-- ◆【第03章】 いわゆる『南京事件』と非戦闘員の犠牲者数◆ --

--【第26項】 『埋葬遺体数』と『南京の不幸な市民』 【前編】--

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【第08項】でも確認しましたが、極東国際軍事裁判所判決では、【第八章 南京暴虐事件(=事実認定)】の中で、いわゆる『南京事件』の犠牲者数を【一般人と捕虜の総数二十万以上】と認定しました。その根拠は、【紅卍字会南京分会】【南京市崇善堂】の両団体による埋葬活動記録でした。



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。

これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。



第V編 遺体埋葬記録 解題

紅卍字会と崇善堂の埋葬記録は極東国際軍事裁判で法廷証拠とされ、その判決にも「後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、一五万五千に及んだ事実によって証明されている」(『南京大残虐事件資料集』第一巻、三九六ページ)と利用されている。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



----- 『紅卍字会南京分会』及び『南京市崇善堂』による埋葬遺体総数 -----

 埋葬団体 南京城内埋葬数 南京城外埋葬数 合計
 紅卍字会南京分会 1,795体 41,330体 43,125体
 南京市崇善堂 7,549体 104,718体 112,267体
 合計 9,344体 146,046体 155,392体

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)


しかし、【南京市崇善堂】の埋葬活動記録の方は大きな問題がありました。同団体の記録は、その【活動(=埋葬活動)を示す確実な傍証が無い】ものだったのです。



【南京市崇善堂】の埋葬活動記録についてはその【活動(=埋葬活動)を示す確実な傍証が無い】


『南京大虐殺の証明』 洞富雄著(※歴史学者)

この埋葬表については、弁護団も最終弁論で、その信憑性に関する疑問を鋭くついている。

…次に、(三)の紅卍字会と崇善堂両埋葬隊の埋葬記録の成立年次に関する問題であるが、田中氏は、この記録をいずれも一九四六年(民国三十五年)に調査した「後期資料」であるとし、だから、これは信憑性を欠くと主張する。だが、はたして、この批判はあたっているのであろうか。

田中氏が埋葬記録を一九四六年の調査としているのは、たぶん東京裁判の最終弁論で、「前記各証は南京が日本軍に占領せられて後、実に十箇年を経過したる一九四六年に調査せられたりと称せらるゝものにして、その調査が如何なる資料に基き為されたるや判明せず。殊に死体の数に至りては十箇年後に之を明確にすること殆ど不可能なりといふべく、此処にかゝげられたる数字は全く想像によるものと察するの外なし」(「南京事件資料集」T、三七一ページ)と論じているのによっているのであろう。

一九四六年成立はだいたい当たっているのであるが、正確にいえば、前年の暮に作成されていたわけである。一九八四年末、訪中した南京事件研究会の代表団は、南京市档案館に収録されている紅卍字会埋葬表の複写を持ちかえっているが、これをみると、その日付は一九四五年十二月十七日となっている。崇善堂の方は日付を欠くが、やはり同じころの作成と推測される。…



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

東京裁判に提出された慈善団体の紅卍会による四万三〇七一体、崇善堂が一一万二二六六体という埋葬記録は、二〇〜三〇万規模の虐殺を裏づけるデータとして重視されてきた。しかし紅卍字会の活動が日本軍の公式記録や新聞にも出現するのに対し、崇善堂については活動を示す確実な傍証が見つかっていない。



『百人斬り競争と南京事件』 笠原十九司著(※歴史学者)

先の判決の根拠になった崇善堂が埋葬した11万2267体について、崇善堂記録では4月が10万4718体となっているが、同史料に収録された「南京市慈善団体調査表」には崇善堂の埋葬活動は38年1月23日から始まり3月29日に停止とされている(同史料集145頁)。他の史料で確認する必要があるが、そうだとすれば、10万4718体の埋葬数に疑問が生じることになる。

同史料を編集した孫宅魏は、埋葬史料の統計には、大小さまざまな慈善団体間で同一地域における重複が見られるので判決文に見られるような単純な加算は不可であると指摘している。



