-- ◆【第04章】 いわゆる『南京事件』と支那敗残兵処断◆ --

--【第47項】 『幕府山事件』と『兵士達の日記』 【中編】--

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前項に続き、1937年12月15日の日記を検証してみます。

前日、【幕府山砲台】を占領した山田支隊は、【一万数千人】に上る支那敗残兵を捕えましたが、この日も引き続き支那敗残兵を捕えていた様です。【菅野嘉雄(※仮名)】陣中日記によれば、【総計約二万】に達したと記載されています。



1937年12月15日 --- 【幕府山砲台】占領後も引き続き支那敗残兵を捕獲(※総計約二万?)


斉藤次郎(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊本部通信班、輜重特務兵]


午前七時起床。朝の礼拝をして武運長久を祈願する。今日は滞在なのでゆっくり起きる。今日は歩兵は残敵掃討するのに朝九時頃出発して要塞地帯一帯に行く。

自分と■■■、■■■君等三名で馬糧を徴発して来る。午后から馬の治療があるので愛馬泰容の鞍傷を治療する。終ってから青田獣医殿の厚意で砂糖小豆を御馳走になる。

今日も残敵五、六百名を捕虜にしたとか。今夜は早く就寝して疲れを医やす。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



堀越文男(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊本部通信班、伍長]


午前九時朝食十時頃より■■■伍長と二人して徴発に出かける。何もなし。唐詩三百首一冊を得てかへる。すでに五時なり。揚子江岸に捕虜の銃殺を見る。三四十名づゝ一度に行ふものなり。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



伊藤喜八(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



中野政夫(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵)


敗残兵数百降伏し来るとの報に一同出動。約二千米山中に小銃約百丁チェック四銃重機二其の他多数の弾薬を置き逃走。右武器を前日占領の自動車にて中隊に運ぶ。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す。本日も出発の様子なく警戒に任ず。中隊は衛生を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。

夕方より一部食事をやる。兵へも食糧配給出来ざる様にて捕虜兵の給食は勿論容易なものではない。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



杉内俊雄(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、少尉]


中隊主力(■小隊欠)残敵掃蕩為出動。小隊軍旗護衛為待機。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



柳沼和也(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


何する事もなくして暮す。其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発して来た。支那饅頭うまかった。十六師団が敗残兵を殺すのを見たが残酷だったと聞く

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



大寺隆(※実名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


…こゝに着く少し前で敗残兵を一人殺す こゝこは大変大きなセメント会社だ…

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


午前七時起床。午前九時第■小隊命を受け幕府山東側江岸に敗残兵掃蕩に赴き三百六名捕虜とし尚一万近き敵兵ありとの情報を得たるも午後一時途中より引返す。

午後九時より日直将校服務。夜半一時銃声にて目覚む。第八中隊より立哨中の歩哨敵兵を射撃中誤ちてR本部の伝令を射ち負傷せしめたりとの報告を受け直に取調べ報告書を作製午前三時就眠す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



本間正勝(※仮名)戦斗日誌 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第9中隊、二等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



高橋光夫(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第11中隊、上等兵]


朝八時に出発。前夜は宿舎にて陣中の真の風景。三方を壁にて月光が輝々と光りまったく言ふことのできない風景である。四時に竜潭に着す。この途中にて支那人二人を殺す…

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


今日も引続き捕虜あり。総計約二万となる。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月15日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



黒須忠信(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、上等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



目黒福治(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、伍長]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



注目される記載として、【宮本省吾(※仮名)】陣中日記に、【捕虜への給食】に対して言及している点が上げられます。膨大な支那敗残兵への給食は困難を極めた様で、【山田栴二】少将日記、【栗原利一】証言、1937年12月17日朝日新聞朝刊でも同様の認識が示されています。特に、【山田栴二】少将日記には、【皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す】と書かれており、状況の深刻さが伺えます。



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す。本日も出発の様子なく警戒に任ず。中隊は衛生を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。

夕方より一部食事をやる。兵へも食糧配給出来ざる様にて捕虜兵の給食は勿論容易なものではない。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)




山田栴二少将日記 1937年12月15日 --- 【皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。】


山田栴二少将日記 12月15日(※山田支隊指揮官)

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

昭和13年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。…

※栗原氏証言
しかし自分たちの食料にもこと欠くありさまで、捕虜に与える食物がなく、ようやく烏龍山(注 - 幕府山の間違いか)砲台から馬で運んで来て、粥を1日1回与えるだけが精一杯であった。水も不足し、自分の小便まで飲む捕虜がいたほどの悲惨な状態であった。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



『持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種』 朝日新聞1937年12月17日 朝刊

[南京にて横田特派員16日]

