-- ◆【第04章】 いわゆる『南京事件』と支那敗残兵処断◆ --

--【第48項】 『幕府山事件』と『兵士達の日記』 【後編】--

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前項に続き、1937年12月17日の日記を検証してみます。この日は【両角業作】手記や【栗原利一】証言にある、いわゆる【幕府山事件】が発生した日です。(※【第44項】参照)

各兵士達の日記を見ると、揚子江岸に行った理由は、支那兵捕虜を【銃殺】するためとの認識になっています。処断した支那兵捕虜の総数は【一万〜二万】とばらつきがあり、正確な人数は不明です。また、兵士達の日記で、支那兵捕虜を【解放】するとの認識が示されているものはない様です。



1937年12月17日 --- 残余の支那兵捕虜を【銃殺】するため揚子江岸に行った(※一万以上?)


斉藤次郎(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊本部通信班、輜重特務兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



堀越文男(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊本部通信班、伍長]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



伊藤喜八(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵]


午前八時出発。湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひ黙祷して南京中山門通過、我部隊に復帰出来るだろう。

午前十時到着。門内、励志社、陸軍々官学校、警衛司令部などあった。午后一時から南京入城式。夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。その夜は敵の捕虜二万ばかり揚子江岸にて銃殺した。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



中野政夫(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵]


警備。小隊員中■■■■、■■■■■の両名歩哨服む中敵敗残兵のため手榴弾をなげつけられ負傷す。毎日敗残兵の銃殺幾名とも知れず。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


本日は一部は南京入城式に参加。大部は捕虜兵の処分に任ず。小官は八時半出発南京に行軍。午后晴れの南京入城式に参加。荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た。

夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一傷者二に達す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



杉内俊雄(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、少尉]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



柳沼和也(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


四交代の歩哨であるからゆっくりと休まれる。日中は単哨で夜間は複哨である。工兵隊はトウチカを爆発させたり南京の攻撃に一つの印象を残して居る。

夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く。兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと。其の事については余り書かれない。一団(※ママ)七千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



大寺隆(※実名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


…午后五時両角部隊の屯する揚子江沿岸に着き糧秣をもらって宿舎に着く。夕方から風が吹き小雪さへ加はり寒い夜になった。我々之ねぐらは六尺位の棚に六人づゝだ。きゅうくつではあったが割合に暖かだった。

平安路を南進。南京の捕虜約十万。九、十一、十三の各師団。六五の捕虜一万二千(※左は空頁への記事)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


幕府山頂警備の為午前七時兵九名差出す。南京入城式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる。午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城。中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く。

途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見端書にて■子関に便りを送る。帰舎午後五時三十分。宿舎より式場迄三里あり疲労す。

夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名を差出す。本日南京にて東日出張所を発見。竹節氏の消息をきくに北支に在りて皇軍慰問中なりと。風出て寒し。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



本間正勝(※仮名)戦斗日誌 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第9中隊、二等兵]


午前九時当連隊の南京入城。軍の入城式あり。中隊の半数は入城式へ半分は銃殺に行く。今日一万五千名午后十一時までかヽる。自分は休養す。煙草二ケ渡。夜は小雪あり。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



高橋光夫(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第11中隊、上等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


未曾有の盛儀南京入城式に参加。一時半式開始。朝香宮殿下松井軍司令官閣下の閲兵あり。捕虜残部一万数千を銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月17日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



黒須忠信(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、上等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



目黒福治(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、伍長]


午前九時宿営地出発。軍司令官の南京入城式。歴史的盛儀に参列す。午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く。二日間にて山田部隊二万近く銃殺す。各部隊の捕虜は全部銃殺するものゝ如し。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



しかしながら、【第45項】でも触れましたが、支那兵捕虜の【解放】の指示は、山田支隊上層部の一部に出されていたもので、【密かに行われたもの】でした。このため、末端の兵士達は知らなかったので、【解放のためであったとの認識には至らなかった】可能性は十分にあり得ます。(※ここは重要なポイントなので、後の項で詳細に検証したいと思います。)



【支那敗残兵の解放】については公然と行われたものではなく【密かに指示されたものだった】


両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

いろいろ考えたあげく、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」---田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」もし発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配置する。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



