十二月二七日、さすがにウェッブも、次回の草案では、論理操作は別として「平和に対する罪が国際法上犯罪であること」を示すつもりだと助手に伝えた。この変化は、ウェッブ自身がニュルンベルグ判決に自覚的にやや接近したことを示している。正確な日付は不明ながら、ノースクロフトの言及する「第二次ウェッブ草案」が配られたのは、この頃のことかもしれない。その第二次草案は、憲章の法を「自然法」によって正当化する立場から、ある判事は見解A、ある判事は見解B、別の判事は見解Cと列挙し、「この結果、裁判所の憲章のすべての条項を支持する」と述べる支離滅裂な草案であったという。



『東京裁判の国際関係』
日暮吉延著


第五章 判事団の権力状況
第二節 判決作成の政治過程 一 判事団の対立構造

…このように、事後法の問題は、判事をも悩ませた。ちなみに、ニュルンベルグの合衆国判事ビルドの場合、憲章を支持するか辞任するかという選択に際して、この国際的事業で自分の名声を確立したいと願い、憲章を支持した。他方、イギリス判事パトリックの場合、来日前に極東憲章を読んで、その本質である戦争の犯罪化と個人責任を執行することが自らの任務であると理解した。威厳ある判事の典型であるパトリックに言わせれば、憲章を忌避する者は判事に就任すべきではない。そんな判事は、任務への献身義務を根本的に怠ることになるからである。この関連で、東京裁判の判事団が「知名の国際法の専門家ではなかった」という高柳賢三の指摘も想起されてもよいであろう。



【高柳賢三】(※コトバンク『百科事典マイペディアの解説』から引用)

英米法学者。埼玉県生れ。1912年東京帝国大学法科大学卒業。1913年より同大学でイギリス法講座を担当、日本の英米法研究を本格的な比較法学として確立した。また日本の民法典・商法典の英訳に尽力。第2次世界大戦後、極東国際軍事裁判の弁護人となる。成蹊大学学長・成蹊学園総長、憲法調査会会長を務め、1950年代後半の憲法問題の論議では日本国憲法の制定過程や運用について調査を行った。著書は『英米法源理論』『司法権の優位』など。



弁護側の抗議に対し、ウェッブ裁判長は本件裁判の公平性を説こうとします。下記ウェッブ裁判長の見解部分だけを読めば、ウェッブ裁判長の言い分にも納得できるものがあるのですが、実は、下記見解にも【まやかし】がありました。



極東國際軍事裁判速記録. 第59号 (昭和21年8月30日)
[ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269336 ]


(※続き)

〇ウェッブ裁判長 『さう云ふことがあるからと言うて、それで今此処であなた方の弁護人側の言ふ申出を聴かなくてはならなぬ(※ママ)と云ふことにはなりませぬ。審理の進行を適当にする為に、同時に検察側の申出を全部聴きまして、それから弁護人側の全部を聴くと云ふ工合にしなくてはならぬと思ひます。』
[ 小野寺モニター 一寸前のを付加へます。弁護側では今検察側の提出した証拠に付き、弁護側の証言をしようとして居ますが、之を許しても宜いと云ふことは、詰り他の部分に於ても検察団側が証拠を提出して居る間に、弁護側から出さしても宜いと云ふことになるから、それは不当であると思ひます。それで検察団側が証拠を提出して居る間は、それが済むまで全部やって、それから弁護側がやらなくてはならぬのであります。 ]
『唯、一つの例外と致しますことは、弁護人側が反対訊問をやって居る時に、証拠を提出することであります。



ウェッブ裁判長自身が【検察側が裁判所に提出した文書に対する反対尋問を認めなかった】のです。即ち、検察側が証拠文書を提出してしまえば、弁護側はその証拠文書に対して反論する術が無かったのです。弁護側は改めて、裁判の公平性を期す為に、【提出された証拠文書は例え不利な部分があっても全てを読上げる】様要請しました。



極東國際軍事裁判速記録. 第59号 (昭和21年8月30日)
[ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269336 ]


(※続き)

〇ローガン弁護人 『併しながら此の間裁判長が言はれました通り、文書に付きましては、反対訊問をすることは出来ませぬ、でありますから、若し検察側で文書を朗読することがありますならば、其の文書を全体として読上げて、裁判所が公平なる判断が出来るやうに、其の文書の全体を読み、全体が何であるかと云ふことが判断出来るやうにして戴きたいと存じます。』



