-- ◆【第04章】 いわゆる『南京事件』と支那敗残兵処断◆ --

--【第53項】 『幕府山事件』に対する『法的考察』--

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本項では、いわゆる『幕府山事件』に対して【法的考察(※国際法)】を行いたいと思います。

【第34項】でも書いていますが、極東国際軍事裁判所判決では、いわゆる『南京事件』について、【10万人以上の南京の不幸な市民の犠牲】に対してのみ【犯罪的責任】を認定し、【無裁判で殺害された三万以上の支那兵捕虜】に対しては、その【犯罪的責任】を認定しませんでした。



【第八章(=事実認定)】では殺害された犠牲者全体を【一般人と捕虜の総数二十万以上】と認定

【第十章(=判決理由)】でこの内十万以上の【南京の不幸な市民】の犠牲に【犯罪的責任】を認定


第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為) 南京暴虐事件

中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。

後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。



第十章 判定 松井石根

南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。

それに続いて起ったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。日本軍人によって、大量の虐殺、個人に対する殺害、強姦、掠奪及び放火が行われた。

残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかった。

この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。



第十章 判定 松井石根

かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。

この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六及び第五十四について無罪と判定する。



また、日本政府見解でも、いわゆる『南京事件』については、【非戦闘員(=軍隊に編入せられざる人民の全体)の殺害】があった事を認めてはいますが、【支那兵捕虜処断】については全く言及していません。



【日本政府見解】 -- 【非戦闘員の殺害】に言及しているだけで【捕虜の殺害】には全く言及が無い

【非戦闘員】 -- 【軍隊に編入せられざる人民の全体】を指す一般の用語で【捕虜】は含まれない


外務省 歴史問題Q&A
[ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/ ]

問6.「南京事件」に対して、日本政府はどのように考えていますか。

1.日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。

しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。



『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

第二章 第一款 戦闘員及び非戦闘員

…故に非戦闘員たる語には二様の遣方があること知るべきである。

一は交戦国(或は交戦当事者と云うも可い)の兵力に編成せらるる非戦闘員で、即ち戦線に立つも干戈を手にして敵と闘ふを本務とするに非ざる軍人軍属、例へば軍医官、主計官、法務官、通訳、軍隊布教師等である。(本規則第十三条の『新聞の通信員及探訪者、並酒保用達人等の如き直接に軍の一部を為さざる従軍者』は之と全然別である。)

第二の意義に於ける非戦闘員は軍人以外の一般常人で、即ち交戦当事者の兵力の構成員でなく、武器を手にせず、戦時にあるも尚ほ且全然平和的の業務を唯一的に営み又は平和的に生活を送りつつある者を謂ふ。



『空襲と国際法』 田岡良一著(※国際法学者)

第二節 非戦闘員及び私有財産に関する戦争法の原則

此処に言ふ非戦闘員とは、交戦国の国民の内、交戦国の兵力を現に構成せず又武器を執って敵国の兵力に敵対せざる個人の全体を指す言葉であって、私的人民又は平和的人民等の言葉を以ても呼ばれる。

国際条約は時として非戦闘員の語を平和的人民又は私的人民と同一の意義に用ひない事がある。例へば一八九九年及び一九〇七年の海牙平和会議の採択せる「陸戦の法規慣例に関する条約」は、軍隊の一部を構成すれども戦闘を本務とせざるもの、例へば経理部員、衛生部員、法務官、野戦郵便部員の如きものを非戦闘員と名付ける(付属書、陸戦条規第三条)。

然し一般の用語としての非戦闘員は、軍隊に編入せられざる人民の全体を指すものであって、国際法の著述も右の海牙の条約に拘らず此意味に非戦闘員の語を用ふる事が多い様である。本節に言ふ非戦闘員も亦同様である。



ですから、本来であれば、いわゆる『幕府山事件』や、その他の【支那兵捕虜処断】に対する【法的考察(※国際法)】は、それ程重要ではないはずです。しかしながら、いわゆる『南京事件』では、何故か【支那兵捕虜処断】が大きくクローズアップされており、【歴史学者達による勝手な国際法解釈】がまかり通っているのが現状です。

特に、この『幕府山事件』は、南京事件肯定派の歴史学者達にとって格好の【勝手な国際法解釈】の的になっている様で、口を揃えて【違法認定(※国際法違反認定)】しています。



【一度収容】して日本軍の管理下に置いていた支那敗残兵を処断したから【国際法違反】


『南京事件』 秦郁彦著(※歴史学者)