両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を捨てさせ附近の兵営に押込んだ。

一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ。○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ 」と優しい仁愛の言葉を投げると手を挙げて拝む、終ひには拍手喝采して狂喜する始末で余りに激変する支那国民性のだらし無さに今度は皇軍の方で顔負けの体だ。

それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ。

一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。部隊では早急大小行李の全駄馬を狩集めて食べ物を掻き集めている始末だ。



また、他師団においては、【支那敗残兵処断】が行われていた様です。【水谷壮一(※第九師団歩兵第七連隊所属)】日記にも、【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那兵】に対する徹底した掃討戦の状況が記載されています。



堀越文男(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊本部通信班、伍長]


揚子江岸に捕虜の銃殺を見る。三四十名づゝ一度に行ふものなり。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



柳沼和也(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


十六師団が敗残兵を殺すのを見たが残酷だったと聞く

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)




水谷壮一日記 --- 【敗残兵】は徹底的に掃討せよとの【軍司令官松井大将の命令】が出ていた


第九師団歩兵第七連隊 水谷壮一等兵の日記

12月13日
市内の掃蕩に移る。おびただしい若者を狩り出してくる。色々の角度から調べて軍人らしい者二一名を残し、残りは放免する。

12月14日
昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩に当り、若い男子の殆んどの、大勢の人員が狩り出されて来る。靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢の良い者、日付きの鋭い者、等よく検討して残した。昨日の二十一名と共に射殺する。

12月15日
…難民区に行く。中山路だろうか広い道路はぎっしりと路面をおおいつくし、逃走の際脱ぎ捨てられたものの如く、支那軍の軍装で埋めつくされていた。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



第九師団歩兵第七連隊 水谷壮一等兵 1937年12月16日の日記

目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みにくる。

市民と認められる者はすぐ帰して、三十六名を銃殺する。皆必死になって助命を乞うが致し方もない。

真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという。多少の犠牲者は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)




続いて1937年12月16日の日記を検証します。この日は【重大な事件】が発生しています。

支那敗残兵を収容していた建物から【火災】が発生したのです。兵士達の日記からは【火災】の発生原因はわかりませんが、【両角業作】手記によれば、【彼らの計画的なもの】と述べられています。また、【火災】が発生した時刻については、兵士達の日記によれば【正午頃】と記されていますが、【両角業作】手記では【暗に鉄砲=夜】となっています。



1937年12月16日 --- 捕えた【支那敗残兵を収容していた建物】から突然【火災】が発生した


斉藤次郎(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊本部通信班、輜重特務兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



堀越文男(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊本部通信班、伍長]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



伊藤喜八(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



中野政夫(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


警戒の厳重は益々加はりそれでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す。しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す。午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



杉内俊雄(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、少尉]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



柳沼和也(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



大寺隆(※実名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


…夕方、西白河と相馬から来て居る者の所に行き(大谷君と)夕食を御馳走になり砂糖を貰らって来る。分隊では夕食を済まして居た。それから又食ふ、芋は食ふ、今日はガサ食ってしまった。今晩は郡君が泊りに来て二人で寝る。七時半だった。敗残兵が出て二人殺す。十六連隊の一部が夕方敗残兵を掃蕩して来た…

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


定刻起床。午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く。午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す。

同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く。捕虜総数一万七千二十五名。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しTに於て射殺す。

一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



本間正勝(※仮名)戦斗日誌 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第9中隊、二等兵)]


午前中隊は残兵死体整理に出発する。自分は患者として休養す。午后五時に実より塩規錠をもらふ。捕虜三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す。午后十時に分隊員かへる。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



高橋光夫(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第11中隊、上等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


飛行便の葉書到着す。谷地より正午頃兵舎に火災あり約半数焼失す。夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


午前中給需伝票等を整理する。一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く。そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る。丁度見本展の様だ。お陰で随分酩酎した。

夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く。遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する。

月は十四日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし戦場ならざれば見るを得ざるところなり 九時半頃帰る 一生忘るゝ事の出来ざる光景であった。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



黒須忠信(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、上等兵]


午后一時我が段列より二十名は残兵掃蕩の目的にて幕府山方面に向ふ。二三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す。其の后銃剣にて思ふ存分に突刺す。

自分も此の時ばかりと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。山となって居る死人の上をあがって突刺す気持は鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱい突刺したり。うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る。一人残らず殺す。刀を借りて首をも切って見た。こんな事は今まで中にない珍らしい出来事であった。

■■少尉殿並に■■■■■氏、■■■■氏等に面会する事が出来た。皆無事元気であった。帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



目黒福治(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、伍長]


休養。市内に徴発に行く。至る処支那兵日本兵の徴発せる跡のみ。午後四時山田部隊にて捕えたる敵兵約七千人を銃殺す。揚子江岸壁も一時死人の山となる。実に惨たる様なりき。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)




