-- ◆【第03章】 いわゆる『南京事件』と非戦闘員の犠牲者数◆ --

--【第31項】 『スマイス報告』が語る≪南京事件の真実≫ 【前編】--

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調査方針に大きな問題があった【スマイス報告(※家族調査)】ですが、【日本軍による南京の不幸な市民の被害】を検証する上では、全体の傾向を把握出来る唯一の【学術面からの調査結果】であり、【第一級史料】である事に変わりはありません。

見方を変えると、【スマイス報告(※家族調査)】では、【日本軍による暴行の被害者だけ】を調査対象にしていたので、調査結果を検証する上で解釈に迷う事も無く、かえって都合が良い面もあります。

下表が、【スマイス報告(※家族調査)】によって得られた南京市民の推定人口数【221,150人(※TABLE1)】に対する【南京の不幸な市民の犠牲者数(※TABLE4)】です。【原因別】にまとめられています。



家族調査結果


南京市民犠牲者数


----- 『スマイス報告』における南京の不幸な市民の犠牲者数算出結果 -----

 原因 犠牲者数
 軍事行動による死者 (Deaths by Military operations) 850人
 兵士の暴行による死者 (Deaths by Soldiers' violence) 2400人
 原因不明の死者 (Deaths by Unknown) 150人
 拉致された者 (Taken away) 4200人
 合計 7600人


上記の【拉致された者4,200人】については、その大半が【早い時期に殺されたものと考える】との見解が述べられていますので、とりあえず、この数値も全て死者と見なすと、合計【7,600人】になります。



『スマイス報告』

"WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA" December, 1937 to March, 1938
URBAN AND RURAL SURVEYS By Dr. Lewis S. C. Smythe

2. 戦争行為による死傷

死傷者数および原因
以上に報告された死傷者に加えて、4200人が軍隊に拉致された。臨時の荷役に就いた者、あるいはその他軍の労役のために徴発された者については、ほとんど報告されていない。6月までに、ここに述べている拉致されたもの内、わずかな者についてはその消息を聞いた。それ以外の者達の大半の運命は、早い時期に殺されたものと考える理由がある。[注3]

注3 - 「拉致」の深刻さは、拉致された者としてリストに上げられた者が全員が男子だった事実により明確にされている。

2. DEATHS AND INJURIES DUE TO HOSTILITIES

Number and Cause
In addition to those reported killed and injured, 4,200 were taken away under military arrest. Persons seized for temporary carrying or other military labor were seldom so reported. Very few of those here mentioned were heard from in any way up to June. The fate of others gives reason to think that most of them were killed early in the period.[3]

[3].The seriousness of "taking away" is underlined by the fact that all so listed are males.



上記の【7,600人】という数値は、【第22項】で導き出した下記結論と比較しても特に矛盾はありません。従いまして、無闇に上記調査結果の信憑性を否定する事はできないと考えます。



【南京事件】において殺害された【南京の不幸な市民(=非戦闘員)】の犠牲者数は

【南京市人口】から判断すれば【確認できない程度の小規模なもの】でしかなかった


そして、【スマイス報告(※家族調査)】によれば、【南京の不幸な市民】の被害で最も多かったのは【拉致による被害】だったという事になります。



日本軍による【南京の不幸な市民】への被害で最も多かったのは【拉致による被害者】


----- 『スマイス報告』における南京の不幸な市民の犠牲者数算出結果 -----

 原因 犠牲者数
 軍事行動による死者 (Deaths by Military operations) 850人
 兵士の暴行による死者 (Deaths by Soldiers' violence) 2400人
 原因不明の死者 (Deaths by Unknown) 150人
 拉致された者 (Taken away) 4200人
 合計 7600人


本項では、上表原因の内、

【軍事行動による死者(=Deaths by Military operations)】
【兵士の暴行による死者(=Deaths by Soldiers' violence)】
【拉致された者(=Taken away)】


について、再検証したいと思います。


最初は、下記の【軍事行動による死者(=Deaths by Military operations)】です。



----- 『スマイス報告』における南京の不幸な市民の犠牲者数算出結果 -----

 原因 犠牲者数
 軍事行動による死者 (Deaths by Military operations) 850人
 兵士の暴行による死者 (Deaths by Soldiers' violence) 2400人
 原因不明の死者 (Deaths by Unknown) 150人
 拉致された者 (Taken away) 4200人
 合計 7600人


下表を確認すると、【軍事行動による死者(=Deaths by Military operations)850人】の内、犠牲者の大半(※650人)は、日本軍が南京に入城した【1937年12月13日】以前に発生していた事が分かります。



軍事行動による犠牲者数


上表の赤線部分を見てみると、この様な注釈が書かれていました。



『スマイス報告 -- 表4(※注釈)』

By "military operations" is meant bombing, shelling, or bullets fired in battle.
(※『軍事行動』については、戦闘による爆撃、砲撃、銃撃を意味している。)



【1937年12月13日】以前は、日本軍による南京攻略戦の際、砲爆撃による【流れ弾】等により、【南京の不幸な市民の犠牲者】が発生していた事を各史料から確認する事ができます。(※【第25項】参照)



