-- ◆【第04章】 いわゆる『南京事件』と支那敗残兵処断◆ --

--【第52項】 『幕府山事件』における『解放説の信憑性』--

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本項では、【第44〜51項】の内容を踏まえて、あらためて【両角業作】手記による【解放説】の信憑性を再検証してみたいと思います。いわゆる【幕府山事件】において、最も論争となっている部分です。



両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

いろいろ考えたあげく、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」---田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」もし発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配置する。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



まず、【山田支隊】の状況を再確認しておきます。

幕府山要塞等で【山田支隊】が捕えた支那敗残兵は、その数が膨大で、【食糧の確保】等が大変困難な状況となっていました。また、当初は【第16師団(※師団長中島今朝吾中将)】の方で収容する予定でしたが、【第16師団】も想定外の支那敗残兵を捕獲しており、それどころではありませんでした。



飯沼守少将日記 1937年12月15日 --- 【尚増加の見込と。依て取り敢へす16Dに接収せしむ。】


飯沼守日記(※陸軍少将、上海派遣軍参謀長)

≪十二月十五日 霧深し 快晴≫
方面軍参謀長来部の話し

概ね杭州、蕪湖、揚子江右岸地区の安定確保
一部の兵力を大本営の使用に供し得ること
航空隊を以てする要地の爆撃
101Dを以て上海警備(方面軍直轄)
南翔(含む)以西を派遣軍

以上の件及方面軍か入城式を十七日と主張しあり。軍としては早くも十八日を希望の旨申上く。

殿下は入城式に就ては無理をせぬこと、外国人に対し入城式の日時を知らせさること、防空を十分にすべきことを注意せらる。野戦建築部長木崎主計大佐来部今回方面軍直轄となる。

山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千あり。尚増加の見込と。依て取り敢へす16Dに接収せしむ。

四:○○頃松井方面軍司令官湯水鎮着、殿下に代り報告に行く。此時入城式は十七日に決定された旨聞く。

13Dの状況、本日二:○○頃先頭の58i主力は揚州西方を前進中、第二梯団は揚州に入らんとするところ、第三梯団は渡江を終り前進中、師団司令部は明日渡江、(電話本日開通)。

六合占領部隊58iの一大山砲一中基幹は明日小発二十にて出発明日午後六:三○「クリーク」入口に到着「クリーク」を六合に向ふ予定。山田旅団(三大基幹)は十九日南京にて渡江。

長参謀16Dと連絡した結果同師団にては掃蕩の関係上入城式は二十日以後にせられたき申出ありと重ねて方面軍に事情を説明せしむ。

(3D、兵キ、軍イ、獣イ部長天王寺附近にて約五百の敗残兵に襲はれ安否不明とか。草場少将紫金山に登りたる時「トチカ」内より残敵出て来りたるとかの事例あり)。

尚一○:三○過方面軍参謀長を訪ひ話したるも頑として変更の意志なし。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)




中島今朝吾中将日記 1937年12月14日 -- 【城内掃蕩未完。敗残兵の処理等に大多忙を極む。】


中島今朝吾日記 12月13日(※陸軍中将、第16師団長)

◎捕虜掃蕩

一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底其始末に堪へざる程なり。

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる[※れ]共千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻[※騒]擾せば始末に困るので。

部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ。
十三日夕はトラツクの大活動を要したりし乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず斯る
処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり。

一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大[※太]平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る。

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のけ[※か]処に誘きて処理する予定なり。

一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く従つて師団は入城だ投宿だなど云ふ暇なくして東奔西走しつつあり。

一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵キ[※器]の収集も之を為さざるべからず兵キ[※器]弾薬の如き相当額のものあるらし。之が整理の為には爾後数日を要するならん。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



中島今朝吾日記 12月14日 西山高地野滞在(※陸軍中将、第16師団長)

一、此日尚城内の掃蕩未完。加之城外に分散したる部隊の集結、敗残兵の処理等に大多忙を極む。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



【山田支隊】は、本間騎兵少尉を南京に派遣して対応を協議しようとしましたが、【第16師団】から受け入れを拒否された上、下記の【皆殺せとのことなり】との厳しい回答を受けてしまいました。(※本HPでは、【皆殺せとのことなり】は、【第16師団】からの【受け入れ拒否の回答】だったと判断しています。【第50項】参照)



山田栴二少将日記 1937年12月15日 --- 【皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。】


山田栴二少将日記 12月15日(※山田支隊指揮官)

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月14日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


…少佐とか参謀とか云ふ者もあり通訳より「日本軍は皆に対し危害を与へず唯逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通じ支那捕虜全員に対し言達せし為一般に平穏であった。唯水と食糧の不足で全く閉口した様である。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


…夕方より一部食事をやる。兵へも食糧配給出来ざる様にて捕虜兵の給食は勿論容易なものではない。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

※栗原氏証言
しかし自分たちの食料にもこと欠くありさまで、捕虜に与える食物がなく、ようやく烏龍山(注 - 幕府山の間違いか)砲台から馬で運んで来て、粥を1日1回与えるだけが精一杯であった。水も不足し、自分の小便まで飲む捕虜がいたほどの悲惨な状態であった。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



この状況下で、【両角業作】大佐は支那敗残兵に対する処置を一任されました。



両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



【両角業作】大佐は、収容していた支那敗残兵を揚子江の中州【八卦洲】に渡した後、【解放】するつもりであったと証言しています。これが、【解放説】の根拠となり、長い間正史として位置付けられていました。

しかしながら、【栗原利一】証言及び【兵士達の日記】が新たに出てきて、【解放説】の信憑性は大きく揺らぐ事になり、17日の支那敗残兵射殺は、【計画的殺害説】が有力視される様になりました。(※下地図の【護送した場所】は凡その位置になります。【第45項】参照)



両角業作手記 --- 残余の支那兵捕虜を揚子江内の【八卦洲に解放】する様密かに指示を出した


両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

いろいろ考えたあげく、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」---田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」もし発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配置する。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



田山芳雄少佐証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊第1大隊隊長)

解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻--いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。

この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中州には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから…」…

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



箭内亨三郎准尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊機関銃中隊隊員)

「目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山でした。河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。

確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連隊の一部の人たちが集成一個中隊をつくって出かけたはずです。

私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです。」

実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように…と、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だといわれていましたがね。ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



平林貞治中尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊隊員)