田山芳雄少佐証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊第1大隊隊長)

解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻--いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。

この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中州には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから…」…

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



箭内亨三郎准尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊機関銃中隊隊員)

「目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山でした。河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。

確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連隊の一部の人たちが集成一個中隊をつくって出かけたはずです。

私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです。」

実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように…と、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だといわれていましたがね。ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



注目される記載として、【宮本省吾(※仮名)】陣中日記に、【友軍にも多数死傷者を出してしまった】と書かれている点が上げられます。【支那兵捕虜が暴動】を起こしたため一斉射撃に至ったとの証言は、現場に居合わせた全兵士の一致する所で、【事実】と認識して間違いない様です。また、この騒動は、後日、上海派遣軍参謀本部の耳にも入り、【飯沼守】少将及び【上村利道】大佐が日記に書き記しています。



揚子江岸に連行した【支那兵捕虜が暴動】を起こして【友軍兵士に多数の死傷者】が出てしまった


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一傷者二に達す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

昭和13年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。

※栗原氏証言
うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があがり、すぐ機関銃の射撃が始まった。銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。

その後、火をつけて熱さで動き出す生存者を銃剣でとどめをさし、朝三時ころまでの作業にクタクタに疲れて隊に帰った。死体は翌日他の隊の兵も加わり、楊柳の枝で引きずって全部川に流した。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



田山芳雄少佐証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊第1大隊隊長)

「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



箭内亨三郎准尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊機関銃中隊隊員)

「たまりかねて一斉射撃を開始し、鎮圧に乗り出したのです。私の近くにいた第一大隊長の田山少佐が『撃ち方やめ!』を叫びましたが、射撃はやまない。気違いのようになって撃ちまくっている。目の前で戦友が殴り殺されたのですから、もう逆上してしまっていてね…。万一を考え、重機関銃八挺を持っていっていたので、ついには重機関銃まで撃ち出すことになったのです。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



平林貞治中尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊隊員)

一部で捕虜が騒ぎ出し、威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した。その一発が万波を呼び、さらに騒動を大きくしてしまう形になったのです。結局、仲間が六人も死んでしまっているんですよ。あれは偶発であり、最初から計画的に皆殺しにする気なら、銃座をつくっておき、兵も小銃をかまえて配置し、あのように仲間が死ぬヘマはしません。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



飯沼守少将日記 12月21日(※上海派遣軍参謀課課長)

荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。

上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



上村利道大佐日記 12月21日(※上海派遣軍参謀副長)

N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様下手なことをやったものにて遺憾千万なり。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)




最後に、1937年12月18日の日記を検証します。(※兵士達の日記の検証は、この日までとします。)

前日、【支那兵捕虜の暴動】により一斉射撃に至りましたが、この日は、【生き残りの支那兵捕虜の銃殺】及び【銃殺された支那兵捕虜の遺体の片付け】等が行われた様です。同様の証言を、【栗原利一】証言でも確認する事ができます。(※【斉藤次郎(※仮名)】陣中日記に記載されている【捕虜■■■名銃殺する】も、前日の一斉射撃の生き残りの支那兵捕虜を指していると思われます。)



1937年12月18日 --- 前日の一斉射撃の生き残りの【支那兵捕虜の銃殺】や遺体の片付けをした


斉藤次郎(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊本部通信班、輜重特務兵]


午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る。小行李全部が出発する。途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く。吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気たって居る。揚子江岸で捕虜■■■名銃殺する。

昨日まで月光コウヽとして居たのが今夜は曇り薄明い位 霧の様な雨がチラヽ降って来た。寒い北風が耳を切る様だ。

捕虜銃殺に行った十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる。

午前三時帰栄。就寝。朝はゆっくり起床。朝の礼拝をして朝食用意して■■、岡本、■■の三君等と南京見学に行く。都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する。城壁の高さ約三丈及至四丈幅約十四、五間南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ。

敵兵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある。帰途は夕刻近く九時就寝する。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



堀越文男(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊本部通信班、伍長]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



伊藤喜八(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵]


大隊本部に行った。そして午后銃殺場所見学した。実にひどいざん場でした。我軍に戦死十名、負傷者を出した。夕方中隊の自動車にて烏龍山砲台警備の処に復帰致して安心した。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