投降兵の殺害には戦闘の延長と見られる要素もあり、リンドバーグの第二次大戦日記にも、米豪兵が日本の投降兵をその場で殺してしまうため、捕虜情報が取れなくて困った記事が出てくる。しかし、一度捕虜として受け入れ、管理責任を負った敵兵を正当な法的手続きを踏むことなしに処刑するのは、明白な国際法(交戦法規)違反行為であり、第二次大戦でも日本軍のほかにあまり例がない。



『いわゆる「南京事件」の不法殺害』 原剛著(※軍事史研究家)

しかし、戦場で捕らえた捕虜や便衣兵を、武装解除して一旦自己の管理下に入れておきながら、その後揚子江岸などへ連行して射殺もしくは刺殺するのは、戦闘の延長としての戦闘行為であるとは言い難い。捕虜などが逃亡とか反乱を起こしたのであれば別であるが、管理下で平穏にしている捕虜などを、第一線の部隊が揚子江岸などへ連れ出して殺害するのは不法殺害に相当する。…



本項では、【第46〜48項】で取り上げた【兵士達の日記】の中から、いわゆる【支那兵捕虜処断】に言及している箇所を抜粋し、【国際法学者見解】を引用しながら、【法的考察(※国際法)】を行いたいと思います。


1937年12月13日、【山田支隊】は、【烏龍山砲台】を攻撃・占領しました。この時、多数の支那敗残兵(※人数は不明)を捕えていた様で、【宮本省吾(※仮名)】陣中日記によれば、その【一部は銃殺す】と書かれています。これを、どう判断するべきなのでしょうか。



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月13日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


前夜午后七時俄に命令に接し烏龍山砲台攻撃のため出発。途中大休止をなし午前五時出発前進す。午前十時将校斥候となり烏龍山方面の敵情を捜索に出発。途中敗残兵等に会ひ騎兵隊と共に射殺す。

敵弾の音の中を一時は潜り烏龍山の近く迄捜索するも敗残兵少々の外陣地に依る兵は見当らずに帰る。本隊に帰るも本隊はすでに前進をなし非常に困難して本隊に追い付く。夕方烏龍山に攻撃を向ふも敵の陣中にあると■えず敗残兵を多数捕獲し一部は銃殺す。夜十時野宿につく。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



この支那敗残兵に【捕虜資格】があったのかどうかは不明ですが、【捕虜資格】があったと前提した場合、進軍中に多数の敵兵を捕えて捕虜として扱う余裕があったのかが問題になります。【山田支隊】を含め、日本軍の最終目標は【南京攻略】であり、【烏龍山砲台】は通過点に過ぎません。



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月13日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


歩六五作命 十二月十二日午後十一時三十分 於倉頭鎮連隊総本部

歩六五命令

一、軍主力第一線たる第十六師団は紫金山東北方地区に又第九師団は南京東南方の線に進出、敵を攻撃中なり

二、山田支隊は(歩六五騎兵第十七大隊BAVを基幹とす)南京攻略の目的を以て明十三日烏龍山砲台東北方高地に向ひ前進す

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



烏龍山


であれば、【烏龍山砲台】で時間を浪費する事は許されなかったと思われます。この様な場合、【国際法】では、どの様に解釈されているのでしょうか。【国際法学者田岡教授】は、【国際法学者ウェストレーク】の見解を引用しながら、下記見解を述べています。



【戦闘の継続中】に勝利の達成が妨害される時は【投降兵の受入れ拒否】が一般に承認されている


『国際法V』 田岡良一著(※国際法学者)

…例えばハーグ陸戦条規第二三条(ニ)号「no quarter」を宣言することの禁止(投降者不助命を宣言することの禁止)は、何人も知るように「軍事的必要条項」を含んでいない。しかるにウェストレークの戦時国際法によれば、

この規定が実行不能な場合として一般に承認されているのは、戦闘の継続中に起こる場合である。このとき投降者を収容するために軍を停め、敵軍を切断し突撃することを中止すれば、勝利の達成は妨害せられ、時として危くされるであろう。

のみならず戦闘の継続中には、捕虜をして再び敵軍に復帰せしめないように拘束することが実行不可能な場合が多い」

この言葉は、戦争法に遵って行動しては勝利の獲得が困難な場合には、法を離れて行動することを許すものではあるまいか。戦争法が戦術的または戦略的目的の達成を妨げる障壁をなす場合には、法の障壁を乗り越えることを許すものではあるまいか。



『戦争法の基本問題』 田岡良一著(※国際法学者)

…法規制定者は、通常発生する事態を念頭に置いて、此の事態の下に於ける軍事的必要の性質及び程度を考慮し、之と人道的要求との調和を計るのである。

其の結果として表面上或る法規の妥当すべきが如く見える場含であつて、而も此の法規の制定者が予見した軍事的必要と人道的要求との均衡は保たれ得ず、より強い軍事的必要が支配すると言ふ特別の場含は生ぜざるを得ない。