両角業作手記 -- 【出火は彼らの計画的なもの】で逃亡を防ぐために射撃したが【暗に鉄砲】だった


両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。

残りは八千人程度であった。これを運よく幕府山南側になった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)---とりあえず、この建物に収容し、食糧は要砦地下倉庫に格納してあったものを運こび、彼ら自身の手で給養するよう指導した。

当時、我が連隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。

炊事が始まった。其棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、連隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくとも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



【宮本省吾(※仮名)】陣中日記によれば、この【火災】のため、【最後の取るべき手段を決して捕虜を射殺した】と記されています。また、【遠藤高明(※仮名)】陣中日記によれば、【捕虜への給食】について、【兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能】と記されており、同日の【横田特派員】報告でも、同様の認識を確認する事ができます。前日15日の兵士達の日記でも【捕虜の食糧事情の深刻さ】が記されていましたが、【捕虜の食糧確保が不可能】であった状況に、【火災】の発生が追い打ちをかけた様です。尚、この時処断された支那敗残兵は、全体の三分の一【数千人規模】であったと記されています。



【支那敗残兵の食糧確保が不可能】だった事に加えて【収容所の火災が追い討ちをかけた】


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す。午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す。

捕虜総数一万七千二十五名。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しTに於て射殺す。

一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


正午頃兵舎に火災あり約半数焼失す。夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く。遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く。そして全部処分を終る。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



『持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種』 朝日新聞1937年12月17日 朝刊

[南京にて横田特派員16日]

両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を捨てさせ附近の兵営に押込んだ。

一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ。○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ 」と優しい仁愛の言葉を投げると手を挙げて拝む、終ひには拍手喝采して狂喜する始末で余りに激変する支那国民性のだらし無さに今度は皇軍の方で顔負けの体だ。

それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ。

一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。部隊では早急大小行李の全駄馬を狩集めて食べ物を掻き集めている始末だ。




山田栴二少将日記 1937年12月15日 --- 【皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。】


山田栴二少将日記 12月15日(※山田支隊指揮官)

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す。本日も出発の様子なく警戒に任ず。中隊は衛生を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。

夕方より一部食事をやる。兵へも食糧配給出来ざる様にて捕虜兵の給食は勿論容易なものではない。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

昭和13年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。…

※栗原氏証言
しかし自分たちの食料にもこと欠くありさまで、捕虜に与える食物がなく、ようやく烏龍山(注 - 幕府山の間違いか)砲台から馬で運んで来て、粥を1日1回与えるだけが精一杯であった。水も不足し、自分の小便まで飲む捕虜がいたほどの悲惨な状態であった。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



【支那敗残兵が処断された場所】は、兵士達の日記では揚子江岸等としか記載されていませんが、極東国際軍事裁判での支那側証人【魯甦】によれば、【下関、草鞋峡】と証言されています。場所の特定は難しいのですが、旧日本軍兵士達の証言等より、【草鞋峡】にある【魚雷営】だったと推定されています。【紅卍字会南京分会】の埋葬活動記録を参照してみると、【魚雷営】での収容遺体数は、同一場所における収容遺体数の中でも突出している事が確認できます。



南京慈善団体及び人民魯甦の報告に依る敵人大虐殺
(※極東国際軍事裁判での南京暴虐事件証言)


敵軍入城後まさに退却せんとする国軍及び難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山付近の四、五箇村に閉じ込め飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。一九三七年十二月十六日の夜間にいたり生残せる者は鉄線を以て二人を一つに縛り四列に列ばしめ下関、草鞋峡に追いやる。

しかる後機銃を以て悉くこれを掃射し更に又銃剣にて乱刺し最後は石油をかけてこれを焼けり。
焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。…

当時私は警察署に勤務しあるも敵市術戦に際し敵砲弾により腿を負傷し上元門大茅洞に隠れ居りその惨況を咫尺の目前に見し者なり。故にこの惨劇を証明し得る者なり。



下関、草鞋峡


----- 世界紅卍字会南京分会埋葬表(※魚雷営埋葬分) -----

 日付  備考 埋葬地点
 1937年02月19日 524人 下関魚雷軍営脇で収容 下関魚雷軍営脇
 1937年02月20日 197人 魚雷営埠頭で収容 下関草鞋閘空地
 1937年02月21日 226人 魚雷営埠頭で収容 下関草鞋閘空地
 1937年02月21日 5,000人 下関魚雷軍営埠頭で収容 下関魚雷軍営埠頭
 1937年02月22日 151人 魚雷営埠頭で収容 下関草鞋閘空地
 1937年02月22日 300人 下関魚雷軍営埠頭で収容 下関魚雷軍営埠頭
 合計 6,398人

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)


そして、運命の1937年12月17日を迎えます。




--【第47項】 『幕府山事件』と『兵士達の日記』 【中編】--

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