52D 南京の戦況 --- 十二月十一日

海軍無線 VGS EA グレイ暗号電報
発信: 砲艦パナイ号
受信: 一九三七年十二月十一日午後五時五〇分
ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海総領事館宛

二、昨日の空襲はもっぱら光華門中華門をねらって行われた。爆弾の一つは市の西部にいわゆる安全区の端にある五台山区に落とされ、多くの犠牲者がでた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



五台山


53D <南京の状況 --- 十二月十一日

グレイ暗号電報
発信: 南京、海軍無線局経由
受信: 一九三七年十二月十一日午後八時九分
ワシントン国務長官宛

第一〇三六号 十二月十一日午後六時
一、今日の午後、市の南部および光華門の内側に、砲弾が激しく撃ち込まれていたが、午後になるとさらに町中に向かって撃ち込まれるようになった。砲弾は一発は福昌ホテルの前の中山路に落ち、約五〇人が殺された。一発はホテルの後ろに落ちた。そして一発は五台山地区のアメリカ聖書教師養成学校に落ち、施設に少し損傷があった。大使館付近と同構内にある高射砲をねらって爆撃と砲撃が行われているが、同構内は中国人で一杯だという。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



中山路


55 略奪と殺戮
≪タイムズ≫ 一九三七年十二月十八日、土曜日

◇勝者の蛮行 特派員より 上海、十二月十七日

記者が南京を通過する際にインタビューした外国人目撃者は、南京の略奪と陥落の模様を次のように語った。

十二月十日(金)、日本軍機による爆撃と機銃掃射が開始された。城壁の防衛のため市内を駆けまわる中国兵めがけて投下されたもので、城壁の部分がとくに激しかった。爆撃は夜を徹して続き、砲弾の炸裂はたびたび全市を震撼させた。

日本軍は城壁の破壊を試みたものの、不成功に終わった。爆撃は土曜日になると、さらに激しくなり、安全区内に投下された一〇発の爆弾で、三〇名の市民が命を落とした。安全区には市のいたるところから難民が避難し始めていた。この日、中国軍の略奪が始まった。

土曜日の夜は比較的静かに推移したが、日曜午後になると、砲撃は熾烈となった。中国軍の砲台や他の陣地が砲撃を受けたが、これは日本軍の繋留気球により指示されたものであった。しかし、安全区内に投下された爆弾は僅かであった。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



【軍事行動による死者(=Deaths by Military operations)650人】は、上記史料の砲爆撃の【流れ弾】等による犠牲者と考えられます。また、【軍事行動による死者(=Deaths by Military operations)】は、【日支両軍の軍事行動による被害】を算出したものと考えられますので、支那軍の【清室空野作戦】による犠牲者も含まれているのかもしれません。(※【第24、30項】参照)



スマイス報告調査票


44D 南京の状況 ---- 十二月七日

海軍無線 DJ EB
グレイ暗号文電報
発信: 南京
受信: 一九三七年十二月七日午後二時

ワシントン国務長官、漢口、北平米大使館、上海米総領事館宛

第一〇〇七号 十二月七日午前十一時
…下関区とイギリス大使館近くの村で略奪を行った科で、六人の兵士が処刑された。その他、城外で中国軍が砲撃しやすいようにと周辺一帯の村々を焼き払ったために混乱が発生しているものの、市内は概して平静である。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



6 南京郊外で中国軍抗戦中、一週間は堅持するか 一九三七年十二月八日

中国軍抵抗中 F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ特電≫

焼却はさらに続く
中国軍による防衛線内の障害物の焼却が続けられていた。中山陵園の中国高官の宏壮な邸宅も昨夕燃やされたところに含まれる。南京は深い煙の層によって囲まれた。昨日、中国軍が半径一〇マイル以内の町の建物や障害物を焼き払い続けたからだ。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



30 運命を待つ南京防衛軍、戦いはただ名誉を救うのみ 一九三七年十二月九日

◇燃える郊外地域
◇中国軍、敗北時に市を破壊か

A・T・スティール

≪シカゴ・デイリー・ニューズ≫紙外信部特電
≪シカゴ・デイリー・ニューズ≫社版権所有、一九三七年

南京、十二月九日発。…
中国の首都防衛軍は自らの覆いを織っている。頭上に重苦しく垂れ込めた煙の幕、中国軍の銃・砲撃のため戦場を清野にしようと燃やされた郊外地区から、城壁を越えて町の中に大波となって広がる煙。

諸々の徴候からすると、中国軍は城壁の全周囲約一マイル以上にわたって、そのもたらす代価や苦しみにもかかわらず、一帯を清野にしようとしている。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



20 中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為 一九三八年一月九日

◇南京侵略軍、二万人を処刑
◇日本軍の大量殺害 --- 中国人死者、一般市民を含む三万三千人
◇征服者の狼籍
◇暴行、根深い憎悪を浸透さす --- 中国軍による放火、甚大な被害をもたらす

