-- ◆【第03章】 いわゆる『南京事件』と非戦闘員の犠牲者数◆ --

--【第24項】 『安全区』と『南京の不幸な市民』 【前編】--

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では、【1937年12月13日の日本軍による南京占拠】以降、【南京の不幸な市民】達は、何処でどの様に過ごしていたのでしょうか。これについては、現存している各史料の全てが同様の状況を報告しています。南京市に残留していた【南京の不幸な市民】の大多数は、【安全区】に避難していたのです。



【1937年12月13日の日本軍南京占拠後】南京の不幸な市民の大多数は【安全区に避難していた】


145D 南京アメリカ大使館通信 ---- エスピー報告

一九三八年一月二十五日 南京
南京の状況
在漢口アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン宛

ジョンソン・M・アリソン三等書記官
報告書作成 一月十五 --- 二十四日
郵送 一九三八年二月二日

T. 十二月十日後の主な報告
南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京市の防衛は、わずかに五万人の兵士に任されていた。さらに、このうちのかなりの兵士が、南京陥落後に北門、西門、および城壁を越えようとしたり、また退却中に日本軍と戦いながらの逃走を試みた。

中国軍は軍事上の必要から、障害物などを除去するため、城外の広い範囲に放火した。しかし、退却中の中国兵による城内での放火・破壊・略奪等はほとんどなかった、とアメリカ人らは強調した。それゆえ、日本軍が南京に入城したとき、実際には南京は無傷のままであった。

住民の五分の四は逃げ去っていたが、残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる「安全区」に避難していた。

U. 南京の現況
ここには南京の実情と、当地の政治・経済に関する様々な論評の概要を記す。…

南京の政治および経済状況
南京には政治・経済の実体は存在していないといってもよいかと思う。事実、南京は日本軍の野営地にほかならない。市の人口、およそ一〇〇万人のうち、現在二〇 -- 二五万人が残留し、そのほとんどが貧民階級の人たちである。大多数が「安全区」内の建物や臨時に設けた野営地にすし詰めとなっている。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



63D <南京の状況 --- 一月十日>

発信: 一九三八年一月十日
TRUE READING グレイ暗号・コード 暗号作成JMA
漢口米大使館、ワシントン国務長官宛

第一〇号 一月十日午後四時
…市内には、ここにいる少数の外国人グループのほかに、およそ二〇万人といわれる中国人難民が、いわゆる「安全区」に終結している。強い反対を受けなければ、アメリカ大使も中国政府にこのことを伝え、南京に対する無差別爆撃を控えるよう要請することが望まれている。

漢口大使館へ送信、国務省へ転電 アリソン

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



149D <イギリス領事の南京虐殺に関する報告>

JS グレイ暗号電報
発信: 上海、海軍無線局経由
受信: 一九三八年二月三日午後八時三〇分
ワシントン国務長官宛

第一九九号、二月三日真夜中一二時
以下は東京電報(二月三日午後六時発信)。
大使館電報第七三号(二月三日午後六時発信)として国務省へ転電されたし。

<極秘>
在南京イギリス領事の一月二十八日付の以下の報告を、国務省の現地情報を豊かにすると思われるので転電する。…

中国人のうち、ほとんどが貧しい階級の人たちが安全区に集中している。人数は約二〇万人である。アメリカ人とドイツ人からなる安全区委員会が成し遂げた仕事は、あらゆる賞賛というものを超越した行為である。彼らの存在のみが安全区の相対的安全性を確保できたし、彼らの勇敢な介入があったから、ひとりひとりへの襲撃から、多くの人々を守れたこともまったく疑う余地がない。…

以下はイギリス領事の一月二十九日付の報告に記された南京の状況観察の続きである。「軍中央の統制が欠けているために、軍隊の無秩序は続いている。不法行為の多くは略奪である。『浪人』(軍隊にくっついて寄生している民間人)が市内に出現しはじめた。彼らは将来、トラブルのもとになりそうな気配を示している。二五万人の中国民間人の難民の問題は、二月四日までに解消されなければならない。彼らのほとんどは行く所もないし、生活を維持する手段をもたない。…」

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



【安全区外】に留まっていた【南京の不幸な市民】の人数は、上記史料からは正確に伺う事はできませんが、【ラーベの日記】から、その概要を伺う事ができます。



『ラーベの日記』 1938年1月17日
THE DIARIES OF JOHN RABE

安全区内の人口の推定値は今や約25万人である。増えた5万人は市の破壊された場所から来ている。

Estimates of the total population of the Zone are now around 250,000. The increase of about 50,000 comes from the ruined parts of the city.