結局、ウェッブ裁判長は、弁護側による真っ当な要請【提出された証拠文書は例え不利な部分があっても全てを読上げる】に対しては何も回答せず、本件裁判を進めてしまいました。弁護側は、当初、検察側に対して言及していたのに、裁判長が割って入り、検察側に代わって裁判長自身が弁護側と言い争うのは異様です。【連合軍による復讐裁判】と評された極東国際軍事裁判の本質が垣間見えたと言えるでしょう。



極東國際軍事裁判速記録. 第59号 (昭和21年8月30日)
[ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269336 ]


(※続き)

〇ウェッブ裁判長 『あなたが御分りになりまするやうに、我々は全部の、本事件に関する全部の様子を承ることになって居りまして、それは結局全部の事件が終りの方に行った時であるのであります。』
[ 小野寺モニター 一寸訂正致します。弁護側に取って一番有効なる、効果のあるやり方と云ふものは、其の全体の全部の意味、之を判断することは、全部の意味が提出される最後になって、弁護人側の番になった時にやる方が有効であると云ふことは、あなたの御承知の筈であります。 ]
『弁護側が提出する証拠は、検察側の後に来るのであります。即ち最後に提出される証拠は、弁護側で提出する証拠であります。でありますから最も我々の記憶にはっきりと残るものであります。』

〇サトン検察官 『只今から中国に於ける「ドイツ」外務当局より、「ベルリン」の本省に宛てた報告書を読上げます。是は当時南京陥落後の状態に付ての報告であります。…』



『東京裁判の国際関係』 日暮吉延著

第三章 検察側と弁護側の裁判準備
第一節 起訴状作成の政治過程 一 容疑者逮捕と日本の対応

1 逮捕の開始
つかの間の清閑な日々を鎌倉の地で送る前外相重光葵が、唐突な戦犯逮捕の使者を迎えたのは、起訴状送達と同日の一九四六年四月二九日のことであった。重光は収監先の巣鴨プリズンにおいて起訴状を読み、次のような所感を日記に書いている。
「日本の侵略戦争は犯罪行為であるとして、平和に対する罪、人道に対する罪、侵略、殺人、不法行為等を羅列し、五十五項目の犯罪事実を掲げ、被告二十八名を各項目に当て嵌めて、各々極刑を要求して居る。一項目でも有罪となれば死刑に値するものである。占領軍は二十八名を選出して、之をA級戦犯の責任者と看做して極刑を課し、血祭りに上げんとするものであることが余りにも明瞭になった。



以上のやり取りを踏まえ、改めて下記の【極東国際軍事裁判による事実認定】を見てみると、明らかになる事があります。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

男子の一般人に対する組織立った大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団ごとに殺害された。兵役年齢にあった中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかっている。



米国公文書等により、【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵】がいた事は歴史的事実なのですが、極東国際軍事裁判による【事実認定】では、それらの支那敗残兵は【存在しなかった事にされた】のです。裁判の行方において、【検察側に著しく不利に働く】為、その存在を葬り去られたと見るべきでしょう。



【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵】は事実認定で【存在しなかった事にされた】


20 中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為
一九三八年一月九日 F・ティルマン・ダーディン

上海十二月二十二日発 ニューヨーク・タイムズ宛航空便

武装を解く
日曜日夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。

軍服と一緒に武器も捨てられたので、通りは、小銃、手榴弾、剣、背嚢、上着、軍靴、軍帽などで埋まった。下関門近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から二ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨場のようになっていた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



一九三八年二月四日 A・T・ステイール
<シカゴ・デイリー・ニューズ>紙外信部特別通信
<シカゴ・デイリー・ニューズ>社版権所有、一九三八年

南京発。……

日本軍が街路をゆっくり巡回して、走ったり疑わしい動きをするものなら誰でも、機関銃と小銃で射殺するようになると、敗退し闘志を失った軍隊はいわゆる安全区になだれこんだ。そこは掃討を受けていない最後の地域の一つであったが、一方、街路は地獄であった。

まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨てていた。町のあちこちで兵士が軍服を投げ捨て、店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を身につけているのを見た。下着だけで歩き回る者もいた。中国の役人の家から盗んだらしい山高帽に下着だけの格好で、ある兵士が得意げに町を散策しているのも見かけた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