例へば武器を捨てて降を乞ふ者を攻撃せず自軍に収容して保護することは、通常の場含には軍の安全及び軍事行動の成功を害する虞はないであらう。

しかし我が軍の迅速な移動作戦が必要な場含、又は我が軍の食糧が欠乏して居る場合に、投降者を収容することは、軍事行動の成功を害し、又は軍の安全を害する場合があるであらう。

睦戦條規第二十三條(ニ)號「助命せざるの宣言の禁止」は通常の事態を念頭に置いて作られた規定である。

文言の表面上、此の規定は総ての場合に於ける投降者に適用せらるべきものの如く見えるが、此の法規の根抵に横はる人道的要求と軍事的必要との均衡に鑑みる時、此の法規の妥当しない例外の場含は生ぜざるを得ないのである。



陸戦の法規慣例に関する条約 第二十三条

特別の条約を以て定めたる禁止の外特に禁止するもの左の如し

イ 毒又は毒を施したる兵器を使用すること
ロ 敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること
ハ 兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること
ニ 助命せざることを宣言すること
ホ 不必要の苦痛を与うべき兵器、投射物其の他の物質を使用すること
ヘ 軍使旗国旗其の他の軍用の標章敵の制服又は「ジュネヴァ」条約の特殊徽章を擅に使用すること
ト 戦争の必要上万巳むを得ざる場合を除くの外敵の財産を破壊し又は押収すること
チ 対手当事国国民の権利及訴権の消滅、停止又は裁判上不受理を宣言すること

交戦者は又対手当事国の国民を強制して其の本国に対する作戦動作に加らしむることを得ず
戦争開始前其の役務に服したる場合と雖亦同じ



南京戦当時は、現代の様に車両が発達しておらず、徒歩が主体でした。【戦闘の継続中】において、多数の敵兵を捕えた場合、速やかに後送する等の対応は難しかったと思われます。当時の諸事情を踏まえれば、【投降兵の受入れ拒否】があったとしても、仕方のない事だったのではないでしょうか。

また、投降してきた敵兵と言えども、その敵兵との間に信頼関係があるわけではありません。日本軍側が少数であると見透かせば、反抗に転じた可能性も否定できません。捕らえた敵兵が多数だった場合、【自衛】という観点から判断すれば、この様な【国際法学者見解】もあるのです。



【投降した者】と言えども反撃等の行動に出る事があり【自衛のために殺戮する】事も容認される


『戦時国際法講義』
高橋作衛、遠藤源六著(※国際法学者)


…然れども戦争の勝敗は機微の間に在り各軍は其安全を犠牲としても尚敵を殺戮すること能はずと云ふは実際に於て適用し難き議論なり

尤も投降したる者は反撃又は其の他不穏の行動を為し勝者を死地に陥るる如き不信義なかるべきも是れ絶対的に保証せらるべきものに非ず

故に自衛の為め必要なる場合に於ては投降を容れず之を殺戮することを得べきものと云はざるを得ず唯感情の結果殺戮するを不当とするのみ



【捕えた瞬間から俘虜待遇を与える】様になったのは、【1949年ジュネーブ捕虜条約】締結以降である事を考えると(※【第05項】参照)、南京戦の時点で【宮本省吾(※仮名)】にある【一部は銃殺す】【違法認定】するのは無理があるのではないでしょうか。



【敵兵を捕えた瞬間】から俘虜待遇を与える様に定められたのは【1949年ジュネーブ条約以降】


『現代戦争法規論』 足立純夫著(※国際法学者)

1929年の捕虜条約の規定の解釈では、捕獲した敵要員をいつから捕虜とするかは捕獲国軍隊指揮官の自由裁量とされていたが、

1949年条約はその考え方を根本的に修正し、敵要員を捕獲した瞬間から最終的にそれらの者が解放送還されるまでの間、捕虜の待遇を与えるよう、その始終期を判然と定めた(第5条第1項)。

(※【判然】 ⇒ はっきりわかること --- コトバンクから引用)



『南京事件と戦時国際法』 佐藤和男教授(※国際法学者)

第二次世界大戦の経験に鑑みて、一九二九年捕虜条約をさらに大幅に改善し拡大した一九四九年のジュネーブ第三条約(捕虜の待遇に関する条約)の第五条は、「本条約は、第四条に掲げる者 [捕虜の待遇を受ける資格のある者] に対し、それらの者が 敵の権力内に陥った時から最終的に解放され、且つ送還される時までの間、適用する」、

「交戦行為を行って敢の手中に陥った者が第四条に掲げる部類の一に属するか否かについて疑いが生じた場合には 、その者は、その地位が権限のある裁判所によって決定されるまでの間、本条約の保護を享有する」と規定している。