F・ティルマン・ダーディン
上海十二月二十二日発 ニューヨーク・タイムズ宛航空便

中国軍、焼き払いの狂宴
日本軍が句容を通過し、さらに進撃したことは、中国軍に放火の合図を送ったことになった。これは城壁周辺での抵抗の最後の準備であったことは明らかだ。中国の「ウエスト・ポイント」である湯山には、砲兵学校、歩兵学校、蒋総統の臨時の夏季司令部が置かれていたが、ここから一五マイル先の南京にかけての地方は、ほとんどの建物に火がつけられた。村ごとそっくり焼き払われたのである。中山陵公園にある兵舎と官舎、近代科学兵器学枚、農事研究実験所、警察訓練学校、その他多数の施設が灰燼に帰した。焼き払いのたいまつは南門周辺や下関でも使われた。これらの地区は、そこだけで小さな町をなしていた。

中国軍の放火による財産破壊を計算すると、簡単に二千万、三千万ドルを数えることができるが、これは日本軍の南京攻略に先駆けて、数ヵ月間にわたって行われた南京空襲の被害より大きい。しかし、おそらくこれは、南京攻撃中の爆撃の被害や市占領後における日本軍部隊による被害に匹敵するだろう。

中国軍部は、市周辺全域の焼き払いは軍事上の必要からだと常に説明していた。城壁周辺での決戦において、日本軍に利用されそうなあらゆる障害物、援護物、設備はすべて破壊することが肝要であるというのだ。このため、建物だけでなく、樹木、竹薮、下草までが一掃された。

中立的立場の者からみると、この焼き払いは大部分が、中国のもう一つの「大げさな宣伝行為」であり、怒りと欲求不満のはけぐちであったようだ。中国軍が失い、日本軍が利用するかもしれないと思われるものは、ことごとく破壊したいという欲望の結果であり、極端な「焦土」政策は、日本軍に占領される中国軍の地域は、役にたたない焼け跡だけにしておきたいということである。ともかくも、中立的立場の者の間では、中国軍の焼き払いは軍事的意義がほとんどないという見方で一致している。多くの場合、焼け焦げた壁はそのまま残り、火災を免れた建物と同様に、機関銃兵にとり格好の遮蔽物となった。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



145D 南京アメリカ大使館通信 ---- エスピー報告

一九三八年一月二十五日 南京
南京の状況
在漢口アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン宛

ジョンソン・M・アリソン三等書記官
報告書作成 一月十五 --- 二十四日
郵送 一九三八年二月二日

T. 十二月十日後の主な報告
南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京市の防衛は、わずかに五万人の兵士に任されていた。さらに、このうちのかなりの兵士が、南京陥落後に北門、西門、および城壁を越えようとしたり、また退却中に日本軍と戦いながらの逃走を試みた。

中国軍は軍事上の必要から、障害物などを除去するため、城外の広い範囲に放火した。しかし、退却中の中国兵による城内での放火・破壊・略奪等はほとんどなかった、とアメリカ人らは強調した。それゆえ、日本軍が南京に入城したとき、実際には南京は無傷のままであった。

住民の五分の四は逃げ去っていたが、残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる「安全区」に避難していた。…

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

本来なら、城外で停止して攻城重砲で城壁と城内拠点を十分に破壊してから歩兵の攻撃に移るのが常道だったが、一番乗りをめざして突進する各部隊は、われがちに城壁外側の中国軍陣地につっかけ、乱戦におちいっていた。しかも、退却する中国軍は、城壁から一〇マイル以内の城外村落数百か所をことごとく焼き払う「清室空野」作戦を実行した。宿営家屋は乏しく、徴発しようにも物資は皆無に近い。



『はてなキーワード』から引用 --- 『南京大虐殺』
[ http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%EE%B5%FE%C2%E7%B5%D4%BB%A6 ]

肯定派の笠原十九司教授でさえ「中国軍は南京城塞の周囲1〜2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある村落と民家を強制的に焼き払った」としている…



半径16km


かつて、『南京大虐殺』と吹聴されていた時代もありましたが、改めて【軍事行動による死者(=Deaths by Military operations)】を見てみると、その【被害は予想外に小規模だった】と言えます。



----- 『スマイス報告』における南京の不幸な市民の犠牲者数算出結果 -----

 原因 犠牲者数
 軍事行動による死者 (Deaths by Military operations) 850人
 兵士の暴行による死者 (Deaths by Soldiers' violence) 2400人
 原因不明の死者 (Deaths by Unknown) 150人
 拉致された者 (Taken away) 4200人
 合計 7600人


【スマイス報告】でも、この様な見解が述べられています。



『スマイス報告』

"WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA" December, 1937 to March, 1938
URBAN AND RURAL SURVEYS By Dr. Lewis S. C. Smythe

3. 正確度の点検
最も特筆すべき一致は、軍事行動によって引き起こされた損害の割合の低さで、この事実は、12月14日に多くの人達によって容易に観察された。…

3. Checks on Accuracy.
The most striking agreement was the low percentage of damage caused by military operations which fact was readily observed by many on December 14th.