145D 南京アメリカ大使館通信 ---- エスピー報告

一九三八年一月二十五日 南京
南京の状況
在漢口アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン宛

ジョンソン・M・アリソン三等書記官
報告書作成 一月十五 --- 二十四日
郵送 一九三八年二月二日

T. 十二月十日後の主な報告
しかしながら、ここで触れておかなければならないのは、中国兵自身も略奪と無縁ではなかったことである。彼らは少なくともある程度まで、略奪に責任を負っている。日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われたのであった。

気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに殺人まで行った。

この時期、退却中の兵士や市民までもが、散発的な略奪を働いたのは確かなようである。市政府の完全な瓦解は、公共施設やサービス機能をストップさせ、国民政府および大多数の市民の退却は、市を無法行為に委ねることになり、混乱を招いたようだ。…

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那敗残兵】をどう解釈するかについては、【国際法解釈】を踏まえる必要がありますので、後の項で改めて検証したいと思います。


次に、下記記載を見てみます。内容を確認すると【占拠】とありますので、【軍隊として統制されていた兵士達】による軍事行動と考えられます。これにより、【一般人五万七千人以上(※の大半)が殺害された】事を認定しています。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。

(※【占拠】 ⇒ 占領する事。「敵の要地を--する」 --- コトバンクから引用)



上記認定の元となったのは、極東国際軍事裁判における支那証人【魯甦】の証言だと思われます。



南京慈善団体及び人民魯甦の報告に依る敵人大虐殺
(※極東国際軍事裁判での南京暴虐事件証言)


敵軍入城後まさに退却せんとする国軍及び難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山付近の四、五箇村に閉じ込め飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。一九三七年十二月十六日の夜間にいたり生残せる者は鉄線を以て二人を一つに縛り四列に列ばしめ下関、草鞋峡に追いやる。

しかる後機銃を以て悉くこれを掃射し更に又銃剣にて乱刺し最後は石油をかけてこれを焼けり。
焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。…

当時私は警察署に勤務しあるも敵市術戦に際し敵砲弾により腿を負傷し上元門大茅洞に隠れ居りその惨況を咫尺の目前に見し者なり。故にこの惨劇を証明し得る者なり。



下関、草鞋峡


【魯甦】は、【国軍及び難民男女老幼合計五万七千四百十八人】と証言しているのですが、【第八章 南京暴虐事件】では、全てを【一般人】と認定した様です。

上記の【魯甦】証言は、【第05項】に記載したいわゆる【幕府山事件】について言及したものだと思われます。この事件も、後の項で再検証します。


次に、下記記載を見てみます。【第八章 南京暴虐事件】において唯一【支那兵捕虜殺害】に言及している箇所です。【集団的に射殺された】の部分より、【軍隊として統制されていた兵士達】による殺害だった事を認定しています。また、この殺害が【無裁判によるもの】だった事も認定しています。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。



上記部分は、【ベイツの回状】の中で同様の認識を確認する事ができます。



154B <アメリカのキリスト者へのベイツの回状>

ロイド・トリエスティノ 聖「コンテ・ベルデ」
香港近くのマドラスへの道沿いにて 一九三八年十一月二十九日

武装解除された中国兵捕虜三万以上が、無慈悲にも虐殺されました。そのほとんどは、川の土手で長い列に並ばされて、機関銃で虐殺されたのです。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



史料からも、日本軍は、支那敗残兵に対する徹底した掃討戦を実施していた事が確認できます。無論、この掃討戦も【総司令官松井大将の断固たる決意】の下で行われたものでした。



第一六師団歩兵第三〇旅団命令 十二月十四日午前四時五〇分 於中央門外

一、敵は全面的に敗北せるも尚抵抗の意志を有するもの散在す。

二、旅団は本十四日、南京北部城内及び城外を徹底的に掃蕩せんとす。

三〜五、(※省略)

六、各隊は師団の指示ある迄俘虜を受付くるを許さず。

七〜十一、(※省略)

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



15 日本軍、三路に分かれて中国軍前線に進撃中

一九三七年十二月十七日 ハレット・アベンド

≪ニューヨーク・タイムズ≫特電
十二月十七日、金曜日、上海発。…

南京への勝利の入城の数時間前に、日本の松井石根大将は用意された声明を発し、勝利の栄光は米英艦船に対する「きわめて不幸な事件」によって損なわれた事実を言い、そしてこう言った。「私は心の底からこれを悔やむものである。」