一九四九年捕虜条約は、一九二〇〜三〇年代の捕虜に関する国際法規に比較して飛躍的に進歩した内容を示していて、もちろん支那事変当時の関連諸問題に直接影響を与えるものではないが、少なくとも右の第五条に見られる「敵の手中に陥った者」のことごとくが「敵の権力内に陥った者」(捕獲国から国際法上の捕虜としての待遇を保証された者)とは限らないことを示唆している点において、注目に値しよう。



捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第三条約)

第五条第一項
この条約は、第四条に掲げる者に対し、それらの者が敵の権力内に陥った時から最終的に解放され、且つ、送還される時までの間、適用する。




1937年12月14〜15日、【幕府山砲台】を占領した【山田支隊】は、同砲台周辺で総計【約2万人(※目算)】の支那敗残兵を捕らえました。この支那敗残兵を収容していた兵舎で【火災】が発生したのが16日です。

【宮本省吾(※仮名)】陣中日記によれば、この火災の後、【最後の取るべき手段を決して捕虜の一部を揚子江岸で射殺】とあります。この時、処断された支那敗残兵の数は、【数千人規模】であったと推測されます。この処断を検証します。



1937年12月16日 --- 収容所で【火災】が発生し最後の取るべき手段を決して【数千人を処断】


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


警戒の厳重は益々加はりそれでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す。しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す。午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


定刻起床。午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く。午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す。

同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く。捕虜総数一万七千二十五名。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しTに於て射殺す。

一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



本間正勝(※仮名)戦斗日誌 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第9中隊、二等兵)]


午前中隊は残兵死体整理に出発する。自分は患者として休養す。午后五時に実より塩規錠をもらふ。捕虜三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す。午后十時に分隊員かへる。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


飛行便の葉書到着す。谷地より正午頃兵舎に火災あり約半数焼失す。夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


午前中給需伝票等を整理する。一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く。そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る。丁度見本展の様だ。お陰で随分酩酎した。

夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く。遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する。

月は十四日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし戦場ならざれば見るを得ざるところなり 九時半頃帰る 一生忘るゝ事の出来ざる光景であった。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



黒須忠信(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、上等兵]


午后一時我が段列より二十名は残兵掃蕩の目的にて幕府山方面に向ふ。二三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す。其の后銃剣にて思ふ存分に突刺す。

自分も此の時ばかりと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。山となって居る死人の上をあがって突刺す気持は鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱい突刺したり。うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る。一人残らず殺す。刀を借りて首をも切って見た。こんな事は今まで中にない珍らしい出来事であった。

■■少尉殿並に■■■■■氏、■■■■氏等に面会する事が出来た。皆無事元気であった。帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



目黒福治(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第V大隊大隊段列、伍長]


休養。市内に徴発に行く。至る処支那兵日本兵の徴発せる跡のみ。午後四時山田部隊にて捕えたる敵兵約七千人を銃殺す。揚子江岸壁も一時死人の山となる。実に惨たる様なりき。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



改めて兵士達の日記を見ると、【火災】の発生規模と【処断された支那敗残兵】の割合が、共に【3分の1】で一致している事が確認できます。即ち、16日に処断された支那敗残兵は、【火災を起こした兵舎に収容されていた支那敗残兵】だったと考えられます。



火災により兵舎の【三分の一を延焼】、その後、捕えていた支那敗残兵の【三分の一を射殺】


16日の揚子江岸での処断は【火災を発生させた兵舎に収容されていた支那敗残兵】だった


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す。午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。…

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


捕虜総数一万七千二十五名。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しTに於て射殺す。…

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く。遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く。そして全部処分を終る。…

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



収容所代わりに使っていた兵舎はどこも満杯で、火災を発生させた兵舎に収容されていた支那敗残兵を、【他の兵舎に追加収容する余裕が無かった】事が処断の理由になったのではないでしょうか。



【火災を発生させた兵舎】に収容されていた支那敗残兵を【他の兵舎に収容する余裕は無かった】


『持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種』 朝日新聞1937年12月17日 朝刊

[南京にて横田特派員16日]
両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を捨てさせ附近の兵営に押込んだ。

一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ。○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ 」と優しい仁愛の言葉を投げると手を挙げて拝む、終ひには拍手喝采して狂喜する始末で余りに激変する支那国民性のだらし無さに今度は皇軍の方で顔負けの体だ。

それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ。

一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。部隊では早急大小行李の全駄馬を狩集めて食べ物を掻き集めている始末だ。



幕府山支那敗残兵


この時の【山田支隊】の状況を再確認したいと思います。

まず、捕えた支那敗残兵の総数ですが、【山田支隊】の総兵力約2,000人に対して、支那敗残兵総数約20,000人とも目算されており、約10倍の開きがありました。単純に計算しても、【日本兵1人で支那敗残兵10人を監視】していた事になります。