【第12、25項】にも書きましたが、【軍事行動による死者(=Deaths by Military operations)】については、その犠牲者の大半が、いわゆる【南京事件の範疇外】です。しかし、一応法的考察を加えてみたいと思います。



【南京事件の発生時期】は南京占拠後の【1937年12月13日から1938年2月初めまで】


第十章 判定 松井石根

南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。

それに続いて起ったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。日本軍人によって、大量の虐殺、個人に対する殺害、強姦、掠奪及び放火が行われた。

残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかった。

この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。



第五章 日本の中国に対する侵略

南京攻撃
松井が上海派遣軍の司令官に任命され。戦地に向って東京を出発したときに、予定の上海を攻略した後には、南京に向って兵を進める考えをかれはすでに抱いていた。東京を去る前に、上海派遣軍のために、かれは五箇師団を要請した。中国の首都に対する進攻のために、現実の準備がなされた。というのは、かれはこれより前に上海と南京との付近の地形の調査を行っていたからである。

一九三七年十月八日に、松井は声明を発して、『降魔の利剣は今や鞘を離れてその神威を発揮せんとしている。また軍の使命は日本の居留民及び権益を保護する任務を完全に果し、南京政府及び暴戻支那を膺懲するにある』と述べた。上海の周辺の戦闘地域は拡大するものと思われたので、松井は中支那方面軍司令官に任命された。

一九三七年十一月下旬に、武藤章は松井の参謀副長に任命された。上海が攻略されてから約一ヵ月を経て、日本軍は南京郊外に到着した。松井は、南京は支那の首都であるから、その占領は国際的事件であり、日本の武威を発揚して中国を畏服させるように、周到な研究をしなければならないという意味の命令を発した。日本側の降服要求は、中国政府によって無視された。

爆撃が始まり、同市は一九三七年十二月十三日に陥落した。南京に入城した日本軍は、新編成の部隊ではあったが、経験のある部隊から成り立っていた。一九三七年十二月十七日に、松井は意気揚々と入城した。十二月十三日から後に、『南京暴虐事件』として知られるようになった事件が起った。これは追って取り上げることにする。一九三八年一月一日に、臨時の自治団体が設立され、中国の正式国旗である青天白日旗の代わりに、廃止されていた昔の中国の五色旗を掲げた。

(※【畏服】 ⇒ おそれおののいて従うこと。 --- コトバンクから引用)



軍事行動による犠牲者数


【陸戦の法規慣例に関する条約】【第二十五条】には、この様な記載があります。(※下記【砲撃】には、航空機による【爆撃】も含まれます。)



陸戦の法規慣例に関する条約 第二十五条

防守せざる都市、村落、住宅又は建物は、如何なる手段に依るも之を攻撃又は砲撃することを得ず



『戦時国際法講義 第二巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

因みに記す。前掲第二十五条の『砲撃』の原語ボムバーデーは、今日では砲撃のみならず空下爆撃を含むのであるから、之を砲撃と訳するのは同語の現代の意義に適合しない。…



『国際法V』 田岡良一著(※国際法学者)

若干の学者は、「第二十六条は主として陸戦における都市砲撃を規定したものであるとは言え、都市爆撃も非戦闘員の生命を害する点において都市砲撃と異なるところはないから、この規定の準用を受けねばならぬ」と主張する。一九二七年のギリシャ・ドイツ間の混合仲裁裁判所の判決も、第一大戦中のドイツ飛行船のサロニカ爆撃について、この見解を採り、ドイツ軍の違法性を認めた。第二十六条の規定は砲撃のみに限らないという見解は正しい。



陸戦の法規慣例に関する条約 第二六条

攻撃軍隊の指揮官は強襲の場合を除くの外砲撃を始むるに先ち其の旨官憲に通告する為施し得べき一切の手段を尽すべきものとす



上記は【防守せざる都市】への砲爆撃に対して制限を加えたものですが、この【防守】とは、どの様な状態を指しているのでしょうか。これについては様々な見解があるのですが、【国際法学者竹本教授、立博士】は、この様に述べています。



国際法上において【城廓をめぐらした都市】【防守された都市】として理解されている


『国際人道法の再確認と発展』 竹本正幸著(※国際法学者)

陸軍による都市の砲撃については、一八七四年のブラッセル宣言が「開放され防守されていない都市は、攻撃も砲撃もしてはならない」と述べ、「城廓をめぐらした都市」、「開放された都市」と「防守されていない」という表現を共に使用していたのに対して、ヘーグ陸戦規則第二十五条では、「防守せざる都市」の語句だけが使用された。

しかし、「城廓をめぐらした都市」と「防守された都市」とは、同じ意味であると理解されてきた。

したがって、陸戦においては、「防守」「無防守」が都市に対する砲撃の合法性の基準とされ、防守都市に対する砲撃は違法ではないとされた。

(※【城廓】 ⇒ 城の周囲に設けた囲い。城壁。城と外囲い。 - コトバンクから引用)



『戦時国際法論』 立作太郎博士(※国際法学者)