つまり、当初は【安全区の避難民は約20万人】でしたが、その後【安全区外】からの流入があり、1938年1月17日の時点では、【安全区の避難民は約25万人】に膨れ上がっていたという事になります。日本軍の認識も同様で、最終的に【安全区の避難民は約25万人】との判断を示しています。



THE NORTH-CHINA DAILY NEWS 一九三八年一月九日(日)

南京、平常にもどる
南京の状態について、二十五万人の避難民は昨日、前中国首都の彼らの自宅に帰ることを許可された。

奥村勝造・日本大使館三等書記官は、昨夜の記者会見で、南京二五万人の避難民は、自分の家に帰ることを許されたと発表した。奥村氏は、南京残留の中国人の数は、毎日増えつつあり、”これは何処からともなく現われる中国人の類い希な(生存)能力の賜物と言える”と述べた。最初の推定では、非公認難民区の中国人は一五万人と見られていた。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



南京特務機関 南京班第二回報告(二月中状況)

(一)南京市自治委員会の成立
入城当時に於ける城内難民数は大体約二十五万と言はれ国際委員会の設定せる所謂難民区に蝟集して宛然乞食の都なるの形観を呈し

治安維持復興進捗上甚しき障害を形成したるのみならず国際委員会の統轄下に於て所謂欧米依存の弊風を難民の胸底に強く浸潤せしむるが如き傾向にありたるを以て

可及的早急に自治委員会を組織せしめ自立自治の規範を確立すべく特務機関の指導下に昭和十二年十二月二十三日自治委員会準備委員会を組織せしめ該委員会に於て諸般の準備を完了し

昭和十三年一月一日鼓楼に於て南京市自治委員会の正式発会式を挙行し其の庁舎を旧首都警察庁に置きたり

自治委員会の組織は附表一参照

(※『十五年戦争極秘資料集 第十三集 華中宣撫工作資料 井上久士 不二出版』から引用)



となると、1938年2月初旬、いわゆる【南京事件】の終わり頃の【南京市人口は25万人】でしたので、【南京市に残留していた市民のほぼ全てが安全区に避難していた】という事になります。



【陥落後(※1938年02月14日)】 --- 南京市人口は【25万人】(※『南京アメリカ大使館宛書簡』)


149D <イギリス領事の南京虐殺に関する報告>

JS グレイ暗号電報
発信: 上海、海軍無線局経由
受信: 一九三八年二月三日午後八時三〇分
ワシントン国務長官宛

第一九九号、二月三日真夜中一二時
以下は東京電報(二月三日午後六時発信)。
大使館電報第七三号(二月三日午後六時発信)として国務省へ転電されたし。

<極秘>
在南京イギリス領事の一月二十八日付の以下の報告を、国務省の現地情報を豊かにすると思われるので転電する。…

中国人のうち、ほとんどが貧しい階級の人たちが安全区に集中している。人数は約二〇万人である。アメリカ人とドイツ人からなる安全区委員会が成し遂げた仕事は、あらゆる賞賛というものを超越した行為である。彼らの存在のみが安全区の相対的安全性を確保できたし、彼らの勇敢な介入があったから、ひとりひとりへの襲撃から、多くの人々を守れたこともまったく疑う余地がない。…

以下はイギリス領事の一月二十九日付の報告に記された南京の状況観察の続きである。「軍中央の統制が欠けているために、軍隊の無秩序は続いている。不法行為の多くは略奪である。『浪人』(軍隊にくっついて寄生している民間人)が市内に出現しはじめた。彼らは将来、トラブルのもとになりそうな気配を示している。二五万人の中国民間人の難民の問題は、二月四日までに解消されなければならない。彼らのほとんどは行く所もないし、生活を維持する手段をもたない。…」