いくら支那敗残兵が武装解除されていたと言っても、10人一度に反抗されれば、日本兵1人では対応できなかったと思われます。【山田支隊】側から見れば、【自軍の安全面】において問題を抱える事態となっていました。



山田栴二少将日記 12月16日(※山田支隊指揮官)

相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ。捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

一回の集団殺害では最大規模とされながら、今なお謎をはらむ幕府山捕虜の惨劇の主役は、第十三師団の山田支隊(歩一〇三旅団長山田栴二少将指揮、歩六五連隊基幹)である。支隊は上海の激戦で消耗して兵力は二千人前後しかなかったが、十二月十一日南京への前進を命令されたので、翌日鎮江を出発、十三日烏龍山砲台、十四日朝に幕府山砲台を占領した。…



加えて、【捕虜への給食の負担】が深刻であり、改善の見込みは全くありませんでした。対応を協議するため、南京に本間騎兵少尉を派遣したものの、支那敗残兵を受け入れてもらえず、逆に【皆殺せとのことなり】との回答を受けてしまい、どうする事もできない状況に陥っていたと思われます。



山田栴二少将日記 1937年12月15日 --- 【皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。】


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月14日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


少佐とか参謀とか云ふ者もあり通訳より「日本軍は皆に対し危害を与へず唯逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通じ支那捕虜全員に対し言達せし為一般に平穏であった。唯水と食糧の不足で全く閉口した様である。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



山田栴二少将日記 12月15日(※山田支隊指揮官)

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す。本日も出発の様子なく警戒に任ず。中隊は衛生を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。

夕方より一部食事をやる。兵へも食糧配給出来ざる様にて捕虜兵の給食は勿論容易なものではない。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

昭和13年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。…

※栗原氏証言
しかし自分たちの食料にもこと欠くありさまで、捕虜に与える食物がなく、ようやく烏龍山(注 - 幕府山の間違いか)砲台から馬で運んで来て、粥を1日1回与えるだけが精一杯であった。水も不足し、自分の小便まで飲む捕虜がいたほどの悲惨な状態であった。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



『持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種』 朝日新聞1937年12月17日 朝刊

[南京にて横田特派員16日]
両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を捨てさせ附近の兵営に押込んだ。

一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ。○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ 」と優しい仁愛の言葉を投げると手を挙げて拝む、終ひには拍手喝采して狂喜する始末で余りに激変する支那国民性のだらし無さに今度は皇軍の方で顔負けの体だ。

それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ。

一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。部隊では早急大小行李の全駄馬を狩集めて食べ物を掻き集めている始末だ。



その状況下で、収容所で【火災】が発生してしまいました。収容所建物の【3分の1】が焼失し、只でさえ深刻だった状況に追い打ちが掛かってしまいました。この【火災】が切っ掛けとなり、収容していた支那敗残兵の【3分の1】を処断しています。



【支那敗残兵の食糧確保が不可能】だった事に加えて【収容所の火災が追い討ちをかけた】


火災により兵舎の【三分の一を延焼】、その後、捕えていた支那敗残兵の【三分の一を射殺】


宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す。午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



遠藤高明(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第8中隊、少尉]


午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す。

捕虜総数一万七千二十五名。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しTに於て射殺す。

一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



菅野嘉雄(※仮名)陣中日記 12月16日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊、一等兵]


正午頃兵舎に火災あり約半数焼失す。夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



近藤栄四郎(※仮名)出征日誌 12月16日
[※第13師団山砲兵第19連隊第8中隊、伍長]


夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く。遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く。そして全部処分を終る。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



本件については、【火災の原因】に着目する必要があります。兵士達の日記からは、【火災の原因】が判然としなかったのですが、本件の当事者である【両角業作】大佐の手記と、教導総隊第三大隊本部勤務兵【唐光譜】氏の証言が一致しており、【脱出のための放火】と述べられているのです。

【唐光譜】証言によれば、【多くの大胆な人】とも述べられており、【脱出のための放火】に加担した支那敗残兵がかなりいた可能性も否定できません。【宮本省吾(※仮名)】陣中日記には、支那兵全員に対して【警告】が与えられていたと記載されていますが、残念ながら届かなかった様です。



【収容所火災の発生原因】は脱出するために支那敗残兵により計画された【放火によるもの】


53 私が経験した日本軍の南京大虐殺 唐光譜証言

五日目になった。私たちはお腹の皮が背中につくほどお腹が空いてみなただ息をするだけであった。

明らかに、敵は私たちを生きたまま餓死させようとしており、多くの大胆な人は、餓死するよりも命を賭ける方がましだと考え、火が放たれるのを合図に各小屋から一斉に飛び出ようとひそかに取り決めた。