第五章 陸戦に於ける突撃、攻囲及砲撃 第四節 砲爆撃

所謂防守せる都市村落とは、必ずしも城塞を囲らし、又は其近傍の砲台に依り掩護せらるるものなるを要せぬのである。都市村落内又は其近傍に在る兵力、又は航空機、高射砲等の設備に依りて、其場所に敵の兵力の進入せんとし、又は其場所に於て破壊の行はれんとするに対して防御を行ふときは、防守せられたる都市村落となるのである。

城塞を囲らし又は其近傍の砲台に依り掩護せられたる都市村落は、防守されたるものと推定し得べく、抵抗を為さざるの態度が明白となるにあらざる以上は、砲爆撃を加ふるを得べきである。



言うまでも無く、【南京城】は完全に【城壁】に囲まれた都市であり、【防守都市】と解釈されます。【防守せざる都市】と異なり、この【防守都市】に対しては、国際法上では【無差別砲撃】が容認されているのです。



『南京事件と戦時国際法』 佐藤和男教授(※国際法学者)

五、結論的所見

…支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない。



南京の城壁



【防守都市南京】に対しては日本軍は占領を行う為に【無差別砲撃を加えても許される】


『空襲と国際法』 田岡良一著(※国際法学者)

第一款 陸軍砲撃 三 結論

…以上の研究を要約すれば、軍事上重要なる一定の目標は其存する場所の如何を問はず、是を砲撃によって破壊する事を得る。従って防守せざる都市に存する場合と雖、是を破壊する為に砲撃の外に道なき時は其砲撃は適法となる。

右の一定の目標以外に対する砲撃を国際法は原則として禁止する。

此原則に対する唯一の例外は、都市が防守せられたる場合に就いて存する。此場合都市に対する無差別砲撃が許される。しかし此処に言ふ防守は、占領の企図に対する抵抗を意味するのである。

若干の学者か砲撃を二大別して「占領の砲撃」と「破壊の砲撃」とし、前者は無差別たるを得るも後者は一定の目標に限られると言ふのは、右の事理を簡潔に表現したものであって、此砲撃の分類は記憶せられる価値があると思ふ。



そして、日本軍の砲爆撃により【南京の不幸な市民】に犠牲者が出たとしても、国際法上では、【都市内にある一般住民の身体財産にまで損害を及ぼしたとしても違法とはされない】と判断されるのです。



【都市が抵抗する場合】一般住民の身体財産にまで損害を及ぼしたとしても【違法ではない】


『国際人道法の再確認と発展』 竹本正幸著(※国際法学者)

まず第一に、防守都市と無防守都市の区別は、無差別砲撃が許されるか否かに関する基準であることを注意しなければならない。単に砲撃(どのような形のものであれ)が許されるか否かについての基準ではない。

地上兵力が或る都市を占領しようとするのに対してその都市が抵抗する場合には、攻撃軍による砲撃がたとえ都市内にある一般住民の身体財産にまで損害を及ぼしたとしても違法とはされない。ヘーグ陸戦規則第二十五条が無防守都市に対する砲撃を禁止したのは、この無差別砲撃であった。

第二に、無防守都市にある軍事上重要な施設に対する砲撃は違法ではないことを注意しなければならない。ヘーグ陸戦規則第二十五条は、あたかも無防守都市に対する一切の砲撃を禁止しているかにみえるが、慣習法上認められてきたこの権利を排除するものではなかった。

慣習法の規則を無視して第二十五条の文言だけから判断する者は、陸戦においては無防守都市に対する一切の砲撃が禁止されているのに対して、海軍では無防守都市の軍事目標に対する砲撃が許されると考え、両者の違いを強調する。

たしかに、海軍砲撃条約が軍事目標主義を明記したことは重要であるが、そのことから陸軍砲撃の規則と海軍砲撃のそれとの違いを導き出すことはできない。

ヘーグ陸戦規則が無防守都市の軍事目標に対する砲撃について明文の規定をおかなかったのは、当時の陸軍砲の射程距離が短く作戦地帯の背後にある軍事目標を砲撃することが事実上不可能であったため、そのことを明記する実際上の価値がなかったことによるにすぎない。

慣習法の規則も含めてヘーグ陸戦規則と海軍砲撃条約とを解釈すれば、砲撃に関する規則は、全くの同一内容となるのである。



『戦時国際法』 立作太郎博士(※国際法学者)

一国の兵力の一部を成さざる非交戦者たる敵国の私人は、往時に於ては之を殺傷し又は俘虜とするを得べしとし、殊に強襲に依りて攻取せる都市又は要塞内の住民は、攻撃軍の之を殺傷するに委するを例とせしが、十八世紀に至り、敵国の私人が敵対行為に加はらざる以上は、直接に之を攻撃殺傷するを得ざること認めらるるに至り。但作戦行動より偶然生ずべき間接の被害を免れず。(例えば一都市を砲撃するに当り住民の之が為に死するものあるも已むを得ざるなり。)



『空襲と国際法』 田岡良一著(※国際法学者)