中野政夫(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵]


警備(大隊に於ては一万七千の捕虜を処分す)。変りたる事もなし。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


昨日来の出来事にて暁方漸く寝に就く。起床する間もなく昼食をとる様である。午后敵死体の片付けをなす。暗くなるも終わらず明日又なす事にして引上ぐ。風寒し。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



杉内俊雄(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、少尉]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



柳沼和也(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



大寺隆(※実名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


今朝は昨日に変る寒さ 風は吹く小雪は降る吹雪だ…

午前中に大隊本部に行き後藤大隊長の訓辞。帰へって中隊長矢本中尉殿の訓辞ありて各分隊に別れる。

午后は皆捕虜兵片付に行ったが俺は指揮班の為行かず。昨夜までに殺した捕虜は約二万揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ。七時だが未だ片付け隊は帰へって来ない。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


午前一時処刑不完全の為生存捕虜あり整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く。寒風吹き募り同三時頃より吹雪となり骨まで凍え夜明の待遠しさ言語に絶す。同八時三十分完了。

風稍々治り天候回復 幕府山警備兵帰舎。南京見学兵六名あり。午前中一時仮眠す。久しく口にせざる林檎一個支給さる。正午第四次補充員九名編入さる。

午後二時より同七時三十分まで処刑場死体一万有余取片付の為兵二十五名出動せしむ。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



本間正勝(※仮名)戦斗日誌 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第9中隊、二等兵]


南京見学と支那兵死体整理と中隊は分れる。自分舎内監視に残る。家へ手紙を出す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



高橋光夫(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第11中隊、上等兵]


午前八時半整列にて各中隊に分類され十二時に中隊第十一中隊に入る。第四次二十二名。これより南京を見学に行こふと思ふが行われなかった。午後には連隊の捕虜二万五千近くの殺したものをかたつけた。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


朝より小雪が降った。銃殺敵兵の片付に行く。臭気甚し。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月18日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



黒須忠信(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、上等兵]


(※支那敗残兵関連記載無し)

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



目黒福治(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、伍長]


午前三時頃より風あり雨となる。朝起床して見ると各山々は白く雪を頂き初雪となる。南京城内外に集結せる部隊数約十ケ師団との事なり。休養。午後五時残敵一万三千程銃殺す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)




栗原利一証言 -- 一斉射撃の生き残りの支那兵捕虜にとどめを刺し【翌日遺体を揚子江に流した】


栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

昭和13年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。…

※栗原氏証言
うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があがり、すぐ機関銃の射撃が始まった。銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。

その後、火をつけて熱さで動き出す生存者を銃剣でとどめをさし、朝三時ころまでの作業にクタクタに疲れて隊に帰った。死体は翌日他の隊の兵も加わり、楊柳の枝で引きずって全部川に流した。

その後20日ころ、揚子江を渡り浦口に行った。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



上記日記の中で、【目黒福治(※仮名)】陣中日記には、またしても不自然な記載が認められます。【18日も午後5時支那敗残兵1万3千程銃殺】と書かれているのです。(※前日17日の日記と同様の記載に見えますので、17日から引き続きの意味で書いたのかもしれませんが、真相は不明です。)



目黒福治(※仮名)陣中日記 12月18日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、伍長]


午前三時頃より風あり雨となる。朝起床して見ると各山々は白く雪を頂き初雪となる。南京城内外に集結せる部隊数約十ケ師団との事なり。休養。午後五時残敵一万三千程銃殺す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



目黒福治(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、伍長]


午前九時宿営地出発。軍司令官の南京入城式。歴史的盛儀に参列す。午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



12月18日にも、約13,000人もの支那兵捕虜が処断されたという記載は、【目黒福治(※仮名)】陣中日記以外では確認できません。また、【両角業作】手記や【栗原利一】証言にもありません。

12月17日の【遠藤高明(※仮名)、菅野嘉雄(※仮名)】陣中日記によれば、17日の支那兵捕虜処断は、【16日の銃殺の残余(※残部)の支那兵捕虜】に対して行われた事が記載されています。つまり、山田支隊が捕えた支那兵捕虜は、17日までに全員が収容所外に連れ出されたものと考えられます。