「十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。

私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。

途中、とてもこわかった。これだけの人数が暴れだしたら、抑え切れない。銃撃して鎮圧できるだろうという人もいるが、実際には心もとない。

それは現場にいた人でないと、そのこわさはわかってもらえないと思う。第一、暴れ出して混乱したところで銃撃したら、仲間をも撃ってしまうことになるのだからね。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



八卦洲



栗原利一証言 -- 残余の支那兵捕虜を八卦洲に【解放すると見せかけて一斉射撃】して処分した


栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

※栗原氏証言
多分17日と思うが、捕虜を舟で揚子江対岸に渡すということで、午前中かかって形だけだが手を縛り、午後大隊全員で護送した。…

2時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も2、3隻見えた。(スケッチ3)



栗原スケッチ03

※『スケッチ3』上注記


揚子江
ここの中央の島に1時やるためと言って船を川の中程において集めて、船は遠ざけて4方から一斉に攻撃して処理したのである。この時の撃たれまいと人から人へと登り集まるさま。即ち人柱は丈余になってはくづれ、なってはくづれした。



(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



伊藤喜八(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵]


午前八時出発。湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひ黙祷して南京中山門通過、我部隊に復帰出来るだろう。

午前十時到着。門内、励志社、陸軍々官学校、警衛司令部などあった。午后一時から南京入城式。夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。その夜は敵の捕虜二万ばかり揚子江岸にて銃殺した。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


本日は一部は南京入城式に参加。大部は捕虜兵の処分に任ず。小官は八時半出発南京に行軍。午后晴れの南京入城式に参加。荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た。

夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一傷者二に達す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



柳沼和也(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


四交代の歩哨であるからゆっくりと休まれる。日中は単哨で夜間は複哨である。工兵隊はトウチカを爆発させたり南京の攻撃に一つの印象を残して居る。

夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く。兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと。其の事については余り書かれない。一団(※ママ)七千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


幕府山頂警備の為午前七時兵九名差出す。南京入城式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる。午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城。中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く。

途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見端書にて■子関に便りを送る。帰舎午後五時三十分。宿舎より式場迄三里あり疲労す。

夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名を差出す。本日南京にて東日出張所を発見。竹節氏の消息をきくに北支に在りて皇軍慰問中なりと。風出て寒し。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



本間正勝(※仮名)戦斗日誌 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第9中隊、二等兵]


午前九時当連隊の南京入城。軍の入城式あり。中隊の半数は入城式へ半分は銃殺に行く。今日一万五千名午后十一時までかヽる。自分は休養す。煙草二ケ渡。夜は小雪あり。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


未曾有の盛儀南京入城式に参加。一時半式開始。朝香宮殿下松井軍司令官閣下の閲兵あり。捕虜残部一万数千を銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



目黒福治(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、伍長]


午前九時宿営地出発。軍司令官の南京入城式。歴史的盛儀に参列す。午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く。二日間にて山田部隊二万近く銃殺す。各部隊の捕虜は全部銃殺するものゝ如し。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



どちらの説が正しいのかは、専門家の間でも様々な見解がある様です。本項では、下記の【歴史学者秦教授】の解釈を引用しながら、【解放説】の信憑性を再検証してみたいと思います。



『諸君! 2001年2月号』 秦郁彦の発言より(※歴史学者)

座談会 --- 問題は「捕虜処断」をどう見るか ---

※秦の発言
ただ、本当に釈放するつもりだったら昼間やればよかった。ぐあいの悪いことは大体夜やるものですからね。

※秦の発言
わざわざ問い合わせをしてしまったために、軍司令部から殺せという指示が出たわけですが、そんなことをしなくても逃がしてやりたかったら、不注意で逃げられてしまったということにすればよかった。本当の事実経過に関しては、何しろ第十三師団の人達がみんな口をつぐんで言わないから困る。

釈放しようとしたのかもしれないけど、結果として多数の捕虜を殺してしまったんですね。軍司令部は自分たちの命令通りに処理されたと思っていましたからね。長勇にしてもそう信じていた。ですから、そのあたりの枝葉末節をあれこれ議論しても詮ないことだと感じます。

舟で逃がそうとしたということに関しても、舟の準備をした形跡はないし、広い揚子江の向こうから闇夜に鉄砲で中国兵が撃ってきたために捕虜が反乱したという説明も変な話ですよ。殺されそうになっていたから彼らが反乱したと推定するのが無難でしょう。

※秦の発言
真実の部分もあるかもしれませんが、当事者の手記である以上、眉に唾しながら検分する必要はあります。自己弁護の要素も入ってくるでしょう。舟にしても、当時、あるのは数人乗り程度の漁船が数隻ですよ。そんなもので、どうやって四千人という捕虜を運べるんですか。日本海軍の船を頼んだ形跡もありません。

私は、単に揚子江岸に連行して、そこで殺す計画だったと見るべきだと思います。死体も揚子江に流せばすむ。少なくとも、「殺せ」という命令があり、惨憺たる結果が生じたことを考えると、捕虜虐殺の責任は日本軍にあるというしかない。




まずは、下記の解釈から見てみます。



『諸君! 2001年2月号』 秦郁彦の発言より(※歴史学者)

座談会 --- 問題は「捕虜処断」をどう見るか ---

※秦の発言
ただ、本当に釈放するつもりだったら昼間やればよかった。ぐあいの悪いことは大体夜やるものですからね。



【山田支隊】が捕えていた支那敗残兵の中には、【中央の精鋭】が含まれており、【日本軍側から見れば解放する事はリスクを伴う】ものでもありました。



支那敗残兵に【中央の精鋭】が含まれていて【解放すると再度武器を手に取る】可能性があった


『「南京事件」の探求』 北村稔著(※歴史学者)

中国軍捕虜と日本軍の置かれていた状況を冷静に考えてみたい。まず第一に、食料を調達してきて二万人近い捕虜に食べさせるのは、捕虜を収容した日本軍の部隊ですら十分な食料を確保していなかった状況では不可能であった。

それでは、一部の日本軍部隊が行ったように、中国軍捕虜を釈放すべきであったのか。軍閥の兵士を寄せ集めた部隊であれば、兵士は故郷に帰り帰農したかもしれない。しかし捕虜の中には中央軍の精鋭も含まれており、戦争が続いている状況下での捕虜の戦線復帰を促し、日本軍には自分の首を絞めるようなものである。…


『持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種』 朝日新聞1937年12月17日 朝刊

[南京にて横田特派員16日]

両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を捨てさせ附近の兵営に押込んだ。

一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ。○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ 」と優しい仁愛の言葉を投げると手を挙げて拝む、終ひには拍手喝采して狂喜する始末で余りに激変する支那国民性のだらし無さに今度は皇軍の方で顔負けの体だ。

それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ。

一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。部隊では早急大小行李の全駄馬を狩集めて食べ物を掻き集めている始末だ。



東京朝日新聞号外 第五十一号 昭和十二年十二月十六日

両角部隊大武勲 敵軍一万五千余を捕虜

【南京にて横田特派員十五日発】
鎮江から揚子江岸を強く進撃した両角部隊は十三日烏龍山、十四日朝幕山二砲台を占領したが、その際南京城から崩雪れを打って敗走して来た第十八師団、八十八師軍官学校教導総隊等総数一万四千七百七十七名の敵軍と出会ひ、敵は白旗を掲げて降服、両角部隊は寡兵をもってよく一万四千余の全部を捕虜とするの大武勲を樹てた。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



福島民友新聞 昭和十二年十二月十七日

両角部隊の大殊勲 壱万五千の敵を捕虜 燦!幕府山砲台占領

(南京にて十五日発)
…両角部隊は十三日には烏龍山、十四日朝は南京の北方幕府山の両砲台を占領したが、その際南京城内から雪崩れを打って敗走してきた第十八師、第三十七師、第三十四師、第八十八師軍官学校、教導総隊等、総数一万四千七百七十七名の敵軍と出会ひ、敵は白旗を掲げて両角部隊の軍門に降り、同部隊は寡兵よくこの大敵軍を捕虜とする無比の殊勲を樹てた。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



9 南京突撃撃退される

一九三七年十二月十日 F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電

中国指導者蒋介石総統自慢の精鋭軍第八十八師団は、旧首都の南正面を防衛していた。同師団は先の上海戦でほとんど壊滅したが、訓練を受けた新兵の補充を受けて強化され、装備、指揮ともに良好、兵の士気も高いという。

…南京の複廓陣地に置かれたのは、ドイツ軍事顧問が中国の近代的新軍隊のモデルとして組織、訓練、装備してきた特別部隊であった(教導総隊のこと --- 訳者)。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



しかしながら、捕えた側の両角部隊の各兵士の認識は様々で、日記には下記の様な記載もあります。



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月14日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


午前五時出発。南京近くの敵の残兵を掃蕩すべく出発す。攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月14日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


敵は戦意なく敗残兵四百五十名及兵器多数鹵獲整理す。夕刻上元里に宿舎を定む。民家少く一室に小隊全員起居す。夕刻より更に四百余の捕虜を得。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



捕獲した時点では戦意が無くても、解放すれば再び武器を手に取る可能性はあるのですが、当の【両角業作】大佐自身は、下記の認識だった様です。



両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入城式である。万一の失態があってはいけないというわけで、軍からは「俘虜のものどもを"処置"するよう」…山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてはねつけ、軍に収容するよう逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらゴメンである。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



予定通り【第16師団】の方で収容してもらえれば良かったのですが、【第16師団】も多数の支那敗残兵を抱えてそれどころではなく、本間騎兵少尉を南京に派遣して対応を協議したものの、新たな支那敗残兵の受け入れを拒否された上、【皆殺せとのことなり】との厳しい回答を受けてしまいました。(※【第50項】参照)



山田栴二少将日記 1937年12月15日 --- 【皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。】


山田栴二少将日記 12月15日(※山田支隊指揮官)

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



【第16師団】からは受け入れを拒否された上、食料も無く、加えて17日の入城式を目前に控えて支那敗残兵を処置する様に督促が来ており、【山田支隊】の苦悩は大変なものだったと思われます。その状況に追い打ちをかけるかの様に収容所で【火災】が発生してしまいました。



両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入城式である。万一の失態があってはいけないというわけで、軍からは「俘虜のものどもを"処置"するよう」…山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてはねつけ、軍に収容するよう逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらゴメンである。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)




1937年12月16日 --- 捕えた【支那敗残兵を収容していた建物】から突然【火災】が発生した


【支那敗残兵の食糧確保が不可能】だった事に加えて【収容所の火災が追い討ちをかけた】


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


警戒の厳重は益々加はりそれでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す。しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す。午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


定刻起床。午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く。午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す。

同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く。捕虜総数一万七千二十五名。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しTに於て射殺す。

一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


飛行便の葉書到着す。谷地より正午頃兵舎に火災あり約半数焼失す。夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


午前中給需伝票等を整理する。一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く。そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る。丁度見本展の様だ。お陰で随分酩酎した。

夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く。遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する。

月は十四日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし戦場ならざれば見るを得ざるところなり 九時半頃帰る 一生忘るゝ事の出来ざる光景であった。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



兵士達の認識は、【オイソレと解放できる雰囲気ではなかった】とも証言されていて、【両角業作】大佐の側から考えれば、【公然と解放できる状況では無かった】と考えられます。であれば、【密かに解放の指示を出した】と記している【両角業作】手記は、状況と比較して辻褄が合っていると言えるのです。



【両角業作大佐としては】捕えていた支那敗残兵を【公然と解放できる状況では無かった】


栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

「これほどひどくやられていました。すべて『お国のため』の戦死です。この激戦の延長としての南京進撃だったことを考えてほしい。捕虜が降参してきたからって、オイソレと許して釈放するような空気じゃ全然ない。あれほどにもやられた戦友の仇ですよ。…」

(※『南京への旅』から引用)




【両角業作大佐としては】捕えた支那敗残兵を解放するなら【密かに指示するしかなかった】


両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

いろいろ考えたあげく、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」---田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」もし発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配置する。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



ここでもう一度、【歴史学者秦教授】の解釈を見てみます。下記解釈では、【ぐあいの悪いことは大体夜やるもの】と述べられています。



『諸君! 2001年2月号』 秦郁彦の発言より(※歴史学者)

座談会 --- 問題は「捕虜処断」をどう見るか ---

※秦の発言
ただ、本当に釈放するつもりだったら昼間やればよかった。ぐあいの悪いことは大体夜やるものですからね。



ですが、南京からの回答は【皆殺せとのことなり】で、加えて支那敗残兵の処置の督促が来ている状況です。残余の支那敗残兵を処断する事は【ぐあいの悪いこと】ではないはずです。この点で秦解釈は矛盾してるのです。



山田栴二少将日記 1937年12月15日 --- 【皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。】


山田栴二少将日記 12月15日(※山田支隊指揮官)

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入城式である。万一の失態があってはいけないというわけで、軍からは「俘虜のものどもを"処置"するよう」…山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてはねつけ、軍に収容するよう逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらゴメンである。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