第五章 軍事目標の爆撃に当って一般人民に及ぼす損害

(一)軍事目標を爆撃するに当り、該目標の占める空間に存する非戦闘員の身体に生ずべき損害は違法とならないのみならず、

(二)目標の破壊の結果が周囲に及んで他の財産と平和的人民とを害する事、及び爆撃に際して生じ得べき誤差に依って爆撃が目標以外に落下して他の財産及び非戦闘員を害する事は、爆撃者の故意に出ない限りは違法の責を生じない。



【無差別砲撃】を加える事すら認められていた【南京城】に対して、日本軍は、砲爆撃の際に【南京の不幸な市民】の大半が避難していた【安全区】を尊重していた事が確認されています。この点も踏まえると、日本軍の砲爆撃に【違法性は無かった】と判断して問題はないでしょう。



日本軍は砲爆撃の際に【安全区】内には極力【被害を及ぼさない様に配慮】していた


『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』 富澤繁信著

第一号 南京日本軍司令官への手紙
(※南京安全地帯国際委員会、寧海路 Ninghai Road 五号)

一九三七年十二月十四日

謹啓
私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝し、安全地帯の中国人一般市民の保護に関する今後の方策について貴下との接触を確立するために、この手紙をお送りしております。…

南京安全地帯国際委員会 ジョン・H・D・ラーベ委員長



17 南京における外国人の役割称賛される 一九三七年十二月十九日

◇外国人グループ、包囲攻撃中も留まり、負傷者や多数の難民の世話にあたる
◇生命、しばしば危険にさらされる
◇市政府官吏避難のため、安全区委員会が任務を遂行

F・ティルマン・ダーディン 上海 十二月十八日発 ニューヨーク・タイムズ宛無線

ドイツ人、グループの長を務める
日本軍は南京において、中国軍部隊および軍事施設のない地域は攻撃しないことを約束していたし、中国軍も、安全区からすべての兵隊および軍事設備を撤去することを誓約していた。しかしながら、唐将軍は武装解除の完了時期決定を保留していた。実際には、中国軍の武装解除の具合は、委員会が安全区の設立を公式に発表できるほど十分ではなかったことは否めない。

それにもかかわらず、この地域は暫くのあいだ、かなりの規模にわたって非武装地域となり、そのため日本軍もあえてこの地域を砲爆撃する必要性を認めなかった。その結果、一〇万人を超す非戦闘員たちは、安全区の上を通過するひっきりなしの砲弾による恐怖にもかかわらず、日本軍の市内への入城までは比較的安全に過ごすことができた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



71 南京の暴行
≪サウスチャイナ・モーニング・ポスト≫ 一九三八年三月十六日

◇アメリカ人目撃者、侵入者の放蕩を語る
非武装の中国人虐殺さる

一九三七年十一月二十八日までは、各国大使館と中国軍司令官唐生智の間で、南京の安全区に関する交渉が行われていた。

その数日後、外国大使館の強い要請に折れて、日本軍は安全区を尊重する協定に調印した。南京市の北西にある、南北二マイル、東西一・五マイルのこの地区から、中国軍・中国政府機関がすべて移動を開始した。

十二月十日、市内に砲弾が落ち始めた。この日には、唐将軍は安全区からの移動をすべて完了していた。市の南部は激しい砲弾に見舞われたが、安全区には、境界に二〇発の砲弾しか落ちなかったことからみても、日本軍が区を避けて大砲を撃っていたことは明らかである。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



147 金陵大学病院からの手紙 ロバート・O・ウィルソン医師

十二月十四日
日本軍はとくに大砲の射撃に際して、安全区を尊重しているように見えたし、私たちの誰ひとりも危うく砲弾に当たるようなことも実際なかった。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



『南京事件と戦時国際法』 佐藤和男教授(※国際法学者)

五、結論的所見

…支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない。




次に、下記の【兵士の暴行による死者(=Deaths by Soldiers' violence)】【拉致された者(=Taken away)】をまとめて検証してみます。



----- 『スマイス報告』における南京の不幸な市民の犠牲者数算出結果 -----

 原因 犠牲者数
 軍事行動による死者 (Deaths by Military operations) 850人
 兵士の暴行による死者 (Deaths by Soldiers' violence) 2400人
 原因不明の死者 (Deaths by Unknown) 150人
 拉致された者 (Taken away) 4200人
 合計 7600人


【兵士の暴行による死者(=Deaths by Soldiers' violence)】については、【スマイス報告(※家族調査)】では、男女別の犠牲者数が算出されています。



南京市民犠牲者数男女年齢別


男女別で見ると、【男性の犠牲者数1,800人、女性の犠牲者数650人】となっており、【兵士の暴行による男性の犠牲者】の方が遥かに多かった事が確認できます。

(※上のTABLE5の結果では犠牲者数の合計が【2,450人】となり、上表の【兵士の暴行による死者(=Deaths by Soldiers' violence)2,400人】と一致しません。何らかの集計ミスがあったと思われます。)