第V編 遺体埋葬記録 解題

紅卍字会とともに、埋葬に当たったと言われるのが崇善堂埋葬隊である。資料68は崇善堂埋葬隊の埋葬一覧表である。これも恐らく何かの原資料をもとに戦後整理されたものと見られる。崇善堂埋葬隊がわずかの期間に、それも少人数で紅卍字会埋葬隊の二倍以上の遺体を埋葬していることを不自然と考え、崇善堂の資料を捏造であると非難する見解もある。

しかし、三八年十二月六日付で資金補助を要請している次の資料71を見てもわかるように、当時南京に崇善堂という慈善団体が存在し、埋葬もおこなっていたことは否定しがたいところである。ただし、埋葬記録の数字については確かに慎重な取り扱いが必要と思われる。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



『いわゆる「南京事件」の不法殺害』 軍事史学会編 原剛(※軍事史研究家)

南京特務機関員として死体の埋葬作業を監督していた丸山進は、死体の埋葬作業を実施するに際し城内外を巡視したが、中山門および通済門外など市の東部地区には遺棄死体は少なく、また埋葬作業は三月でほとんど終わったと証言している。

丸山進が埋葬作業は三月でほとんど終わったと証言しているように、紅卍字会の埋葬記録を見ると確かに九割方終わっている。にもかかわらず、崇善堂は四月九日から五月一日の間に城外で一〇万四七一八体埋葬したというのは、全く不可解である。

また、埋葬作業監督者の丸山進は、埋葬作業は一括して紅卍字会に委託したので、崇善堂などの弱小団体は紅卍字会の下請けをしたと考えられ、その作業量は一括して紅卍字会の作業量に組み込まれていると証言している。以上の点から、崇善堂の埋葬記録は、殺害数を増やすための戦犯裁判用の資料として捏造されたものと考えられ、全く信憑性がないと判定せざるを得ない。



そこで本項では、まず、【紅卍字会南京分会】【埋葬活動記録】を検証し、いわゆる『南京事件』の犠牲者の実態について確認してみたいと思います。


【紅卍字会南京分会】は、日本側史料でもその活動を確認する事ができます。同会が埋葬活動を行っていたのは間違いないと判断され、活動記録を残している埋葬団体の中では、その信憑性が比較的高いと考えられています。



南京特務機関 南京班第二回報告(二月中状況)

(二)紅卍字会の屍体埋葬
紅卍字会屍体埋葬隊(隊員約六百名)は一月上旬来特務機関の指導下に城内外に渉り連日屍体の埋葬に当り二月末現在に於て約五千に達する屍体を埋葬し著大の成績を挙げつつあり

(※『十五年戦争極秘資料集 第十三集 華中宣撫工作資料 井上久士 不二出版』から引用)



第V編 遺体埋葬記録 解題

事件直後から埋葬をおこなった団体として比較的よく知られているのが、紅卍字会南京分会である。紅卍字会は当時の中国で大規模な慈善団体であった。資料65は同会の埋葬記録である。遺体収容場所と人数、埋葬地が一九三七年十二月二十二日から翌年十月三十日まで詳細に記されている。

この一覧表は戦後に裁判の過程で提出されたものであるが、確かな原資料によっているとみてさしつかえない。
次の資料66は三八年四月四日付、紅卍字会南京分会が南京市自治委員会に資金補助を願いでたものである。ここからも確かに当時同分会が遺体埋葬に従事していたことがわかる。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



この【紅卍字会南京分会】は、【1937年12月22日から1938年10月30日】までの間に、【43,125体】の遺体埋葬を記録していました。この中から、【女性・子供の埋葬遺体数】に注目して、全てを抜粋してみました。