つまり、【目黒福治(※仮名)】陣中日記より、18日の時点でも、まだ収容所外に連れ出されていなかった支那兵捕虜が約13,000人も残っていたと解釈すると、12月17日の【遠藤高明(※仮名)、菅野嘉雄(※仮名)】陣中日記と整合性が取れないのです。



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名を差出す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


捕虜残部一万数千を銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



【第44項】でも確認しましたが、【目黒福治(※仮名)】陣中日記には、12月13日の記載だけでなく12月18日の記載にも、他の史料や日記と整合性の取れない記載が認められた事になります。こうなると、



【目黒福治(※仮名)】陣中日記についてはその記載内容を【史料的に取り扱う事は難しい】


と判断せざるを得ません。


以上、兵士達の日記を検証しましたが、処断された支那兵捕虜の総数については、【一万有余〜二万五千近く】と差があり、正確な人数は把握できていなかった思われます。歴史学者秦教授は、【多めに八千人と見積もっている】と述べてはいますが、現時点で確認されている史料から総数を明確にするのは困難です。



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

日本側記録で該当するのは、幕府山で山田支隊に捕えられた一万四七七七人の捕虜の一部が揚子江岸(上元門〜草鞋峡)で射殺された事件(本書第五章参照)を指すと思われる。したがって最大限をとっても、犠牲者数は一万五千人を超えず、秦はやや多めに八千人と見積もっている。



また、【両角業作】手記には、【非戦闘員を解放した】【銃火に倒れたる者は僅少の数に止まっていた】と書かれていますが、これらを裏付ける日記記載を確認する事はできませんでした。



両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。

我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。…

(※『南京事件資料集』から引用)



兵士達の日記を見る限りでは、いわゆる【解放説】を裏付ける記載は無い様です。同時に、これまでの検証を振り返る限り、下記も明らかになったと言えます。



【両角隊長自身が支那兵捕虜を全て銃殺するつもりだった】と記している日記記載は見当たらない


どの時点でも構わないのですが、大量の支那兵捕虜を収容した後、【両角業作】大佐が【収容した支那兵捕虜を全て銃殺するつもりだった】との意志を持っていた証拠が無ければ、【密かに解放を指示していた】とする【両角業作】手記を否定する事は困難です。

末端の兵士達は、【両角業作】大佐が【密かに解放を指示していた】事は知らなかったのですから、【認識の違い】が生じていた可能性を否定する事はできません。

少なくとも、【両角業作】手記を完全に否定する記載もしくは証言、即ち、【両角大佐自身に支那兵捕虜殺害の意思があった事を証明する記載もしくは証言】が見つかっていない以上、下記一致している証言を無暗に否定する事はできないのです。



【支那敗残兵の解放】については公然と行われたものではなくて【密かに行われたものだった】


両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

いろいろ考えたあげく、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」---田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」もし発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配置する。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



田山芳雄少佐証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊第1大隊隊長)

解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻--いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。

この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中州には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから…」…

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



箭内亨三郎准尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊機関銃中隊隊員)

「目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山でした。河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。

確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連隊の一部の人たちが集成一個中隊をつくって出かけたはずです。

私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです。」

実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように…と、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だといわれていましたがね。ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



平林貞治中尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊隊員)

「十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。

私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。

途中、とてもこわかった。これだけの人数が暴れだしたら、抑え切れない。銃撃して鎮圧できるだろうという人もいるが、実際には心もとない。

それは現場にいた人でないと、そのこわさはわかってもらえないと思う。第一、暴れ出して混乱したところで銃撃したら、仲間をも撃ってしまうことになるのだからね。」

(※『南京の氷雨』から引用)



いわゆる【幕府山事件】については、



両角隊長自身が【収容した支那兵捕虜を全て銃殺するつもりだった】との意志を有していた証拠


が確認されていない以上、【両角業作】手記の内容を完全に否定する事はできません。従いまして、



【栗原利一証言】及び【兵士達の日記】等により【解放説が否定された】と解釈するのは早計


だと言えます。上記は非常に重要なポイントとなりますので、後の項で改めて詳細に検証したいと思います。




--【第48項】 『幕府山事件』と『兵士達の日記』 【後編】--

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