現に、収容所で【火災】が発生した後の【16日の支那敗残兵処断】は、【日中】に実施されています。【ぐあいの悪いことは大体夜やるもの】と言うならば、【16日の支那敗残兵処断】を、どの様に説明するのでしょうか。



収容所【火災】の後に実行された1937年12月16日の支那兵捕虜処断は【日中】に行われている


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


警戒の厳重は益々加はりそれでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す。しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す。午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


定刻起床。午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く。午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す。

同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く。捕虜総数一万七千二十五名。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しTに於て射殺す。

一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


飛行便の葉書到着す。谷地より正午頃兵舎に火災あり約半数焼失す。夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


午前中給需伝票等を整理する。一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く。そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る。丁度見本展の様だ。お陰で随分酩酎した。

夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く。遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する。

月は十四日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし戦場ならざれば見るを得ざるところなり 九時半頃帰る 一生忘るゝ事の出来ざる光景であった。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



むしろ、【両角業作】大佐側から見れば、南京からの回答が【皆殺せとのことなり】で、加えて、支那敗残兵を処置する様【督促】が来ていた状況下で、それらに反して【支那敗残兵を解放する事】の方が、【ぐあいの悪いこと】だったと言えるのではないでしょうか。その【ぐあいの悪いこと】である支那敗残兵解放を、【夜】に指示したのであれば、むしろ辻褄が合っているのではないでしょうか。



【南京からの指示に反して】捕えた支那敗残兵を解放する事の方が【ぐあいの悪いことだった】


山田栴二少将日記 12月15日(※山田支隊指揮官)

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入城式である。万一の失態があってはいけないというわけで、軍からは「俘虜のものどもを"処置"するよう」…山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてはねつけ、軍に収容するよう逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらゴメンである。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



『諸君! 2001年2月号』 秦郁彦の発言より(※歴史学者)

座談会 --- 問題は「捕虜処断」をどう見るか ---

※秦の発言
ただ、本当に釈放するつもりだったら昼間やればよかった。ぐあいの悪いことは大体夜やるものですからね。



世間には【夜逃げ】という言葉がありますが、【ぐあいの悪いこと】だけでなく、【密かにやりたい事】も実行するのであれば【夜が最適】です。17日は、【南京入城式】が行われた日で、日本軍全体が祝賀ムード一色に染まっていた日でもありました。言わば、日本軍全体が弛緩した状態であり、【密かにやりたい事】を実行するなら、最適の日だったと言えるのです。



【密かに解放を指示していた】のであれば【夜陰に乗じて解放する】のは辻褄の合う選択肢


両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」もし発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配置する。…」

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)




【密かに解放する】のであれば日本軍全体が祝賀ムードで弛緩していた【17日の夜は最適】


『ある軍法務官の日記 小川関治郎』(※1937年12月17日記載より抜粋)

…本式場に於ける光景は本日中に天覧に供すと恐らく電送写真によるならん。挙式中にもこの光景をラジオにて放送し居たるが如し。東京にてこの実況をニュースにても見るならん。

三時過ぎ頃終了。宿舎に帰れば今日は祝として小豆飯外に支那にて全く初めて見る料理を供与せられ酒も勿論豊富十分歓を尽くす。所々にて酒宴盛に大声にて歌ふ音又喚声上り如何にも全南京市にある日本兵は一時戦闘を忘れたるかの如く歓喜の巷と化したるかの観あり。大塚局員帰途に就く。吾々も大いに祝杯を挙げ歓声上り十分喜びを尽し十一時漸く寝に就く。



以上より、【両角業作】手記に述べられている【17日の夜に密かに解放を指示した】は、状況から判断して矛盾が無く、むしろ辻褄が合っているのです。解放する時間帯が【夜】であった事をもって、【解放説】への疑問とするのは、両角大佐の置かれた状況を無視した一方的な解釈で、かなりのナンセンスだと言えます。



【17日夜に密かに解放を指示した】とされている両角手記の内容は【状況的に辻褄が合っている】



次に下記解釈を見てみます。

【歴史学者秦教授】は、残余の支那敗残兵を揚子江対岸(※八卦洲)へ運ぶための【舟が少なかった】事を随分と強調している様です。(※尚、秦教授解釈にある【舟の準備をした形跡はない】は、どの史料に依拠してるのか不明です。)



『諸君! 2001年2月号』 秦郁彦の発言より(※歴史学者)

座談会 --- 問題は「捕虜処断」をどう見るか ---

※秦の発言
舟で逃がそうとしたということに関しても、舟の準備をした形跡はないし、広い揚子江の向こうから闇夜に鉄砲で中国兵が撃ってきたために捕虜が反乱したという説明も変な話ですよ。殺されそうになっていたから彼らが反乱したと推定するのが無難でしょう。

真実の部分もあるかもしれませんが、当事者の手記である以上、眉に唾しながら検分する必要はあります。自己弁護の要素も入ってくるでしょう。舟にしても、当時、あるのは数人乗り程度の漁船が数隻ですよ。そんなもので、どうやって四千人という捕虜を運べるんですか。日本海軍の船を頼んだ形跡もありません。



舟については、日支双方の証言が一致しており、両角部隊が【舟を準備していた】のは間違いないと思われます。同時に、【舟が少なかった】のも事実と考えられます。



田山芳雄少佐証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊第1大隊隊長)

「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻--いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。…」

(※『南京の氷雨』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

※栗原氏証言
多分17日と思うが、捕虜を舟で揚子江対岸に渡すということで、午前中かかって形だけだが手を縛り、午後大隊全員で護送した。…

2時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も2、3隻見えた。(スケッチ3)



栗原スケッチ03

※『スケッチ3』上注記


揚子江
ここの中央の島に1時やるためと言って船を川の中程において集めて、船は遠ざけて方から一斉に攻撃して処理したのである。この時の撃たれまいと人から人へと登り集まるさま。即ち人柱は丈余になってはくづれ、なってはくづれした。



(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



53 私が経験した日本軍の南京大虐殺 唐光譜証言

六日目の朝、まだ明けないうちに敵は私たちを庭に出し、すべての人の肘同士を布で縛ってつなぎあげた。全部を縛りおわると、すでに午後二時過ぎであった。…

このようであっても生存本能から、敵が集団虐殺をしようとしていることに感づいた。私たちは互いに歯で仲間の結び目を咬み切って逃走しようとした。人々がまだ咬み切らないうちに、四方で探照灯が点き、真っ黒な夜が急に明るくなり人々の眼をくらませた。つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた。大虐殺が始まったのだ。…