その日の夜、誰かが竹の小屋を燃やした。火が出ると各小屋の人は皆一斉に外へ飛び出た。

みんなが兵舎の竹の囲いを押し倒したとき、囲いの外に一本の広くて深い溝があるのを発見した。人々は慌てて溝に飛び降りて水の中を泳いだり歩いたりして逃走した。しかし、溝の向こうはなんと絶壁でありみな狼狽した。このとき敵の機関銃が群衆に向かって掃射してきた。

溝の水は血で真っ赤に染まった。逃走した人はまた小屋の中に戻された。小屋は少なからず焼け崩れ、人と人は寄り添い近寄っておしあいするしかなく、人間がぎっしりと缶詰のように詰まり、息をするのもたいへんだった。…

(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から引用)



両角業作大佐手記(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊長)

当時、我が連隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。

炊事が始まった。其棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、連隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくとも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。…

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月14日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


少佐とか参謀とか云ふ者もあり通訳より「日本軍は皆に対し危害を与へず唯逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通じ支那捕虜全員に対し言達せし為一般に平穏であった。唯水と食糧の不足で全く閉口した様である。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



この様な状況に対して、【国際法学者信夫博士】は、下記の見解を述べています。例え【俘虜(=条約により待遇を保証された者)】であっても、【多数共謀して逃走を企図する場合】は、概して【銃殺】の対象となるのです。【企図】しただけでも【銃殺】になりますので、重罪と認識されていた事が伺えます。



【俘虜が多数共謀して逃走を企図する場合】は危険の重大性に鑑み【銃殺】を課するに妨げない


『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

…以上は俘虜の単独逃走に係るものであるが、俘虜が多数共謀して逃走を企図する場合は自ら別である。この場合は危険の重大性に鑑み、陰謀罪として俘虜収容国の陸軍法規に依り之に刑罰を課するに妨げない。

その刑罰は概して銃殺である。米国の「陸戦訓令」第七十七条第二項に「然れども共同的若くは全般的の逃走を目的とする陰謀にして発見せられたる場合には、陰謀者は之を厳刑に処すべく、之を死刑に処するも妨げず。

俘虜にして捕獲国の権力に対し謀反を企図することが発見せられたる場合には、その企図が同国人たる俘虜と共謀すると他の人々と共謀するとを問はず、死刑を之に加ふることを得。」とあり、独逸の「陸戦慣例」にも同様の規定がある。



【脱出のための放火】は、弁解の余地の無い重罪ですが、【火災】を発生させた兵舎の支那敗残兵全員が、【脱出のための放火】に加担したわけではないと思われます。また、様々な史料を比較検証してみても、16日の処断が【刑罰】だったとの認識を示したものは無い様です。故に、16日の処断を、【脱出のための放火】に対する【刑罰】と解釈するのは妥当ではないかもしれません。

しかしながら、【第36項】で検証した【軍事的必要】の観点から見れば、どう判断されるでしょうか。

捕えた支那敗残兵の数が多すぎて【自軍の安全面】において問題が起きており、【捕虜への給食の負担】に耐えられない状況に陥っていました。そこに、【脱出のための放火】が引き起こされたのです。

焼失した兵舎の支那敗残兵を【他の兵舎に追加収容するのは不可能】でした。加えて、【脱出のための放火】を引き起こした事から、【日本軍への反抗】の意志すら伺えます。

この様な状況を踏まえて、下記【国際法学者信夫博士】の見解を見ると、どう判断されるでしょうか。【軍事的必要が存在した】と認められるのではないでしょうか。



『戦時国際法講義 第二巻』
信夫淳平博士(※国際法学者)


更に俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの己むを得ざる場合あることも肯定すべきである。

之を適切に説明したものはハレックの左の一節であろう。日く、
『俘虜を殺害することの風習は今日文明国聞に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。…

自己安全は勝者の第一の法則で、 この目的のために必要の手段を執ることは交戦法則の認むる所である。

ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。 随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判定すベく、軽々しくその当否を断ずべきではない。』



『戦時国際法講義 第二巻』
信夫淳平博士(※国際法学者)


即ち要は、捕獲者に於て俘虜の収容又は給養が能きず、さりとて之を宣誓の上解放すれば彼等宣誓を破りて軍に刃向うこと歴然たる場合には、挙げて之を殺すも交戦法則上妨げずと為すのである。

事実之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしというが如き場合には、勿論之を非とすべき理由は無いのである。



一旦【捕虜として収容】されれば、その生命は、国際法により絶対の保証が与えられるわけではありません。【軍事的必要】が発生した場合は、例え【投降を許して収容した捕虜】であっても、之を犠牲にする事があるのです。16日の処断に対しては、安易に【違法認定】するべきではありません。