【スマイス報告(※家族調査)】では、上記の【兵士の暴行による死者(=Deaths by Soldiers' violence)】【拉致された者(=Taken away)】に対して、下記見解が述べられています。



【兵士の暴行による男性犠牲者】の多くは【元支那兵と推測されて殺害されたもの】


日本軍により【拉致された者】としてリストに上げられていたのは【全て男子】だった


『スマイス報告』

"WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA" December, 1937 to March, 1938
URBAN AND RURAL SURVEYS By Dr. Lewis S. C. Smythe

性別・年齢による分布

…もし我々が、暴行または拉致を被った者達の性別・年齢による分析をすれば、我々は、殺害・負傷した男性の割合は、全年齢層においては64%、30〜44歳の年齢層においては76%もの高い割合に達していた事を確認する事になる。

壮健な男性は元兵士の疑いの下にあり、多くの者が、手の上にタコがあったために、銃をかついでいた証拠と推測され、殺害された。

DISTRIBUTION BY SEX AND AGE

…If we analyze by sex and age those who suffered violence or abduction, we find that the percent of males in the killed and injured was for all ages 64, and reached for ages 30-44 the high percentage of 76.

Able-bodied men were under suspicion of being ex-soldiers; many were killed for having callouses ontheir hands, supposed evidence of carrying rifles.



『スマイス報告』

"WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA" December, 1937 to March, 1938
URBAN AND RURAL SURVEYS By Dr. Lewis S. C. Smythe

2. 戦争行為による死傷
死傷者数および原因

以上に報告された死傷者に加えて、4200人が軍隊に拉致された。臨時の荷役に就いた者、あるいはその他軍の労役のために徴発された者については、ほとんど報告されていない。6月までに、ここに述べている拉致されたもの内、わずかな者についてはその消息を聞いた。それ以外の者達の大半の運命は、早い時期に殺されたものと考える理由がある。[注3] 拉致された者の数字は、明らかに不完全である。

注3 -- 「拉致」の深刻さは、拉致された者としてリストに上げられた者が全員が男子だった事実により明確にされている。

2. DEATHS AND INJURIES DUE TO HOSTILITIES
Number and Cause

In addition to those reported killed and injured, 4,200 were taken away under military arrest. Persons seized for temporary carrying or other military labor were seldom so reported. Very few of those here mentioned were heard from in any way up to June. The fate of others gives reason to think that most of them were killed early in the period.[3] The figures for persons taken away are undoubtedly incomplete.

[3]. The seriousness of "taking away" is underlined by the fact that all so listed are males.



『スマイス報告』

"WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA" December, 1937 to March, 1938
URBAN AND RURAL SURVEYS By Dr. Lewis S. C. Smythe

3. 正確度の点検
殺害・拉致された者の性別・年齢分布は、1932年の人口図と比較して、若い男性の比率の減少を一致させている。家族構成分析では、破壊された家族の比率は、移住した者、殺された者、連行された者の数を考慮して予測したものと同様である事を示している。(表2, 3および5と比較せよ)

3. Checks on Accuracy
The sex and age distribution of the killed and taken away agrees with the decline of proportion of young males as compared with figures for the 1932 population. The family composition analysis shows a proportion of broken families similar to what one would expect in view of the number of persons migrating, killed and taken away. (Compare Tables 2, 3, and 5.)



即ち、【兵士の暴行による死者(=Deaths by Soldiers' violence)】【拉致された者(=Taken away)】の犠牲者の大半が、【支那敗残兵と見なされた】為に発生したものだったのです。

となると、南京城が陥落した際に確認された、【便衣(※平服)に着替えて安全区内に潜伏した支那敗残兵】の存在が浮かび上がってきます。(※【第03項】参照)



20 中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為
一九三八年一月九日 F・ティルマン・ダーディン

上海十二月二十二日発 ニューヨーク・タイムズ宛航空便

武装を解く
日曜日夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。

軍服と一緒に武器も捨てられたので、通りは、小銃、手榴弾、剣、背嚢、上着、軍靴、軍帽などで埋まった。下関門近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から二ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨場のようになっていた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



一九三八年二月四日 A・T・ステイール
<シカゴ・デイリー・ニューズ>紙外信部特別通信
<シカゴ・デイリー・ニューズ>社版権所有、一九三八年

南京発。……

日本軍が街路をゆっくり巡回して、走ったり疑わしい動きをするものなら誰でも、機関銃と小銃で射殺するようになると、敗退し闘志を失った軍隊はいわゆる安全区になだれこんだ。そこは掃討を受けていない最後の地域の一つであったが、一方、街路は地獄であった。

まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨てていた。町のあちこちで兵士が軍服を投げ捨て、店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を身につけているのを見た。下着だけで歩き回る者もいた。中国の役人の家から盗んだらしい山高帽に下着だけの格好で、ある兵士が得意げに町を散策しているのも見かけた。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



南京特務機関 南京班第二回報告(二月中状況)