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



しかしながら、【舟が少なかった】のは仕方のない事だったのです。この時、既に【揚子江岸に舟は見当たらなかった】のです。両角部隊は、解放する意思が無かったから舟の準備を怠った、という事ではないのです。



【日曜日(※1937年12月12日)夕方】の時点で揚子江岸に【渡河用の舟は見当たらなかった】


55 略奪と殺戮

≪タイムズ≫ 一九三七年十二月十八日
◇勝者の蛮行 特派員より 上海、十二月十七日

記者が南京を通過する際にインタビューした外国人目撃者は、南京の略奪と陥落の模様を次のように語った。…

パニック状態の中国軍
日曜日夕、中国軍崩壊の兆しが現れ始めた。つまり、一個師団がそっくり長江沿いの城門に殺到したのだ。ここをめがけて発砲が止まず、中国兵は立ち往生となった。後に判明したのは、総退却命令が中国軍に出されたのは午前九時であった。

下関に通ずる城門だけが、唯一退却可能なルートであり、退却の始まりは整然と通過できていたが、それも束の間であった。南門(中華門)の防衛が突破され、日本軍が北上してくるのが判明した。このとき市の最南部はすでに猛火に包まれていた。

中国軍は長江を渡河する手段が皆無に等しいと分かるなり、パニック状態となり、武器をかなぐり棄て、退却は大敗走と化した。多くが気でもくる狂わんばかりに城内に逆戻りして安全区に逃避する者もあった。

中国軍は退却の途上、交通部に放火した。ここは南京でいちばん立派な建物で、二五万ポンドの建築費を要したという。またここには軍需物資が満載されていたため、轟音を伴う爆発を引き起こした。この轟音により退却中の中国部隊は大混乱となったが、さらに渡河用のボートが見当たらないと分かるや、長江岸の混乱にいっそうの追い打ちをかけることになった。

交通部は焼失したが、他の政府関係の重要な建物は破壊を免れた。大使館はいずれも被害を受けていない。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



下関、中華門


両角部隊は、数は少なかったとしても、【揚子江岸に舟は見当たらなかった】状況下で、舟を見つけて準備したという事になります。であれば、一つ疑問が湧いてきます。最初から残余の支那敗残兵を殺害するつもりであったのなら、【舟の準備】自体が不要ではないでしょうか。



【最初から残余の支那敗残兵を殺害するつもり】であったなら【渡河用の舟の準備自体が不要】


最初から殺害する意思があったなら、わざわざ舟を準備する必要は無かったはずです。即ち、逆を言えば、数が少なかったとは言え、【舟を準備した】という事は、両角部隊が残余の支那敗残兵を【揚子江対岸へ渡す意思があった証拠】と見なす事もできるのではないでしょうか。



揚子江対岸への【渡河用舟を準備した】という事はなんとか【解放しようとする意思があった証拠】


田山芳雄少佐証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊第1大隊隊長)

「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻--いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。…」

(※『南京の氷雨』から引用)



【舟が少なかった】という事実をもって【解放説】を否定するのは、根拠として極めて薄いと言わざるを得ません。解放が目的ではなかったのなら、わざわざ【舟を準備した理由】が分かりません。

加えて、【歴史学者秦教授】解釈には触れられていないのですが、支那敗残兵を連行した場所、下記地図の【護送した場所】にも疑問があります。最初から殺害するつもりであったなら、わざわざ【護送した場所】まで連行した理由は何なのでしょうか。(※下地図の【護送した場所】は凡その位置になります。【第45項】参照)



八卦洲


多数の支那敗残兵を遠くまで連行すれば、その途中で逃亡・反乱等の様々なリスクの発生が考えられます。前日【16日の支那敗残兵処断】は、【下関、草鞋峡】で行われていますが、最初から殺害するつもりであったなら、前日と同じく【下関、草鞋峡】で実行すれば手間も省けたはずです。わざわざ【護送した場所】まで連行した理由が分かりません。

【両角業作】大佐から【密かに解放を指示】されていたので、他軍の目につかない様、下地図の【護送した場所】まで連行したと言うなら、何の違和感も無く納得できるのですが、如何でしょうか。(※支那敗残兵を収容していた場所は、【上元門の〇印付近】と推測しています。【第45項】参照)



護送した場所周辺図


南京慈善団体及び人民魯甦の報告に依る敵人大虐殺
(※極東国際軍事裁判での南京暴虐事件証言)


敵軍入城後まさに退却せんとする国軍及び難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山付近の四、五箇村に閉じ込め飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。一九三七年十二月十六日の夜間にいたり生残せる者は鉄線を以て二人を一つに縛り四列に列ばしめ下関、草鞋峡に追いやる。

しかる後機銃を以て悉くこれを掃射し更に又銃剣にて乱刺し最後は石油をかけてこれを焼けり。焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。…

当時私は警察署に勤務しあるも敵市術戦に際し敵砲弾により腿を負傷し上元門大茅洞に隠れ居りその惨況を咫尺の目前に見し者なり。故にこの惨劇を証明し得る者なり。



箭内亨三郎准尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊機関銃中隊隊員)

「兵舎のある上元門に戻って、まだ日のある時間でしたが、それから捕虜の連行が始まったのです。手などは彼ら自身の巻脚胖を利用して縛り、四人ずつ一つなぎにして歩かせたのです。なぜ縛ったか?それはね、四キロか五キロ歩かせるのですから、途中でなにかがあったら、せっかくの苦心も水の泡になりますからね。第一、少人数で大人数を護送するには、そうしないと問題があったとき抑えられないからです。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



平林貞治中尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊隊員)

「十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。

私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。…」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

※栗原氏証言
2時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も2、3隻見えた。(スケッチ3)

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



山田栴二少将日記 12月14日(※山田支隊指揮官)

他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発。幕府山砲台に向ふ。明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る幕府山は先遣隊に依り午前八時占領するを得たり。近郊の文化住宅村落等皆敵の為に焼かれたり。

捕虜の仕末に困り恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所一四、七七七名を得たり。斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり。上元門外の三軒屋に泊す。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

昭和13年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。…(※省略)

※栗原氏証言
15日から16日、第一大隊(135名)はこの13,500人と公称された捕虜の大群を、幕府山山麓の学校か兵舎のような萱葺きの十数棟の建物に収容し3日間管理した。(スケッチ2)