----- 世界紅卍字会南京分会埋葬表(※女・子供埋葬分) -----

 日付  子供 備考 埋葬地点
 1937年12月22日 9人 ----- 城内各処で収容 中華門外望江磯
 1937年12月22日 11人 ----- 城内各処で収容 中華門外高輦柏村
 1938年01月10日 2人 ----- 上新河一帯で収容 上新河里橋
 1938年01月25日 20人 3人 城内各処で収容 中華門外望江磯
 1938年01月26日 1人 ----- 西橋塘内で収容 金陵大学農場
 1938年02月02日 2人 ----- 漢字路一帯で収容 五台山荒山
 1938年02月07日 ----- 2人 西倉壙内で収容 韓家巷西倉山上
 1938年02月09日 1人 ----- 水西門外各処で収容 水西門外南傘巷
 1938年02月11日 ----- 4人 上海路一帯で収容 五台山荒山
 1938年02月11日 1人 ----- 漢西門外一帯で収容 漢西門外広東公墓
 1938年02月14日 2人 ----- 古林寺山で収容 古林寺山上
 1938年02月19日 2人 20人 市北部各地で収容 陰陽営南秀村
 1938年02月22日 1人 30人 市北部各地で収容 古林寺後山
 1938年07月31日 5人 1人 城内各処で収容 中華門外普徳寺山上
 1938年08月31日 4人 ----- 城内各処で収容 中華門外普徳寺山上
 1938年09月30日 8人 9人 城内各処で収容 中華門外普徳寺
 1938年10月30日 13人 7人 城内各処で収容 中華門外普徳寺
 合計 82人 76人
女性・子供の埋葬遺体数合計 … 158人
全埋葬遺体数 … 43,125人

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)


【世界紅卍字会南京分会】は、南京城区とその周辺全域に渡って埋葬活動をしていましたが、【女性・子供の埋葬遺体数】に注目してみると、その遺体数合計は僅か【158体】でした。であれば、この様に判断して間違いはないでしょう。



日本軍は【南京の不幸な女性・子供】に対して【無差別・大量殺害】を行ってはいなかった


補足しておきますが、【第24項】で確認した通り、残留していた【南京の不幸な市民】の大多数は【安全区】に避難していたので、【埋葬団体の活動範囲外】に、多数の【南京の不幸な市民の遺体】が存在していた可能性はありません。



南京市陥落時点


145D 南京アメリカ大使館通信 ---- エスピー報告

一九三八年一月二十五日 南京
南京の状況
在漢口アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン宛

ジョンソン・M・アリソン三等書記官
報告書作成 一月十五 --- 二十四日
郵送 一九三八年二月二日

T. 十二月十日後の主な報告
南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京市の防衛は、わずかに五万人の兵士に任されていた。さらに、このうちのかなりの兵士が、南京陥落後に北門、西門、および城壁を越えようとしたり、また退却中に日本軍と戦いながらの逃走を試みた。

中国軍は軍事上の必要から、障害物などを除去するため、城外の広い範囲に放火した。しかし、退却中の中国兵による城内での放火・破壊・略奪等はほとんどなかった、とアメリカ人らは強調した。それゆえ、日本軍が南京に入城したとき、実際には南京は無傷のままであった。

住民の五分の四は逃げ去っていたが、残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる「安全区」に避難していた。

U. 南京の現況
ここには南京の実情と、当地の政治・経済に関する様々な論評の概要を記す。…

南京の政治および経済状況
南京には政治・経済の実体は存在していないといってもよいかと思う。事実、南京は日本軍の野営地にほかならない。市の人口、およそ一〇〇万人のうち、現在二〇 - 二五万人が残留し、そのほとんどが貧民階級の人たちである。大多数が「安全区」内の建物や臨時に設けた野営地にすし詰めとなっている。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



111B 南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告 ---- 一九三八年冬季

南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにもかかわらず、二五万人が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まってさらに悲惨なめにあうことになった。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)




極東国際軍事裁判所判決では具体的に言及されなかったのですが、当時の南京では、上記の【世界紅卍字会南京分会】【南京市崇善堂】以外にも、複数の団体や個人が埋葬活動に従事していました。

その中の一つに【南京市衛生局】があります。本局の活動内容は、南京特務機関調製【南京市政概況 昭和十七年三月】にも掲載されていて、日本側当局が把握していた団体です。



60 南京市衛生局活動抄録 一九三八年

第七章 市衛生活動概況

(2) 埋葬隊 甲、埋葬
事変の後、城門の内外は死体でいっぱいであった。紅卍字会と前自治委員会救済課は精力的に埋葬したが、辺鄙な荒地や防空壕等にはなお残りがあった。本局成立後、以前からの埋葬隊一六名は作業員を率いて積極的に埋葬活動をおこない、残された死体および塀際や路傍の棺をほぼ埋葬した。六月には埋葬を終えた。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