松井大将は、日本軍は南京入城に示された陸・海・空戦力の成功ではまだ満足するものではない、と宣言した。彼は、「東亜の永続的な平和確立のための現下の掃討戦」を断固としてやりぬくという目的を、繰り返し言明した。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



第九師団歩兵第七連隊 水谷壮一等兵 1937年12月16日の日記

目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みにくる。

市民と認められる者はすぐ帰して、三十六名を銃殺する。皆必死になって助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという。多少の犠牲者は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

飯沼上海派遣軍参謀長は十五日夕方、湯水鎮へ前進してきた方面軍司令部を二回も訪ねて入城式の延期を要請したが、松井指令官は、「時日過早の感なきにあらざるも、余り入城を遷延するも面白からざれば…」(「松井日記」十二月十六日)という漠然たる理由で、十七日の予定を頑として変えなかった。

その結果派遣軍は第九、十六師団に第三師団の一部までを加え、十六日に全軍をあげた徹底的掃蕩作戦を実施する事になる。



尚、下記の【無裁判による殺害】については、【国際法解釈】を踏まえる必要があります。改めて、後の項で再検証したいと思います。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。




次に、下記記載を見てみます。【極東国際軍事裁判所】は、いわゆる【南京事件】における犠牲者総数を軍民合わせて【二十万以上】と認定した様です。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。

これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。



この【犠牲者数二十万人以上】の根拠として、【埋葬団体】による活動記録が上げられています。上記には埋葬団体名が記載されていませんが、【世界紅卍字会南京分会】【南京市崇善堂】を指しています。



第V編 遺体埋葬記録 解題

紅卍字会と崇善堂の埋葬記録は極東国際軍事裁判で法廷証拠とされ、その判決にも「後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、一五万五千に及んだ事実によって証明されている」(『南京大残虐事件資料集』第一巻、三九六ページ)と利用されている。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



両団体における埋葬遺体数の合計は【155,392体】となります。極東国際軍事裁判所が示した認定、【埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって】の部分と一致している事がわかります。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。



----- 『紅卍字会南京分会』および『南京市崇善堂』による埋葬遺体総数 -----

 埋葬団体 南京城内埋葬数 南京城外埋葬数 合計
 紅卍字会南京分会 1,795体 41,330体 43,125体
 南京市崇善堂 7,549体 104,718体 112,267体
 合計 9,344体 146,046体 155,392体

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)


しかしながら、上記の【埋葬活動記録】に対しては、極東国際軍事裁判当時から、その信憑性に対して疑問が呈せられていた様です。特に【南京市崇善堂】は、【活動を示す確実な傍証が無い】ものだったのです。



【南京市崇善堂】の埋葬活動記録についてはその【活動(=埋葬活動)を示す確実な傍証が無い】


『南京大虐殺の証明』 洞富雄著(※歴史学者)

この埋葬表については、弁護団も最終弁論で、その信憑性に関する疑問を鋭くついている。

…次に、(三)の紅卍字会と崇善堂両埋葬隊の埋葬記録の成立年次に関する問題であるが、田中氏は、この記録をいずれも一九四六年(民国三十五年)に調査した「後期資料」であるとし、だから、これは信憑性を欠くと主張する。だが、はたして、この批判はあたっているのであろうか。

田中氏が埋葬記録を一九四六年の調査としているのは、たぶん東京裁判の最終弁論で、「前記各証は南京が日本軍に占領せられて後、実に十箇年を経過したる一九四六年に調査せられたりと称せらるゝものにして、その調査が如何なる資料に基き為されたるや判明せず。殊に死体の数に至りては十箇年後に之を明確にすること殆ど不可能なりといふべく、此処にかゝげられたる数字は全く想像によるものと察するの外なし」(「南京事件資料集」T、三七一ページ)と論じているのによっているのであろう。

一九四六年成立はだいたい当たっているのであるが、正確にいえば、前年の暮に作成されていたわけである。一九八四年末、訪中した南京事件研究会の代表団は、南京市档案館に収録されている紅卍字会埋葬表の複写を持ちかえっているが、これをみると、その日付は一九四五年十二月十七日となっている。崇善堂の方は日付を欠くが、やはり同じころの作成と推測される。…