三、南京市警察庁

南京城攻略の情勢に鑑み、敗残兵及抗日分子相当多数難民中に潜在しありしこと事実にして之が検挙は喫緊の急務に属し、隠匿兵器亦城内外全域に亘り相当多数散在しありしを以て右捜索の必要もあり、入城皇軍部隊に協力して南京し治安を早急に確立せしむべく、自治委員会正式成立後、直ちに警察庁の開設に関し計画を進め、一月十日旧首都警察庁舎に於て発会式を挙行したり。

(※『十五年戦争極秘資料集 第十三集 華中宣撫工作資料 井上久士 不二出版』から引用)



本項の冒頭にも書きましたが、【南京の不幸な市民】の被害で、最も多かったのは【拉致による被害】でした。



日本軍による【南京の不幸な市民】への被害で最も多かったのは【拉致による被害者】


----- 『スマイス報告』における南京の不幸な市民の犠牲者数算出結果 -----

 原因 犠牲者数
 軍事行動による死者 (Deaths by Military operations) 850人
 兵士の暴行による死者 (Deaths by Soldiers' violence) 2400人
 原因不明の死者 (Deaths by Unknown) 150人
 拉致された者 (Taken away) 4200人
 合計 7600人


そして、この【拉致された者(=Taken away)】に対して、南京大虐殺肯定派の第一人者でもある洞教授が、下記の重要な見解を述べているのです。(※下記見解文中にある【そば杖】が重要なキーワードになります。)



『南京大虐殺の証明』
洞富雄著(※歴史学者)


この調査報告によると、日本軍の南京占領中に生じた南京市民の死者は六六〇〇人で、そのうちわけは「兵士の暴行によるもの」(日本軍将兵の無差別虐殺)二四〇〇人、「拉致されたもの」(「便衣兵」狩りのそば杖で連行、処刑されたもの)四二〇〇人、となっている。




一旦、本項でまとめた検証結果を整理します。いわゆる『南京事件』に関連した【南京の不幸な市民の犠牲者】は下記という事になります。



----- 『スマイス報告』における【南京事件】関連の犠牲者数算出結果 -----

 原因 犠牲者数
 兵士の暴行による死者 (Deaths by Soldiers' violence) 2400人
 拉致された者 (Taken away) 4200人
 合計 6600人


上記【6,600人】の内、【男性犠牲者数1,800人+拉致された者4,200人=6,000人】の大半が、【支那敗残兵と見なされた】為に被害を受けたという事になります。



暴行による南京男性犠牲者数


『スマイス報告』

"WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA" December, 1937 to March, 1938
URBAN AND RURAL SURVEYS By Dr. Lewis S. C. Smythe

性別・年齢による分布

…もし我々が、暴行または拉致を被った者達の性別・年齢による分析をすれば、我々は、殺害・負傷した男性の割合は、全年齢層においては64%、30〜44歳の年齢層においては76%もの高い割合に達していた事を確認する事になる。

壮健な男性は元兵士の疑いの下にあり、多くの者が、手の上にタコがあったために、銃をかついでいた証拠と推測され、殺害された。

DISTRIBUTION BY SEX AND AGE

…If we analyze by sex and age those who suffered violence or abduction, we find that the percent of males in the killed and injured was for all ages 64, and reached for ages 30-44 the high percentage of 76.

Able-bodied men were under suspicion of being ex-soldiers; many were killed for having callouses ontheir hands, supposed evidence of carrying rifles.



『スマイス報告』

"WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA" December, 1937 to March, 1938
URBAN AND RURAL SURVEYS By Dr. Lewis S. C. Smythe

2. 戦争行為による死傷
死傷者数および原因

以上に報告された死傷者に加えて、4200人が軍隊に拉致された。臨時の荷役に就いた者、あるいはその他軍の労役のために徴発された者については、ほとんど報告されていない。6月までに、ここに述べている拉致されたもの内、わずかな者についてはその消息を聞いた。それ以外の者達の大半の運命は、早い時期に殺されたものと考える理由がある。[注3] 拉致された者の数字は、明らかに不完全である。

注3 -- 「拉致」の深刻さは、拉致された者としてリストに上げられた者が全員が男子だった事実により明確にされている。

2. DEATHS AND INJURIES DUE TO HOSTILITIES
Number and Cause

In addition to those reported killed and injured, 4,200 were taken away under military arrest. Persons seized for temporary carrying or other military labor were seldom so reported. Very few of those here mentioned were heard from in any way up to June. The fate of others gives reason to think that most of them were killed early in the period.[3] The figures for persons taken away are undoubtedly incomplete.

[3]. The seriousness of "taking away" is underlined by the fact that all so listed are males.



『南京大虐殺の証明』
洞富雄著(※歴史学者)


この調査報告によると、日本軍の南京占領中に生じた南京市民の死者は六六〇〇人で、そのうちわけは「兵士の暴行によるもの」(日本軍将兵の無差別虐殺)二四〇〇人、「拉致されたもの」(「便衣兵」狩りのそば杖で連行、処刑されたもの)四二〇〇人、となっている。



次項でも引き続き検証したいと思います。




--【第31項】 『スマイス報告』が語る≪南京事件の真実≫ 【前編】--

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