栗原スケッチ02

※『スケッチ2』注記


下の廠舎で我が部隊において13,500人を3日間飼った。食糧は烏龍山砲台から馬で運搬して毎日カユ2食を食べさせた。13,500と言ふ莫大の兵を飼うには一方ならぬものであった。水でさい与えること出来ず、兵は自分でやった小便をのむものも居た。



(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)




下記の部分は、【法的根拠】が存在しない【秦教授個人の感情論】なので放置しますが、本事件の【法的解釈】については、次項で検証したいと思います。



『諸君! 2001年2月号』 秦郁彦の発言より(※歴史学者)

座談会 --- 問題は「捕虜処断」をどう見るか ---

※秦の発言
私は、単に揚子江岸に連行して、そこで殺す計画だったと見るべきだと思います。死体も揚子江に流せばすむ。少なくとも、「殺せ」という命令があり、惨憺たる結果が生じたことを考えると、捕虜虐殺の責任は日本軍にあるというしかない。




以上を踏まえると、17日の状況から判断して、【解放説】には何らかの破綻点があるわけではなく、むしろ、【辻褄は合っている】と言えるのです。

では、【計画的殺害説】の方はどうなのでしょうか。何も破綻点は無いのでしょうか。そうではありません。既に検証していますが、【舟を準備】した事や、【護送した場所】まで連行した事は、裏を返せば【計画的殺害説】への疑問とも言えるのですが、そもそも、殺害を実行したのが17日の【夜】であった事に対して、下記の疑問があるのです。



【計画的な殺害】であったならば失敗や逃亡者等を出す恐れがある【夜を選んだ理由】が不明


17日夜の一斉射撃の状況については、【唐光譜】証言で下記の様に語られていますが、本当に現場に【探照灯】があったのかは不明です。仮に、【探照灯】があったとしても、現場全てを照らす事はできません。確実に殺害するなら、【日中】に実行する方が良いのは言うまでもありません。



53 私が経験した日本軍の南京大虐殺 唐光譜証言

このようであっても生存本能から、敵が集団虐殺をしようとしていることに感づいた。私たちは互いに歯で仲間の結び目を咬み切って逃走しようとした。人々がまだ咬み切らないうちに、四方で探照灯が点き、真っ黒な夜が急に明るくなり人々の眼をくらませた。つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた。大虐殺が始まったのだ。

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



現に、前日16日の処断は【日中】に実行されています。最初から全員を殺害するつもりであったなら、17日の残余の支那敗残兵処断も、【日中に実行】する方が確実だったでしょう。



収容所【火災】の後に実行された1937年12月16日の支那兵捕虜処断は【日中】に行われている


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


警戒の厳重は益々加はりそれでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す。しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す。午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


定刻起床。午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く。午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す。

同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く。捕虜総数一万七千二十五名。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しTに於て射殺す。

一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


飛行便の葉書到着す。谷地より正午頃兵舎に火災あり約半数焼失す。夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


午前中給需伝票等を整理する。一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く。そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る。丁度見本展の様だ。お陰で随分酩酎した。

夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く。遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する。

月は十四日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし戦場ならざれば見るを得ざるところなり 九時半頃帰る 一生忘るゝ事の出来ざる光景であった。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



17日夜の一斉射撃では、日本軍側にも犠牲者が出てしまいましたが、この中には【同士討ち】による犠牲者もいた様です。混乱した状況に加えて、【夜】であった事が影響していたと考えられます。



一斉射撃が【夜】であったため十分に視認できずに【敵味方共々機関銃で打ち払ってしまった】


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


…夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一傷者二に達す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



飯沼守少将日記 12月21日(※上海派遣軍参謀課課長)

…荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。

上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



上村利道大佐日記 12月21日(※上海派遣軍参謀副長)

…N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様下手なことをやったものにて遺憾千万なり。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



16日の処断は、【数千人規模】と推測されますが、【日本軍側犠牲者は皆無】でした。対して17日の処断は、16日の処断より更に人数が多かったとは言え、大混乱になり、【日本軍側にも犠牲者が発生】してしまいました。17日の処断が【計画的な殺害】であったと言うなら、殺害時間帯として【夜】を選んだ理由は何なのでしょうか。【夜】を選んでしまえば、失敗した時に【多数の逃亡者が発生するリスク】等も考えられたはずです。



【計画的な殺害】であったならば失敗や逃亡者等を出す恐れがある【夜を選んだ理由】が不明


飯沼守少将日記 12月21日(※上海派遣軍参謀課課長)

…荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。

上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)




確かに、16日の処断は、収容所で【火災】が発生した後、【最後の取るべき手段を決して捕虜の一部を揚子江岸で射殺した】とあるので、【殺害する意思に基づいて実施されたもの】だったと考えられます。



1937年12月16日 -- 収容所【火災】が発生した後【最後の取るべき手段を決して捕虜一部を処断】


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


警戒の厳重は益々加はりそれでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す。しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す。午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


定刻起床。午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く。午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す。

同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く。捕虜総数一万七千二十五名。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しTに於て射殺す。

一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


飛行便の葉書到着す。谷地より正午頃兵舎に火災あり約半数焼失す。夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


午前中給需伝票等を整理する。一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く。そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る。丁度見本展の様だ。お陰で随分酩酎した。

夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く。遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する。

月は十四日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし戦場ならざれば見るを得ざるところなり 九時半頃帰る 一生忘るゝ事の出来ざる光景であった。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



この流れでいけば、各兵士達の認識は、17日の処断も【殺害する意思に基づいて実行されたもの】と判断したのも止むを得ません。



栗原利一証言 -- 残余の支那兵捕虜を八卦洲に【解放すると見せかけて一斉射撃】して処分した


栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

※栗原氏証言
多分17日と思うが、捕虜を舟で揚子江対岸に渡すということで、午前中かかって形だけだが手を縛り、午後大隊全員で護送した。…

2時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も2、3隻見えた。(スケッチ3)



栗原スケッチ03

※『スケッチ3』上注記


揚子江
ここの中央の島に1時やるためと言って船を川の中程において集めて、船は遠ざけて4方から一斉に攻撃して処理したのである。この時の撃たれまいと人から人へと登り集まるさま。即ち人柱は丈余になってはくづれ、なってはくづれした。



(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



伊藤喜八(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵]


午前八時出発。湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひ黙祷して南京中山門通過、我部隊に復帰出来るだろう。

午前十時到着。門内、励志社、陸軍々官学校、警衛司令部などあった。午后一時から南京入城式。夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。その夜は敵の捕虜二万ばかり揚子江岸にて銃殺した。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