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



109B 南京アメリカ大使館宛書簡 --- 二月十四日
一九三八年二月十四日 南京アメリカ大使館 拝啓 アリソン殿



110B 南京における救済状況 一九三八年二月十四日 ベイツ

1. 難民の状況
十二月後半の難民キャンプの人口は、最高時に二五キャンプに六万九四〇六人であった。一月二十五日にはちょうど六万人であった。今現在、二四キャンプに三万五三三四人収容している。これは、難民は二月四日以前にキャンプを出るようにという命令が、一月二十八日に日本軍当局から自治委員会に出されてから、二万五〇〇〇人の減少があったことを意味する。…

日本当局による自宅帰宅者の登録の報告に基づけば、一月に二五万人であったのに対して、現在は一五万人が安全区に残っている。…

この二五万人の人口を食べさせるためには、一日につき一六〇〇袋の米が必要である。…

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



【安全区】に避難せずに、そのまま【安全区外】に留まり続けた【南京の不幸な市民】は、ごく僅かだったという事になります。【南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告(※一九三八年冬季)】によると、【安全区外の市民は数千人】と報告されています。



111B 南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告 ---- 一九三八年冬季

南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにもかかわらず、二五万人が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まってさらに悲惨なめにあうことになった。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



南京市陥落時点



では、【数千人しか留まっていなかった安全区外】の状況とは、どの様なものだったのでしょうか。



111B 南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告 ---- 一九三八年冬季

南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにもかかわらず、二五万人が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まってさらに悲惨なめにあうことになった。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



まず、【南京城外】地域を見てみると、支那軍による【焼き払い(※「清室空野」作戦)】が行われていた事が確認できます。その範囲は、【南京城内から半径10マイル(=約16km)】に及ぶ広大なものだった様です。



支那軍は軍事上の必要のため【南京城から半径10マイル以内の町の建物や障害物を焼き払った】


44D 南京の状況 ---- 十二月七日

海軍無線 DJ EB
グレイ暗号文電報
発信: 南京
受信: 一九三七年十二月七日午後二時

ワシントン国務長官、漢口、北平米大使館、上海米総領事館宛

第一〇〇七号 十二月七日午前十一時
…下関区とイギリス大使館近くの村で略奪を行った科で、六人の兵士が処刑された。その他、城外で中国軍が砲撃しやすいようにと周辺一帯の村々を焼き払ったために混乱が発生しているものの、市内は概して平静である。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



6 南京郊外で中国軍抗戦中、一週間は堅持するか 一九三七年十二月八日

中国軍抵抗中 F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ特電≫

焼却はさらに続く
中国軍による防衛線内の障害物の焼却が続けられていた。中山陵園の中国高官の宏壮な邸宅も昨夕燃やされたところに含まれる。南京は深い煙の層によって囲まれた。昨日、中国軍が半径一〇マイル以内の町の建物や障害物を焼き払い続けたからだ。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



30 運命を待つ南京防衛軍、戦いはただ名誉を救うのみ 一九三七年十二月九日

◇燃える郊外地域
◇中国軍、敗北時に市を破壊か

A・T・スティール

≪シカゴ・デイリー・ニューズ≫紙外信部特電
≪シカゴ・デイリー・ニューズ≫社版権所有、一九三七年

南京、十二月九日発。…
中国の首都防衛軍は自らの覆いを織っている。頭上に重苦しく垂れ込めた煙の幕、中国軍の銃・砲撃のため戦場を清野にしようと燃やされた郊外地区から、城壁を越えて町の中に大波となって広がる煙。

諸々の徴候からすると、中国軍は城壁の全周囲約一マイル以上にわたって、そのもたらす代価や苦しみにもかかわらず、一帯を清野にしようとしている。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