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

東京裁判に提出された慈善団体の紅卍会による四万三〇七一体、崇善堂が一一万二二六六体という埋葬記録は、二〇〜三〇万規模の虐殺を裏づけるデータとして重視されてきた。しかし紅卍字会の活動が日本軍の公式記録や新聞にも出現するのに対し、崇善堂については活動を示す確実な傍証が見つかっていない。



『百人斬り競争と南京事件』 笠原十九司著(※歴史学者)

先の判決の根拠になった崇善堂が埋葬した11万2267体について、崇善堂記録では4月が10万4718体となっているが、同史料に収録された「南京市慈善団体調査表」には崇善堂の埋葬活動は38年1月23日から始まり3月29日に停止とされている(同史料集145頁)。他の史料で確認する必要があるが、そうだとすれば、10万4718体の埋葬数に疑問が生じることになる。

同史料を編集した孫宅魏は、埋葬史料の統計には、大小さまざまな慈善団体間で同一地域における重複が見られるので判決文に見られるような単純な加算は不可であると指摘している。



第V編 遺体埋葬記録 解題

紅卍字会とともに、埋葬に当たったと言われるのが崇善堂埋葬隊である。資料68は崇善堂埋葬隊の埋葬一覧表である。これも恐らく何かの原資料をもとに戦後整理されたものと見られる。崇善堂埋葬隊がわずかの期間に、それも少人数で紅卍字会埋葬隊の二倍以上の遺体を埋葬していることを不自然と考え、崇善堂の資料を捏造であると非難する見解もある。

しかし、三八年十二月六日付で資金補助を要請している次の資料71を見てもわかるように、当時南京に崇善堂という慈善団体が存在し、埋葬もおこなっていたことは否定しがたいところである。ただし、埋葬記録の数字については確かに慎重な取り扱いが必要と思われる。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



『いわゆる「南京事件」の不法殺害』 軍事史学会編 原剛(※軍事史研究家)

南京特務機関員として死体の埋葬作業を監督していた丸山進は、死体の埋葬作業を実施するに際し城内外を巡視したが、中山門および通済門外など市の東部地区には遺棄死体は少なく、また埋葬作業は三月でほとんど終わったと証言している。

丸山進が埋葬作業は三月でほとんど終わったと証言しているように、紅卍字会の埋葬記録を見ると確かに九割方終わっている。にもかかわらず、崇善堂は四月九日から五月一日の間に城外で一〇万四七一八体埋葬したというのは、全く不可解である。

また、埋葬作業監督者の丸山進は、埋葬作業は一括して紅卍字会に委託したので、崇善堂などの弱小団体は紅卍字会の下請けをしたと考えられ、その作業量は一括して紅卍字会の作業量に組み込まれていると証言している。以上の点から、崇善堂の埋葬記録は、殺害数を増やすための戦犯裁判用の資料として捏造されたものと考えられ、全く信憑性がないと判定せざるを得ない。



【埋葬団体】による活動記録もさることながら、支那側の提示した犠牲者総数は、【各種の数字が同じ報告書に混在していた】様で、その信憑性は疑わしいものでした。



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

…中国政府からは、陳光虞検事が「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」を提出した。

四五年十一月から四六年二月にかけ生存者の証言を集め、紅卍会の埋葬記録などを整理して「調査未了」と断ってはあるものの、「被殺者確数三四万人」、「確定既に三〇万に達し、此外尚未だ確証を得ざる者合計二〇万人を下らざる」、「集団屠殺二〇余万人」といった各種の数字が同じ報告書に混在していた。

さらに九月には、陳検事が南京の罪行調査委員会で三九万一七八五人という数字を報告し、五〇万以上という見積りも持ちだしたらしいが、これらの数字は具体的証拠があったわけではないと南京大学歴史系発行の研究書(『証言・南京大虐殺』参照)は論評している。

こうした混乱ぶりをもてあましたのか、東京裁判の一般判決も非戦闘員一万二千人、便衣兵二万人、捕虜殺害三万以上、避難民五万七千(以上の計は約一二万)と報告書から拾い出したあと「数日の見積りによれば、…最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は二〇万人以上」「強姦事件は二万件」と認定した。