本日は一部は南京入城式に参加。大部は捕虜兵の処分に任ず。小官は八時半出発南京に行軍。午后晴れの南京入城式に参加。荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た。

夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一傷者二に達す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



柳沼和也(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


四交代の歩哨であるからゆっくりと休まれる。日中は単哨で夜間は複哨である。工兵隊はトウチカを爆発させたり南京の攻撃に一つの印象を残して居る。

夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く。兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと。其の事については余り書かれない。一団(※ママ)七千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


幕府山頂警備の為午前七時兵九名差出す。南京入城式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる。午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城。中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く。

途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見端書にて■子関に便りを送る。帰舎午後五時三十分。宿舎より式場迄三里あり疲労す。

夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名を差出す。本日南京にて東日出張所を発見。竹節氏の消息をきくに北支に在りて皇軍慰問中なりと。風出て寒し。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



本間正勝(※仮名)戦斗日誌 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第9中隊、二等兵]


午前九時当連隊の南京入城。軍の入城式あり。中隊の半数は入城式へ半分は銃殺に行く。今日一万五千名午后十一時までかヽる。自分は休養す。煙草二ケ渡。夜は小雪あり。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


未曾有の盛儀南京入城式に参加。一時半式開始。朝香宮殿下松井軍司令官閣下の閲兵あり。捕虜残部一万数千を銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



目黒福治(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、伍長]


午前九時宿営地出発。軍司令官の南京入城式。歴史的盛儀に参列す。午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く。二日間にて山田部隊二万近く銃殺す。各部隊の捕虜は全部銃殺するものゝ如し。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



しかしながら、【両角業作】大佐の側から見れば、南京からの回答は【皆殺せとのことなり】で、17日の入城式を目前に控えて支那敗残兵を処置する様に督促が来おり、加えて兵士達の認識は【オイソレと解放できる雰囲気ではなかった】との事で、残余の支那敗残兵を【公然と解放できる状況では無かった】のです。



両角業作大佐としては収容所内の残余の支那敗残兵を【公然と解放できる状況】では無かった


山田栴二少将日記 12月15日(※山田支隊指揮官)

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入城式である。万一の失態があってはいけないというわけで、軍からは「俘虜のものどもを"処置"するよう」…山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてはねつけ、軍に収容するよう逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらゴメンである。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

「これほどひどくやられていました。すべて『お国のため』の戦死です。この激戦の延長としての南京進撃だったことを考えてほしい。捕虜が降参してきたからって、オイソレと許して釈放するような空気じゃ全然ない。あれほどにもやられた戦友の仇ですよ。…

(※『南京への旅』から引用)



であれば、【両角業作】大佐が、【密かに解放を指示した】のも止むを得ない判断だったと考えられます。【オイソレと解放できる雰囲気ではなかった】上、残余の支那敗残兵を【公然と解放できる状況では無かった】ジレンマに陥った【両角業作】大佐の苦肉の策だったのではないでしょうか。



両角業作大佐としては捕えた支那敗残兵を解放するのであれば【密かに指示する】しかなかった


両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

いろいろ考えたあげく、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」---田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」もし発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配置する。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



田山芳雄少佐証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊第1大隊隊長)

解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻--いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。

この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中州には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから…」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



箭内亨三郎准尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊機関銃中隊隊員)

「目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山でした。河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。

確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連隊の一部の人たちが集成一個中隊をつくって出かけたはずです。

私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです。」

実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように…と、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だといわれていましたがね。ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



平林貞治中尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊隊員)

「十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。

私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。

途中、とてもこわかった。これだけの人数が暴れだしたら、抑え切れない。銃撃して鎮圧できるだろうという人もいるが、実際には心もとない。

それは現場にいた人でないと、そのこわさはわかってもらえないと思う。第一、暴れ出して混乱したところで銃撃したら、仲間をも撃ってしまうことになるのだからね。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



つまり、【両角業作】大佐は、【密かに解放を指示した】のですから、全ての兵士にその認識が共有される事は無く、他の兵士達は、前日16日の処断に続き、17日の処断も【殺害する意思に基づいて実行されたもの】と解釈したとしても不思議ではないのです。一連の流れを再検証してみると、【両角大佐の主張にも理がある】のです。



両角業作大佐により密かに出された【解放の指示】は全兵士の【共通認識】とはなっていなかった



以上より、いわゆる『幕府山事件』については、【計画的殺害説】には【決定的な根拠が欠けている】と言わざるを得ません。特に、下記です。



【両角大佐】自身に【最初から支那敗残兵を殺害する意思があった事を証明するもの】が無い


【栗原利一】証言や【兵士達の日記】により有力視される様になった【計画的殺害説】ですが、改めて検証してみると、【計画的殺害説】の方に疑問があると言わざるを得ないのです。

------【疑問@】------
最初から残余の支那敗残兵は殺害するつもりであったなら、わざわざ【舟を準備】した理由が分かりません。ただでさえ舟が無かった状況下で、数が少なかったとは言え、【舟を準備】した理由は何なのでしょうか。残余の支那敗残兵を対岸の【八卦洲】へ運ぶ意思が無かったのなら、【舟の準備自体が不要】です。



疑問@ --- 最初から殺害するつもりであったならわざわざ【舟を準備】した理由が分からない


田山芳雄少佐証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊第1大隊隊長)

「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻--いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。…」

(※『南京の氷雨』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

※栗原氏証言
多分17日と思うが、捕虜を舟で揚子江対岸に渡すということで、午前中かかって形だけだが手を縛り、午後大隊全員で護送した。…

2時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も2、3隻見えた。(スケッチ3)



栗原スケッチ03

※『スケッチ3』上注記


揚子江
ここの中央の島に1時やるためと言って船を川の中程において集めて、船は遠ざけて方から一斉に攻撃して処理したのである。この時の撃たれまいと人から人へと登り集まるさま。即ち人柱は丈余になってはくづれ、なってはくづれした。



(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



53 私が経験した日本軍の南京大虐殺 唐光譜証言

六日目の朝、まだ明けないうちに敵は私たちを庭に出し、すべての人の肘同士を布で縛ってつなぎあげた。全部を縛りおわると、すでに午後二時過ぎであった。…

このようであっても生存本能から、敵が集団虐殺をしようとしていることに感づいた。私たちは互いに歯で仲間の結び目を咬み切って逃走しようとした。人々がまだ咬み切らないうちに、四方で探照灯が点き、真っ黒な夜が急に明るくなり人々の眼をくらませた。つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた。大虐殺が始まったのだ。…