20 中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為 一九三八年一月九日

◇南京侵略軍、二万人を処刑
◇日本軍の大量殺害 --- 中国人死者、一般市民を含む三万三千人
◇征服者の狼籍
◇暴行、根深い憎悪を浸透さす --- 中国軍による放火、甚大な被害をもたらす

F・ティルマン・ダーディン
上海十二月二十二日発 ニューヨーク・タイムズ宛航空便

中国軍、焼き払いの狂宴
日本軍が句容を通過し、さらに進撃したことは、中国軍に放火の合図を送ったことになった。これは城壁周辺での抵抗の最後の準備であったことは明らかだ。中国の「ウエスト・ポイント」である湯山には、砲兵学校、歩兵学校、蒋総統の臨時の夏季司令部が置かれていたが、ここから一五マイル先の南京にかけての地方は、ほとんどの建物に火がつけられた。村ごとそっくり焼き払われたのである。中山陵公園にある兵舎と官舎、近代科学兵器学枚、農事研究実験所、警察訓練学校、その他多数の施設が灰燼に帰した。焼き払いのたいまつは南門周辺や下関でも使われた。これらの地区は、そこだけで小さな町をなしていた。

中国軍の放火による財産破壊を計算すると、簡単に二千万、三千万ドルを数えることができるが、これは日本軍の南京攻略に先駆けて、数ヵ月間にわたって行われた南京空襲の被害より大きい。しかし、おそらくこれは、南京攻撃中の爆撃の被害や市占領後における日本軍部隊による被害に匹敵するだろう。

中国軍部は、市周辺全域の焼き払いは軍事上の必要からだと常に説明していた。城壁周辺での決戦において、日本軍に利用されそうなあらゆる障害物、援護物、設備はすべて破壊することが肝要であるというのだ。このため、建物だけでなく、樹木、竹薮、下草までが一掃された。

中立的立場の者からみると、この焼き払いは大部分が、中国のもう一つの「大げさな宣伝行為」であり、怒りと欲求不満のはけぐちであったようだ。中国軍が失い、日本軍が利用するかもしれないと思われるものは、ことごとく破壊したいという欲望の結果であり、極端な「焦土」政策は、日本軍に占領される中国軍の地域は、役にたたない焼け跡だけにしておきたいということである。ともかくも、中立的立場の者の間では、中国軍の焼き払いは軍事的意義がほとんどないという見方で一致している。多くの場合、焼け焦げた壁はそのまま残り、火災を免れた建物と同様に、機関銃兵にとり格好の遮蔽物となった。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



145D 南京アメリカ大使館通信 ---- エスピー報告

一九三八年一月二十五日 南京
南京の状況
在漢口アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン宛

ジョンソン・M・アリソン三等書記官
報告書作成 一月十五 --- 二十四日
郵送 一九三八年二月二日

T. 十二月十日後の主な報告
南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京市の防衛は、わずかに五万人の兵士に任されていた。さらに、このうちのかなりの兵士が、南京陥落後に北門、西門、および城壁を越えようとしたり、また退却中に日本軍と戦いながらの逃走を試みた。

中国軍は軍事上の必要から、障害物などを除去するため、城外の広い範囲に放火した。しかし、退却中の中国兵による城内での放火・破壊・略奪等はほとんどなかった、とアメリカ人らは強調した。それゆえ、日本軍が南京に入城したとき、実際には南京は無傷のままであった。

住民の五分の四は逃げ去っていたが、残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる「安全区」に避難していた。…

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

本来なら、城外で停止して攻城重砲で城壁と城内拠点を十分に破壊してから歩兵の攻撃に移るのが常道だったが、一番乗りをめざして突進する各部隊は、われがちに城壁外側の中国軍陣地につっかけ、乱戦におちいっていた。しかも、退却する中国軍は、城壁から一〇マイル以内の城外村落数百か所をことごとく焼き払う「清室空野」作戦を実行した。宿営家屋は乏しく、徴発しようにも物資は皆無に近い。



『はてなキーワード』から引用 --- 『南京大虐殺』
[ http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%EE%B5%FE%C2%E7%B5%D4%BB%A6 ]