61 南京市衛生局埋葬隊

昭和十三年南京自治委員会成立と同時に公共衛生の維持及社会慈善事業として市衛生局(当時衛生組)の管掌下に掩埋隊を組織し、隊員(人夫)十六名、毎月経費(総て人件費)二百八十八元を以て南京市に於ける屍体、露棺の、埋葬、火葬、並に墓地の修理、施棺等に従事せしめ今日に及んだものにして、創立以来今日迄の工作状況並に現在状況次表の如し。

(※【孩】 ⇒ 乳飲み子。あかご。 --- コトバンクから引用)


 年別屍棺 男屍 女屍 孩屍
 二十七年(一月至四月) 8,795 136 185
 二十七年(五月至十二月) 171 10 20
 共計 8,966 146 205
女屍・孩屍を合わせたの埋葬遺体数の合計 … 351人
全埋葬遺体数の合計 … 9,317人

(※上記表は南京特務機関調製『南京市政概況 昭和十七年三月』から抜粋)

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



【南京市衛生局】の埋葬記録を見ても、全埋葬遺体数【9,317体】に対して、【女屍・孩屍を合わせたの埋葬遺体数は合計351体】でしかありません。であれば、本記録に対しても、この様に判断して間違いはないでしょう。



日本軍は【南京の不幸な女性・子供】に対して【無差別・大量殺害】を行ってはいなかった



上記団体以外にも、【紅十字会南京分会】という団体が、埋葬活動記録を残していました。この団体による埋葬活動記録は、【極東国際軍事裁判では知られていなかった】と解説されています。内容を確認してみると、【会員数約80人】で、【1937年(※民国二十六年)12月から六ヶ月間】に合計【22,371体】の遺体を埋葬したとあります。



第V編 遺体埋葬記録 解題

紅卍字会と崇善堂の埋葬記録は極東国際軍事裁判で法廷証拠とされ、その判決にも「後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、一五万五千に及んだ事実によって証明されている」(『南京大残虐事件資料集』第一巻、三九六ページ)と利用されている。

しかし、この裁判で知られていなかった重要な埋葬記録が存在する。それが紅十字会南京分会埋葬隊の記録である。現在この文書は南京市[※「木」へんに「當」]案館に所蔵されている。これは戦後整理されたものではなく、内容からみておそらく一九三八年に作成されたと考えられる。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



64 中国紅十字会南京分会の難民救済工作に関する概況抄録
一九三八年七月十四日

申告
中国紅十字会南京分会は二十六年十二月の南京事変以来、南京城内外で難民救済工作に従事し、二十七年五月末までですでに六ヶ月を経過した。この六ヶ月の内に、僅かな経費(未だ外に対して一銭も募金を募っていない)で、多くの困難を経験したが、幸いにも本分会員八十余人の一致団結で、市内の難民救済工作はなんとかまっとうできそうな状況にある。ここに調査してみるに、この六か月間に本分会がおこなった事業項目は、粥炊き出し所、埋葬、棺材供給、医療、施薬、公共小学校と公共渡しなど六項目にわたる。概況を簡単に報告し、国民に対する報告とし、ご意見を賜り、以後この六か月の難民救済工作を踏襲していきたい。期待は一にここにある。

2 埋葬
本分会埋葬隊は二十六年十二月から、下関の長江沿いおよび和平門外付近一帯で埋葬工作に従事してきた。この六ヶ月間に、総計して二万二三七一体の軍民の死体を埋葬した。これらの死体の多くがただ土を掘って埋めたもので、棺桶を用いたものは僅か数百体に過ぎない。現在は下関の沿岸一帯で上流から浮来してきた死体を拾い挙げて埋葬している。この埋葬作業には本分会が収容した難民を当てており、食と住を与えるだけで賃金は払っていない。それ故、本分会はこの六か月間に食費と雑費数百元を支出しただけである。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



下関及び和平門


同会が記録した【統計表】を見てみると、【埋葬人数】が記録されているのみで、【男】【女】【子供】に分けた一覧表等は無い様です。それにしても、同会の会員数が【約80人】で、村民との共同作業もあった様ですが、埋葬遺体数総計【22,371体】とはかなりの活動規模です。

(※下記埋葬遺体数【13,722体】【5,704体】【3,245体】を合計すると【22,671体】となり、上記【中国紅十字会南京分会の難民救済工作に関する概況抄録】中に記載されている埋葬遺体数総計【22,371体】と一致しません。記載ミスなのか詳細は不明です。)