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



------【疑問A】------
最初から残余の支那敗残兵は殺害するつもりであったなら、わざわざ下地図の【護送した場所】まで連行した理由が分かりません。多数の支那敗残兵を遠くまで連行すれば、その途中で逃亡や反乱等の発生リスクが高まるのですから、速やかに処断するためにも、なるべく近い所を探すのが普通でしょう。前日16日の処断と同じ様に、【下関や草鞋峡】で処断すれば手間も省けたのに、何故そうしなかったのか理由が分かりません。



疑問A --- 最初から殺害するつもりであったなら【護送した場所】まで連行した理由が分からない


護送した場所周辺図


南京慈善団体及び人民魯甦の報告に依る敵人大虐殺
(※極東国際軍事裁判での南京暴虐事件証言)


敵軍入城後まさに退却せんとする国軍及び難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山付近の四、五箇村に閉じ込め飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。一九三七年十二月十六日の夜間にいたり生残せる者は鉄線を以て二人を一つに縛り四列に列ばしめ下関、草鞋峡に追いやる。

しかる後機銃を以て悉くこれを掃射し更に又銃剣にて乱刺し最後は石油をかけてこれを焼けり。焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。…

当時私は警察署に勤務しあるも敵市術戦に際し敵砲弾により腿を負傷し上元門大茅洞に隠れ居りその惨況を咫尺の目前に見し者なり。故にこの惨劇を証明し得る者なり。



箭内亨三郎准尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊機関銃中隊隊員)

「兵舎のある上元門に戻って、まだ日のある時間でしたが、それから捕虜の連行が始まったのです。手などは彼ら自身の巻脚胖を利用して縛り、四人ずつ一つなぎにして歩かせたのです。なぜ縛ったか?それはね、四キロか五キロ歩かせるのですから、途中でなにかがあったら、せっかくの苦心も水の泡になりますからね。第一、少人数で大人数を護送するには、そうしないと問題があったとき抑えられないからです。」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



平林貞治中尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊隊員)

「十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。

私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。…」

(※阿部輝郎著『南京の氷雨』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

※栗原氏証言
2時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も2、3隻見えた。(スケッチ3)

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



------【疑問B】------
殺害時間に【夜】を選んだ理由が分かりません。仮に、探照灯を使っていたとしても、現場全てを照らす事はできません。十分に視認できない状況で、機関銃の一斉射撃をしてしまえば、同士討ちのリスク発生は当然考えられたはずです。また、逃亡者が出る事も予想できたでしょう。日中に実行すれば、より確実に殺害できたものを、わざわざリスクが発生する【夜】を選んだ理由は何なのでしょうか。



疑問B --- 同士討ちの発生や逃亡者等を出す恐れのある【夜】を選んだ理由が分からない


両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

いろいろ考えたあげく、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」---田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」もし発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配置する。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



箭内亨三郎准尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊機関銃中隊隊員)

「目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山でした。河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。

確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連隊の一部の人たちが集成一個中隊をつくって出かけたはずです。

私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです。」

実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように…と、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だといわれていましたがね。ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです。」

(※『南京の氷雨』から引用)



平林貞治中尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊隊員)

十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。

私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。

途中、とてもこわかった。これだけの人数が暴れだしたら、抑え切れない。銃撃して鎮圧できるだろうという人もいるが、実際には心もとない。

それは現場にいた人でないと、そのこわさはわかってもらえないと思う。第一、暴れ出して混乱したところで銃撃したら、仲間をも撃ってしまうことになるのだからね。」

(※『南京の氷雨』から引用)



伊藤喜八(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第1中隊、上等兵]


午前八時出発。湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひ黙祷して南京中山門通過、我部隊に復帰出来るだろう。

午前十時到着。門内、励志社、陸軍々官学校、警衛司令部などあった。午后一時から南京入城式。夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。その夜は敵の捕虜二万ばかり揚子江岸にて銃殺した。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



柳沼和也(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


四交代の歩哨であるからゆっくりと休まれる。日中は単哨で夜間は複哨である。工兵隊はトウチカを爆発させたり南京の攻撃に一つの印象を残して居る。

夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く。兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと。其の事については余り書かれない。一団(※ママ)七千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


幕府山頂警備の為午前七時兵九名差出す。南京入城式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる。午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城。中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く。

途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見端書にて■子関に便りを送る。帰舎午後五時三十分。宿舎より式場迄三里あり疲労す。

夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名を差出す。本日南京にて東日出張所を発見。竹節氏の消息をきくに北支に在りて皇軍慰問中なりと。風出て寒し。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



本間正勝(※仮名)戦斗日誌 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第9中隊、二等兵]


午前九時当連隊の南京入城。軍の入城式あり。中隊の半数は入城式へ半分は銃殺に行く。今日一万五千名午后十一時までかヽる。自分は休養す。煙草二ケ渡。夜は小雪あり。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



飯沼守少将日記 12月21日(※上海派遣軍参謀課課長)

…荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。

上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



上村利道大佐日記 12月21日(※上海派遣軍参謀副長)

…N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様下手なことをやったものにて遺憾千万なり。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



改めて【計画的殺害説】を検証してみると、その【計画的】という言葉とは裏腹に、あまりにも【杜撰】なのが目に付きます。【平林貞治】証言では、下記所感が述べられていますが、十分な説得力があると見るべきではないでしょうか。



平林貞治中尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊隊員)

「一部で捕虜が騒ぎ出し、威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した。その一発が万波を呼び、さらに騒動を大きくしてしまう形になったのです。結局、仲間が六人も死んでしまっているんですよ。あれは偶発であり、最初から計画的に皆殺しにする気なら、銃座をつくっておき、兵も小銃をかまえて配置し、あのように仲間が死ぬヘマはしません。

(※『南京の氷雨』から引用)



本項では【解放説】の信憑性を再検証しましたが、状況と比較して辻褄が合っており、【矛盾なく説明できる】と考えます。従いまして、【解放説】は、決して否定されるものではなく、むしろ【信憑性が高い】と判断します。

対して【計画的殺害説】の方は、【舟を準備した理由】【遠くまで連行した理由】【殺害時間に夜を選んだ理由】が判然とせず、【解放説】と比較すると【矛盾が多い】と判断します。従いまして、【計画的殺害説】には疑問を呈したいと思います。




--【第52項】 『幕府山事件』における『解放説の信憑性』--

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