肯定派の笠原十九司教授でさえ「中国軍は南京城塞の周囲1〜2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある村落と民家を強制的に焼き払った」としている…



半径16km


(※上の地図は、【南京城の中心】から【半径10マイル(=約16km)】を示しています。【南京城の城壁】から【半径10マイル(=約16km)】とするなら、上地図より更に広い範囲になります。)

上記の【焼き払い(※「清室空野」作戦)】に先立ち、支那軍司令官唐生智は、【全ての非戦闘員は安全区に避難する事】との布告を出していた様です。また、南京安全区国際委員会も、南京残留市民に対して【安全区への避難を呼びかけるビラ】を配布していました。



6 南京郊外で中国軍抗戦中、一週間は堅持するか 一九三八年十二月八日

中国軍抵抗中 F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ特電≫

十二月八日、水曜日、南京発。昨日、侵略軍の三部隊が南京より一〇マイルの半円状の陣地に達し、南京の外囲防御線陣地を巡る戦闘が日中間で始まった。…

非戦闘員隔離される
南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地域に入ったと宣言し、すべての非戦闘員は国際管理下の安全区に集結しなければならない、と布告した。市内他地区での非戦闘員の移動は、黄色の腕章に特別の印で示されている特別許可所有者を除いて、禁じられる。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



73B 南京市民に告げる書

…この区域の境界にはすべて旗を使って目印がしてあります。旗には赤十字のマークが描いてありますが、それ以外に赤丸のマークもあります。さらにまた、旗には「難民区」の三字が書いてあります。

上述の区域を民間人のための安全の場所とするために、防衛軍司令官は、本区域内の兵士および軍事施設を一律に速やかに撤去し、以降いっさい軍人を本区に入れないことを承諾いたしました。

日本は一方では「指定された区域に対して爆撃しないと請け負うことはすこぶる困難である」と言いながら、また一方では「日本軍は、軍事施設がなく、軍事用工事・建設がなく、駐屯兵がおらず、さらに軍事的利用でないような場所に対してはすべて、爆撃する意図をけっして持っていない、それは当然のことである」と述べています。

以上のような中日双方の承諾に鑑みて、われわれは指定された区域にいれば、民間人は真に安全であるという希望をもっています。しかしながら、戦時下にあっては、何人といえども、その安全を保証することができないのは、当然です。

それでもわれわれは、もし中日双方が共に彼らが承諾したことを遵守すれば、この区域内の人民は他のところの人民にくらべて、ずっと安全であることは間違いないと、信じています。したがって市民の皆さん、本難民区へおいでになってはいかがでしょうか!

南京難民区国際委員会 民国二十六年(一九三七)十二月八日 (※原文は中国語のビラ)

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



【下関】地区では、1937年12月7日(※下記文中の「昨夜」に注意)、警官が地区住民の家一軒一軒をまわって【浦口へ行くように警告】した後、【焼き払い(※「清室空野」作戦)】が行われた様です。



47D <南京の状況 --- 十二月八日>

海軍無線 HC EB
グレイ暗号文電報
発信: 南京
受信: 一九三七年十二月九日午前九時
ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館宛

第一〇一五号 十二月八日午前一〇時
一、市長はすでに去ったと確信される。数日前から我々のところに地方当局との折衝を援助するといってやってきた二人の下級外交部職員も、今はどこかに消えてしまったようだ。[※ユウ]江門を通って江岸へ出ていくのは今でも容易であるが、中国人はそこから城内に入ることは許されていない。昨夜警官が、城壁の外側の下関区の家々を一軒一軒まわって、長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。

二、郊外の家々を焼き払う煙が南京の上空ならびにあたり一面にただよい、空気が霞んでいる。昨日の午後、私とロバーツが湯山道路の孝陵衛を通ったところ、見すぼらしい家々がすべて焼かれていた。全村が火の海で、辛うじて本道だけを車で通過することができた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