『国際法V』 田岡良一著(※国際法学者)

戦数を肯定する嫌いのあるドイツ学者の説の引用を避けて、ただイギリスの学者の説のみをたずねても、

戦争法の権威スぺートはその陸戦法に関する名著「陸上における交戦権」のなかに、投降者の助命が戦時の実際において行われ難く、かつその止むを得ない場合があることを論じ、また

投降を許して収容した捕虜さえも、軍の行動の必要によって皆殺するの止むをえぬ場合がある

ことは、ローレンスが、一七九九年ナポレオン軍によるトルコ・ジャッファ守備隊四千人の皆殺の例を引いて説くところである。



『国際法辞典 国際法学会編』
竹本正幸著(※国際法学者)


…戦争法は、過去における経験から通常発生すると思われる事態を考慮し、その場合における人道的要請と軍事的必要の均衡の上に作られている。

予測されなかったような重大な必要が生じ、戦争法規の尊守を不可能ならしめる場合もありうるのである。



『南京事件と戦時国際法』
佐藤和男教授(※国際法学者)


…一般に国際武力衝突の場合に、予想もされなかった重大な軍事的必要が生起して交戦法規の遵守を不可能とする可能性は皆無とはいえず、

きわめて例外的な状況において誠実にかつ慎重に援用される軍事的必要は、容認されてしかるべきであるという見解は、今日でも存在しているのである。




問題は、1937年12月17日の支那敗残兵処断です。この処断が、いわゆる『幕府山事件』です。

【山田支隊】は、この日、残余の支那敗残兵を揚子江岸へ連行したのですが、そこで【支那敗残兵による暴動】が発生し、ついには【一斉射撃】となりました。日本軍側にも犠牲者が出る程の大混乱となり、後日、上海派遣軍参謀本部の耳にも入りました。



1937年12月17日(夜) --- 連行した支那敗残兵が暴動を起こしたため【一斉射撃を開始】して鎮圧


田山芳雄少佐証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊第1大隊隊長)

銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです。」

(※『南京の氷雨』から引用)



箭内亨三郎准尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊機関銃中隊隊員)

「集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が…。突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。彼ら捕虜たちは次々に縛を脱し---巻脚胖などで軽くしばっていただけですから、その気になれば縛を脱することは簡単だったのです。」

「たまりかねて一斉射撃を開始し、鎮圧に乗り出したのです。私の近くにいた第一大隊長の田山少佐が『撃ち方やめ!』を叫びましたが、射撃はやまない。気違いのようになって撃ちまくっている。目の前で戦友が殴り殺されたのですから、もう逆上してしまっていてね…。万一を考え、重機関銃八挺を持っていっていたので、ついには重機関銃まで撃ち出すことになったのです。」

(※『南京の氷雨』から引用)



平林貞治中尉証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊砲中隊隊員)

一部で捕虜が騒ぎ出し、威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した。その一発が万波を呼び、さらに騒動を大きくしてしまう形になったのです。結局、仲間が六人も死んでしまっているんですよ。あれは偶発であり、最初から計画的に皆殺しにする気なら、銃座をつくっておき、兵も小銃をかまえて配置し、あのように仲間が死ぬヘマはしません。」

(※『南京の氷雨』から引用)



栗原利一伍長証言(※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊隊員)

昭和13年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。…

※栗原氏証言
うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があがり、すぐ機関銃の射撃が始まった。銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月17日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一傷者二に達す。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



飯沼守少将日記 12月21日(※上海派遣軍参謀課課長)

荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。

上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



上村利道大佐日記 12月21日(※上海派遣軍参謀副長)

N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様下手なことをやったものにて遺憾千万なり。

(※偕行社『南京戦史資料集』から引用)



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

両角連隊長の子息に当たる両角良彦氏が書いた『東方の夢』に、ナポレオンがシリア遠征時に、師団長の反対を押し切って、三千人の捕虜を虐殺した話が出てくる。空腹の捕虜たちはトリックで海岸につれ出され、海中へ逃げ出したのを銃撃で皆殺しにしたというから、状況としては瓜二つである。ともあれ、この捕虜の”反乱”が、南京アトローシティで最大級の惨事であったことに変わりはない。



支那敗残兵が【暴動】を起こしたのであれば、それを鎮圧するために【一斉射撃】となったのも、やむを得ない所でしょう。【日本軍側にも犠牲者】が出る程の大混乱でしたから、まさに、【自己安全は勝者の第一の法則】である以上、必要な手段を取ったと見るべきです。



『戦時国際法講義(二)』
信夫淳平博士(※国際法学者)