----- 『中国紅十字会南京分会埋葬隊』による埋葬遺体総数 -----

 第一隊月別統計表 第二隊月別統計表
 一月埋葬人数 2,131人 一月埋葬人数 2,175人
 二月埋葬人数 1,728人 二月埋葬人数 2,924人
 三月埋葬人数 2,344人 三月埋葬人数 1,636人
 四月埋葬人数 484人 四月埋葬人数 ------
 五月埋葬人数 300人 五月埋葬人数 ------
 合計 6,987人 合計 6,735人
第一隊・第二隊埋葬遺体数合計 … 13,722人

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)


中国紅十字会南京分会埋葬隊 第一隊月別統計表 付注

民国27年1月6日以前に、本隊は既に和平門外一帯で、村民と共同して、軍民の死体5704体を合葬したが、本隊の単独作業ではないので統計には入れなかった。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



中国紅十字会南京分会埋葬隊 第二隊月別統計表 付注

民国27年1月6日以前に、本体は既に下関一帯で、軍民の死体3,245体を埋葬したが、当時未だ日本軍の正式許可を得ていなかったので統計に入れなかった。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



【紅卍字会南京分会】と比較してみると、【隊員数(※会員数)】に対する【埋葬遺体総数】は決して引けを取るものではなく、むしろ上回っていた事になります。



----- 『紅卍字会南京分会』・『紅十字会南京分会』の比較 -----

 埋葬団体 活動期間 隊員数 埋葬遺体総数
 紅卍字会南京分会 民国26年12月から民国27年10月 約600名 43,125体
 紅十字会南京分会 民国26年12月から民国27年05月 約80名 22,371体

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)


そこで、埋葬活動の状況を記している下記史料を参照してみました。内容を見てみると、【紅卍字会南京分会】は、【1938年04月16日】の記事の時点で【合計32,104体】の遺体を埋葬したとあり、その間に【延べ五、六万人の苦力(※クーリー、下層労働者の事)】が動員され、【相当の費用(=人件費等)】がかかった事が言及されています。



『仕事は死体整理 悪疫の猖獗期をひかへて 防疫委員会も大活動』

大阪日日新聞北支部版 昭和13年04月16日
南京便り第五章衛生の巻 林田特派員

戦ひのあとの南京でまず整理しなければならないものは敵の遺棄死体であった。濠を埋め、小川に山と重なってゐる幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。そこで紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた。

腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近までに城内で一千七百九十三体、城外で三万三百十一体を片づけた。約一万一千円の入費となってゐる。苦力も延五、六万人は動いてゐる。しかしなほ城外の山のかげなどに相当数残ってゐるので、さらに八千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である。

防疫方面についてはわが現地当局者間に防疫委員会が生れ、十月には大掃除を市内全部にわたって行ふが、支那側警察局でも苦心し、百人の清潔班の派遣をはじめ、所々汚い地区では大掃除を行ったり、大小便すべからずの立札を立てたり、ドブを埋めたり、死体を収容したり、相当努力をしてをり、将来は「防疫病院」の設立、衛生事務所(衛生組合のやうなもの)の設置、種痘施行その他を企画してゐる。

(※【苦力】 ⇒ クーリー、肉体労働に従事した下層の中国人労働者 --- コトバンクから引用)

(※『日中戦争史資料8』から引用)



南京特務機関 丸山進氏の証言

一月中旬頃になると中国軍の遺棄屍体は環境衛生上最大の問題になった。それを埋葬するためには厖大な経費と人手を必要とするのでそれを処理する能力をもった組織は日本軍を除いて何処にも存在しないのだ。その日本軍はすでに大部分は移動し残った一個師団の警備隊には全く余力がない。しかしこの問題の解決は佐方特務機関長に委ねられたのであった。

佐方さんはそれを自治委員会に委ね三月十五日頃までに埋葬を終らせることにしてそれに要する経費は特務機関長が責任をもって支弁するということでその仕事の進め方を私に下命した。私は早速自治委員会の首脳とこの問題のすすめ方について打ち合わせた。自治委員会は一つの行政機構であってこのような事業を自ら行うためのスタッフを持ち合わせていなかった。尤も救済科なる組織があったが、それは民間の救済活動を指導支援するための機構であって自ら埋葬活動を行うことは殆どなかった。だからこの仕事を進めるためには適当な団体を見つけてそれに委託するよりほかはなかった。