50D 南京のアメリカ人の保護

海軍無線 EB 平文電報
発信: 南京
受信: 一九三七年十二月九日午後一〇時

ワシントン国務長官、漢口、北平米大使館、上海米総領事館宛

第一〇二四号 十二月九日午後四時
…我々が[※ユウ]江門を通過した時、門を土嚢で封鎖する作業が進められており、また城外の下関の広い範囲と城壁の近くが焼き払われていた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



下関


【西門(※漢中門)外】の村では、1937年12月8日(※下記文中の「昨夜」に注意)、【村を焼き払うので夜中までに出て行くように】との命令が出されていた様です。



30 運命を待つ南京防衛軍、戦いはただ名誉を救うのみ 一九三七年十二月九日

◇燃える郊外地域
◇中国軍、敗北時に市を破壊か

A・T・スティール

≪シカゴ・デイリー・ニューズ≫紙外信部特電
≪シカゴ・デイリー・ニューズ≫社版権所有、一九三七年

南京、十二月九日発。…

中国の首都防衛軍は自らの覆いを織っている。頭上に重苦しく垂れ込めた煙の幕、中国軍の銃・砲撃のため戦場を清野にしようと燃やされた郊外地区から、城壁を越えて町の中に大波となって広がる煙。

諸々の徴候からすると、中国軍は城壁の全周囲約一マイル以上にわたって、そのもたらす代価や苦しみにもかかわらず、一帯を清野にしようとしている。昨夜、私は西門(漢中門)外の村を訪ねた。村人は急いで持ち物を集め、南京の「難民区」に行く用意をしていた。村を焼き払うので夜中までに出て行くように、と軍隊が命じたのだという。

「難民区」はすでに蟻塚のように人々が殺到している。今朝、西の丘陵に立ちのぼった茸状の煙は最悪の事が起こったことを伝えた。三日にわたってこの近郊地区の焼却が続いた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



漢中門


【南門(=中華門)】近くの人口密集地区でも、【下関】地区他と同様に【焼き払い(※「清室空野」作戦)】が行われたとあります。



7 日本軍の放つ火に囲まれ、山頂で中国兵三〇〇虐殺さる 一九三八年十二月九日

◇迫る火にすくむ兵士を機関銃でなぎ倒す
◇南京戦は日本軍を挫く
◇外交官、首都より避難

F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ特電≫

双方とも多大な損害
…南京での中国軍の防衛作業の特徴は、相変わらず建物の全面的焼却である。南門近くの人口密集地区全体から住民が追い立てられて、市の安全区に送り込まれ、この小都市一つくらいの規模の地区が燃やされていた。同様に、下関駅近くのモデル新村一つが焼却された。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



中華門


同様の記載は、【ラーベの日記】【ミニー・ヴォートリンの日記】でも確認する事ができます。



『ラーベの日記』 1937年12月7日
THE DIARIES OF JOHN RABE

城門の外の家々は全焼している。住民は、火が放たれた全ての周辺地区から我々の安全区へ逃げる様に指示されている。安全区は、結局のところ、ひそかに認識されてしまっていたのだ。

Houses outside the gates are being burned down. The population from all the suburbs that have been set on fire is being ordered to flee to our Safety Zone, which has quietly been accorded recognition after all.



『ミニー・ヴォートリンの日記』 1937年12月7日
DIARY OF WILHELMINA VAUTRIN

噂が市内を飛び交っている。南門から来た何千人もの人々が、安全区内に押し寄せてきた。警察から5時までに立ち退く様に命令されていて、そうしなければ彼らの家は燃やされ、彼らはスパイと見なされるらしいのだ。

Rumors are rife in city. Thousands of people from South Gate crowded into the Zone saying the police ordered them out by 5 o'clock, or their houses would be burned and they would be considered spies.



『ミニー・ヴォートリンの日記』 1937年12月8日
DIARY OF WILHELMINA VAUTRIN

今夜、我々は最初の避難民を受け入れている。そして何とも胸が張り裂ける様な話を彼らはしてくれた。彼らは中国軍によって直ちに家から立ち退く様に命令されていて、もし従わなければ、彼らは反逆者と見なされ、銃殺されるらしい。彼らが軍の計画を邪魔するものなら、場合によっては彼らの家を燃やされる。避難民のほとんどは、南門近くや市の南東地区から来ている。

This evening we are receiving our first refugees - and what heartbreaking stories they have to tell. They are ordered by Chinese military to leave their homes immediately if they do not they will be considered traitors and shot. In some cases their houses are burned, if they interfere with the military plans. Most of people come from near South Gate and the southeast part of city.