一説によると二〇万人は証人として出廷した許伝音博士(国民政府官吏)が、殺害された「中国人一般人の総数は二〇万人内外」と陳述したのを採用したものだという。




次に、下記記載を見てみます。【第八章 南京暴虐事件】の中で、【松井大将】について言及している部分です。その内容は、【松井大将は南京で行われている残虐行為を聞いていたのに何もしなかった】というものでした。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。

松井が南京にいたとき、十二月十九日に市の商業区域は燃え上っていたという証拠が、一人の目撃者によって、本法廷に提出された。この証人は、その日に主要商業街だけで、十四件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかった。



ここで、【第02項】で説明した【訴因】という言葉を思い出して下さい。【訴因】とは、【検察側が認定した具体的犯罪事実】の事でした。



裁判における【訴因】とは【検察側により認定された具体的犯罪事実(=事実認定)】の事


【訴因】(※『有斐閣 法律用語辞典 内閣法制局法令用語研究会編』から引用)
:起訴状に記載される公訴事実に明示すべき犯罪事実の要点。



【訴因】(※コトバンクから引用)
:刑事手続上、検察官が裁判所に対して審判を求める具体的犯罪事実の主張。



訴因は、検察官が捜査によって到達した事実認定の結論である。
(※『ロースクールのための刑事事実認定論試稿(1) 大宮法科大学院大学』から引用)



いわゆる【南京事件】に対して【検察側が認定した具体的犯罪事実】は、当初は【訴因45】にまとめられていました。その内容は、【松井大将】【不法に命じ為さしめ、且許された】というものでした。



第二類 殺人の罪 訴因 第四十五

被告荒木、橋本、畑、平沼、広田、板垣、賀屋、木戸、松井、武藤、鈴木及び梅津は、千九百三十七年(昭和十二年)十二月十二日及び其の後引続き、本件訴因第二記載の条約条項に違背して南京市を攻撃し、且国際法に反して該住民をおう殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ、且許すことにより、不法に、目下其の氏名及び員数不詳なる数万の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる軍隊を、殺害し殺戮せり。



ところが、【第八章 南京暴虐事件】では、【松井大将は南京で行われている残虐行為を聞いていたのに何もしなかった】との認定に変わっていたのです。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。



上記は、【不作為】と呼ばれるもので、【許すこと(=許可・黙認)】とは異なる概念です。



【不作為】(※『有斐閣 法律用語辞典 内閣法制局法令用語研究会編』から引用)
:何もしないこと、又は期待される行為をしないこと。



【不作為】(※コトバンク --- 世界大百科事典 第2版の解説)
:現在の事実・事象に対して積極的に働きかける行動をとらず、それらの事実・事象を放置する事。



つまり【極東国際軍事裁判所】は、【検察側が認定した具体的犯罪事実】である【訴因45】とは異なる認識を示したという事になります。


以上が、【極東国際軍事裁判】において示された、いわゆる【南京事件】に対する【事実認定】です。

改めて確認すると、その全ての【事実認定】が何らかの史料・証言に拠っている事は認められますが、内容が変えられてる箇所も散見できます。

また、認定された【残虐行為】は、【軍隊として統制されていない兵士達】によるものと、【軍隊として統制されていた兵士達】によるものの二種類がある様です。



【軍隊として統制されていない日本軍兵士達】により行われた【残虐行為(=事実認定)】


第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・掠奪・放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。

他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少くとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。




【軍隊として統制されていた日本軍兵士達】により行われた【残虐行為(=事実認定)】


第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

男子の一般人に対する組織立った大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団ごとに殺害された。兵役年齢にあった中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかっている。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。

(※【占拠】 ⇒ 占領する事。「敵の要地を--する」 --- コトバンクから引用)



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。



通常の裁判においては、この【事実認定】に対して、【法の適用】が為され、有罪・無罪の【判決】が導かれる事になります。



裁判の基本構造 (※【事実認定】と【判決】の関係)

裁判所による【事実の認定】 ⇒ 認定された事実に対する【法の適用】 ⇒ 有罪・無罪の【判決】

(※【判決】には【理由を付す事】を要します。)



次項では、上記の【事実認定】に対して、【極東国際軍事裁判所】が、どの様な【判決(=有罪・無罪の判断)】を下したのかを確認したいと思います。




--【第08項】 第八章『南京暴虐事件』で認定された事 【後編】--

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