ちょうどその頃国際委員会の援助を受けて紅卍字会が屍体埋葬の作業にとりかかっていた。前にも述べたとおり自治委員会と紅卍字会とは密接な関係がり紅卍字会は屍体の埋葬をはじめてみたが資金面についてはわずかに国際委員会からの支援を受けているだけで困難な実情にあった。特務機関からの依頼を受けた自治委員会がその作業の推行を挙げて紅卍字会に委託するのは当然のなり行きであった。

紅卍字会の外にはこの大きな仕事を実行する団体は全くなかったのだ。後でわかったことであるが国際委員会からの援助の内容は国際委員会が常雇人夫を百二十七人を雇ってそれに一人当四角(四十銭)を支払い、延べ五十日間紅卍字会に提供するもので国際委員会はそのために二五四〇元を支出している。自治委員会の方は出来高払の方式をとった。埋葬実績について一体当り約三角を支払うというものであった。

埋葬作業は三月十五日頃までに終了することを一応のめやすとして概ね二月初めから本格化して、毎日日報を作成して自治印会に報告された。二月一杯までに約五千体を埋葬し三月は思い切って人数をふやして昼夜作業を強行して三月十五日までに合計三万一七九一体を埋葬したことになった。それまでに要した経費は一万一千円と算定されその分は自治委員会から紅卍字会に交付されることになった。

しかし三月十五日をすぎてもなお取り残しがあって作業は更に一ヶ月ほどつづけられ最終的に紅卍字会がまとめた数字によれば四万三千百二十三体にあがったことになっている。とすれば追加分に対する経費は約四千元と考えられるがその分を南京市政府公署が交付したかどうかについては私には記憶がない。この作業によって紅卍字会が受け入れた援助金の額は国際委員会から二五四〇元、自治委員会と南京市政府公署から約一万五千元合計して一万七千〜八千元となろう。これを仮に日当三・五角で人夫賃に還元してみると延約五万人となる。死体埋葬という作業はそのような困難な作業であったのだ。

戦後色々な団体や個人が数万体或は十数万体を埋葬したとはやしたてたが、彼等は経費のことについては一言もふれていない。私の見解によれば実際に埋葬活動を行ったのは紅卍字会のみであってその他の弱小団体が従事したとしてもそれは紅卍字会の仕事の下請けとして動いたにすぎない。しかもこの四万三千余体についてもつぶさに内容を点検すれば矛盾するところが多い、そのことについてはあとで述べることにする。

(※『満鉄若葉会「会報」 1997年夏季号No.137』から引用)



上記史料から、大雑把に計算すると、遺体一体を埋葬するのに【苦力約二人分の労働力】が必要だったという事になります。遺体埋葬は、膨大な人手と多額の費用がかかる作業だった事がわかります。

【紅十字会南京分会】の記録の中で気になるのは下記部分です。同会抄録には、【賃金は支払っていなかった】と記載されているのです。賃金は支払わなくても苦力の確保は可能だったかもしれませんが、賃金を支払っていた【紅卍字会南京分会】ほど動員できていたとは到底考えられません。



64 中国紅十字会南京分会の難民救済工作に関する概況抄録
一九三八年七月十四日

2 埋葬
本分会埋葬隊は二十六年十二月から、下関の長江沿いおよび和平門外付近一帯で埋葬工作に従事してきた。この六ヶ月間に、総計して二万二三七一体の軍民の死体を埋葬した。これらの死体の多くがただ土を掘って埋めたもので、棺桶を用いたものは僅か数百体に過ぎない。現在は下関の沿岸一帯で上流から浮来してきた死体を拾い挙げて埋葬している。この埋葬作業には本分会が収容した難民を当てており、食と住を与えるだけで賃金は払っていない。それ故、本分会はこの六か月間に食費と雑費数百元を支出しただけである。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



実は、【南京市崇善堂】と同様に、【紅十字会南京分会】も、その【活動(=埋葬活動)を示す確実な傍証が無い】ものだったのです。例えば、下記史料を見ると、【紅卍字会南京分会】については埋葬活動に言及した記載がありますが、【紅十字会南京分会】についてはそれがありません。