この支那軍による【焼き払い(※「清室空野」作戦)】について、【ニューヨークタイムズ非常勤通信員F・ティルマン・ダーディン】は、この様に報告しています。



20 中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為 一九三八年一月九日

◇南京侵略軍、二万人を処刑
◇日本軍の大量殺害 --- 中国人死者、一般市民を含む三万三千人
◇征服者の狼籍
◇暴行、根深い憎悪を浸透さす --- 中国軍による放火、甚大な被害をもたらす

F・ティルマン・ダーディン
上海十二月二十二日発
ニューヨーク・タイムズ宛航空便

中国軍、焼き払いの狂宴
日本軍が句容を通過し、さらに進撃したことは、中国軍に放火の合図を送ったことになった。これは城壁周辺での抵抗の最後の準備であったことは明らかだ。

中国の「ウエスト・ポイント」である湯山には、砲兵学校、歩兵学校、蒋総統の臨時の夏季司令部が置かれていたが、ここから一五マイル先の南京にかけての地方は、ほとんどの建物に火がつけられた。村ごとそっくり焼き払われたのである。

中山陵公園にある兵舎と官舎、近代科学兵器学枚、農事研究実験所、警察訓練学校、その他多数の施設が灰燼に帰した。焼き払いのたいまつは南門周辺や下関でも使われた。これらの地区は、そこだけで小さな町をなしていた。

中国軍の放火による財産破壊を計算すると、簡単に二千万、三千万ドルを数えることができるが、これは日本軍の南京攻略に先駆けて、数ヵ月間にわたって行われた南京空襲の被害より大きい。しかし、おそらくこれは、南京攻撃中の爆撃の被害や市占領後における日本軍部隊による被害に匹敵するだろう。

中国軍部は、市周辺全域の焼き払いは軍事上の必要からだと常に説明していた。城壁周辺での決戦において、日本軍に利用されそうなあらゆる障害物、援護物、設備はすべて破壊することが肝要であるというのだ。このため、建物だけでなく、樹木、竹薮、下草までが一掃された。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



以上より、【南京城外】地域は、支那軍による【焼き払い(※「清室空野」作戦)】のため、多数の【南京の不幸な市民】が留まれる状況になかった事が確認できます。


では、【南京城内〜安全区外】の状況はどうだったのでしょうか。



南京城内


これについては、あまり考慮する必要は無いと思われます。その理由は、【南京城内〜安全区外】では、【数千の死体が横たわるような虐殺は発生していない】からです。



1998年12月23日号「SAPIO」に掲載された笠原十九司氏の論文(抜粋)

拙著『南京事件』(岩波新書)・『南京難民区の百日』(岩波書店)を読んで下されば分かるように南京城内では、数千、万単位の死体が横たわるような虐殺は行われていない。集団虐殺のほとんどが城外、郊外、長江岸でおこなわれたのである。

(※『南京の実相 日本の前途と歴史教育を考える議員の会監修』から引用)



南京城内


【南京城内〜安全区外】には、ほとんど人が居なかった様です。【スマイス報告】【日本軍兵士の証言】で、同様の認識を確認する事ができます。



【都市の南部の人口過密区域】は市が危機的な状況だった時は【事実上の無人地帯】となっていた


『スマイス報告』

"WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA" December, 1937 to March, 1938
URBAN AND RURAL SURVEYS By Dr. Lewis S. C. Smythe

1. 市部調査
1. 人ロ
都市の南に位置する本来は過密した区域(城西・門西・門東)は、危機的な時期の事実上の無人地帯から、最初にかなりの回復を見せた区域であった。全体で81,000人、総人口の37%に当たる居住者がいた。(市政府の居住者記録によれば、6月までには居住者は2倍になっていた。)

1. CITY SURVEY
1. POPULATION
The normally crowded sections in the southerly portions of the city (Cheng, Hsi, Men Hsi, Men Tung), were the first to show a fair degree of recovery from the practically complete depopulation of the critical period. Together they had 81,000 residents, 37 per cent of the total. (By June this number of residents had doubled, according to the City Government records of registration.)



市南部



南京城内には【人の姿はなく】物音一つしない死の都市でただ【不気味な静寂】に包まれていた


都新聞記者小池秋羊氏 十三日南京入城の際の証言

城内はどの家も空き家で、物音一つしない死の都市でした。犬・猫の姿一つ見受けられず、不思議な妖気が漂い、街路は激戦の跡とも見受けられない整然とした街並みで、びっくりしてしまいました」

(※『「南京事件」の総括 田中正明著』から引用)



第十軍通信隊野戦電信第一中隊 島田親男氏 十三日南京入城の際の証言

城内には人の姿もなく、静まり返っていて、非常に不気味な様子でした。『がらん』とした感じです。結局、銀行だった建物の中に第六師団の司令部が設置されたのですが、私はそこで通信業務を行うことになりました。」

(※『松井石根と南京事件の真実 早坂隆著』から引用)



第九師団歩兵第十八旅団歩兵第五十九連隊第四中隊隊長 土屋正治中尉
十三日南京入城の際の証言


「城壁こそ砲撃によって破壊されていたが、街並みの家々は全く損壊しておらず、瓦一つ落ちていない。ただ無気味な静寂、異様な寂莫感がわれわれを包み、勇敢な部下も一瞬たじろいだ。

(※『松井石根と南京事件の真実 早坂隆著』から引用)



南京城内



補足します。

【スマイス報告】【1938年3月9日から4月2日の市部調査における人口調査結果】では、【安全区(=Safety Zone)の人口67,900人】と報告されています。という事は、【安全区の避難民は約25万人】から大きく減少している事になります。



人口調査


人口調査結果


『スマイス報告』

"WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA" December, 1937 to March, 1938
URBAN AND RURAL SURVEYS By Dr. Lewis S. C. Smythe

I. 市部調査

1. 人ロ
家族調査によると、通済門外地区は無人であった。

I. CITY SURVEY

1. POPOLATION
The family investigators found the area outside Tungchimen deserted.



この理由について、下記が報告がされています。



110B 南京における救済状況

一九三八年二月十四日 ベイツ

2 他機関との折衝ならびに協力
われわれの救済事業はすべて、南京安全区に組織された国際委員会のもとで行われている。一月下旬以降、難民人口の五分の二が彼らの家に帰ったことにより、安全区と市の他地域とのはっきりした区別が相殺された。したがって、国際委員会は、特定地域の委員会としてでなく、純粋に私的な救済組織として活動を続けることになった。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



64D <南京の状況 --- 二月十八日>

受信: (一九三八年 -- 訳者)二月十八日午後四時
TRUE READING グレイ暗号・コード 暗号作成AAM
漢口米大使館、ワシントン国務長官、北米大使館、上海米総領事館宛

第六一号 二月十八日午後四時
この数日間に、南京の状況に顕著な改善がなされてきたことを報告できることは喜ばしいことである。ほとんどの中国人が、いわゆる「安全区」から彼らが以前住んでいた市内の家に帰りつつある。

日本軍兵士の無秩序や不法行為を訴える報告は依然としてときどき寄せられているものの、そうした報告の数は実質的に少なくなっており、日本側当局が南京市民の生活条件の現状を改善しようと努力していることは明らかである。

外国人の行動に対する制限も徐々に緩和されつつあり、最近になってその存在が緊急に要請されていた、金陵大学病院(アメリカ人の施設)のアメリカ人医師が、南京に戻ってきてもよいという許可がおりた。漢口米大使館へ送信。国務省・北平・上海へ転電。上海は東京へ転電されたし。

アリソン

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)






--【第24項】 『安全区』と『南京の不幸な市民』 【前編】--

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