(※下記【中国赤十字社の地方組織】とは、【紅十字会南京分会】の事です。)



『南京における救済状況』 シール・ベイツ 一九三八年二月十四日

2. 他機関との折衝ならびに協力
われわれの救済事業はすべて、南京安全区に組織された国際委員会のもとで行われている。一月下旬以後、難民人口の五分の二が彼らの家に帰ったことにより、安全区と市の他地域とのはっきりした区別 が相殺された。したがって、国際委員会は、特定地域の委員会としてでなく、純粋に私的な救済組織として活動を続けることになった。

当初から委員会は、中国赤十字社の地方組織と大きな無料食堂の運営において、素晴らしい協力を行ってきた。そして紅卍字会とは二つの大きな無料食堂の活動と死体埋葬活動において、協力してきた。この後者の役目は簡単なものではなかった。彼らが一日に二百体埋葬しても、まだ埋葬すべき三万体があることがわかっている(ほとんどが下関)。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



【傍証】を確認するなら、【南京特務機関史料(※日本側史料)】もしくは【第三国史料(※特に米国史料)】が必要なのですが、それが見つかっていないのです。本HPでは、確実な【傍証】が見つからない限りは、【紅十字会南京分会】の埋葬活動記録は、【その信憑性に疑問がある】と判断します。



【中国紅十字会南京分会】の埋葬活動記録については具体的な傍証が無く【信憑性に疑問がある】


----- 『中国紅十字会南京分会埋葬隊』による埋葬遺体総数 -----

 第一隊月別統計表 第二隊月別統計表
 一月埋葬人数 2,131人 一月埋葬人数 2,175人
 二月埋葬人数 1,728人 二月埋葬人数 2,924人
 三月埋葬人数 2,344人 三月埋葬人数 1,636人
 四月埋葬人数 484人 四月埋葬人数 ------
 五月埋葬人数 300人 五月埋葬人数 ------
 合計 6,987人 合計 6,735人
第一隊・第二隊埋葬遺体数合計 … 13,722人

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)


中国紅十字会南京分会埋葬隊 第一隊月別統計表 付注

民国27年1月6日以前に、本隊は既に和平門外一帯で、村民と共同して、軍民の死体5704体を合葬したが、本隊の単独作業ではないので統計には入れなかった。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



中国紅十字会南京分会埋葬隊 第二隊月別統計表 付注

民国27年1月6日以前に、本体は既に下関一帯で、軍民の死体3,245体を埋葬したが、当時未だ日本軍の正式許可を得ていなかったので統計に入れなかった。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)




本項に掲載した総ての団体の埋葬遺体数をまとめてみます。(※一応、【南京市崇善堂】も含めます。)



----- 各埋葬活動団体による埋葬遺体総数 -----

 埋葬団体 活動期間 埋葬遺体数
 紅卍字会南京分会 1937年12月22日〜1938年10月30日 43,125体
 南京市崇善堂 1937年12月〜1938年5月1日 112,267体
 南京市衛生局 1938年1月〜1938年12月 9,317体
 紅十字会南京分会 1937年12月〜1938年5月末 22,371体
 合計 187,080体

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)


全団体の埋葬遺体数は合計【187,080体】になるのですが、下記孫宅魏氏(※歴史学者)見解によれば、単純に足し算をする事はできない様です。



『百人斬り競争と南京事件』 笠原十九司著(※歴史学者)

先の判決の根拠になった崇善堂が埋葬した11万2267体について、崇善堂記録では4月が10万4718体となっているが、同史料に収録された「南京市慈善団体調査表」には崇善堂の埋葬活動は38年1月23日から始まり3月29日に停止とされている(同史料集145頁)。他の史料で確認する必要があるが、そうだとすれば、10万4718体の埋葬数に疑問が生じることになる。

同史料を編集した孫宅魏は、埋葬史料の統計には、大小さまざまな慈善団体間で同一地域における重複が見られるので判決文に見られるような単純な加算は不可であると指摘している。



次項では、更に掘り下げて埋葬活動記録の検証をしてみたいと思います。




--【第26項】 『埋葬遺体数』と『南京の不幸な市民』 【前編】--

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