更に俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの己むを得ざる場合あることも肯定すべきである。

之を適切に説明したものはハレックの左の一節であろう。日く、
『俘虜を殺害することの風習は今日文明国聞に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。…

自己安全は勝者の第一の法則で、 この目的のために必要の手段を執ることは交戦法則の認むる所である。

ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。 随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判定すベく、軽々しくその当否を断ずべきではない。』



本HPでは、いわゆる『幕府山事件』については、【解放説】を支持していますので(※【第52項】参照)、【法的考察(※国際法)】は以上で終わりになりますが、仮に、【計画的殺害説】を支持するのであれば、【法的考察(※国際法)】は、どの様になるのでしょうか。少し難しいテーマですが、考えてみたいと思います。


いわゆる『幕府山事件』が、【計画的殺害説】が真実であったとするならば、17日夜の【一斉射撃】は、どう判断されるのでしょうか。【一斉射撃】の切っ掛けが、【支那敗残兵による暴動】だった事は動かしがたい事実ですが、【支那敗残兵による暴動】が起きなかったと仮定して、残余の支那敗残兵を【計画通り処断した】場合を考えてみたいと思います。

【山田支隊】は、幕府山砲台等を占領して大量の支那敗残兵を捕えましたが、支那敗残兵に与える食料も無く、更には軍から早く処置する様督促が来ている状況下で、収容所の【火災】が発生してしまいました。その【火災】の発生原因は、収容されていた支那敗残兵による【脱出のための放火】であった可能性が高く、【山田支隊】は、【自軍の安全面】において重大な危機に瀕していました。この時点で、既に【軍事的必要】が発生しています。



『戦時国際法講義 第二巻』
信夫淳平博士(※国際法学者)


更に俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの己むを得ざる場合あることも肯定すべきである。

之を適切に説明したものはハレックの左の一節であろう。日く、
『俘虜を殺害することの風習は今日文明国聞に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。…

自己安全は勝者の第一の法則で、 この目的のために必要の手段を執ることは交戦法則の認むる所である。

ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。 随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判定すベく、軽々しくその当否を断ずべきではない。』



加えて、【山田支隊】が捕えた支那敗残兵は蒋介石親衛隊を含む【支那軍精鋭部隊】であった事も事情を複雑にしています。解放した【支那軍精鋭部隊】が、再び武器を手に取る可能性が十分にあったのです。しかも、その数は【一万〜二万】とも目算されていて、【山田支隊】の総兵力約2,000人を遥かに上回っていました。

この【支那軍精鋭部隊】を解放してしまえば、次こそ再び武器を手に取った彼らにより、日本軍側に多大な犠牲が出る番だったのかもしれません。



支那敗残兵に【中央の精鋭】が含まれており【解放すると再度武器を手に取る】可能性があった


『「南京事件」の探求』 北村稔著(※歴史学者)

それでは、一部の日本軍部隊が行ったように、中国軍捕虜を釈放すべきであったのか。軍閥の兵士を寄せ集めた部隊であれば、兵士は故郷に帰り帰農したかもしれない。

しかし捕虜の中には中央軍の精鋭も含まれており、戦争が続いている状況下での捕虜の戦線復帰を促し、日本軍には自分の首を絞めるようなものである。…



『持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種』 朝日新聞1937年12月17日 朝刊

[南京にて横田特派員16日]

両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を捨てさせ附近の兵営に押込んだ。

一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ。○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ 」と優しい仁愛の言葉を投げると手を挙げて拝む、終ひには拍手喝采して狂喜する始末で余りに激変する支那国民性のだらし無さに今度は皇軍の方で顔負けの体だ。

それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ。

一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。部隊では早急大小行李の全駄馬を狩集めて食べ物を掻き集めている始末だ。



東京朝日新聞号外 第五十一号 昭和十二年十二月十六日

両角部隊大武勲 敵軍一万五千余を捕虜

【南京にて横田特派員十五日発】
鎮江から揚子江岸を強く進撃した両角部隊は十三日烏龍山、十四日朝幕山二砲台を占領したが、その際南京城から崩雪れを打って敗走して来た第十八師団、八十八師軍官学校教導総隊等総数一万四千七百七十七名の敵軍と出会ひ、敵は白旗を掲げて降服、両角部隊は寡兵をもってよく一万四千余の全部を捕虜とするの大武勲を樹てた。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



福島民友新聞 昭和十二年十二月十七日

両角部隊の大殊勲 壱万五千の敵を捕虜 燦!幕府山砲台占領

(南京にて十五日発)
…両角部隊は十三日には烏龍山、十四日朝は南京の北方幕府山の両砲台を占領したが、その際南京城内から雪崩れを打って敗走してきた第十八師、第三十七師、第三十四師、第八十八師軍官学校、教導総隊等、総数一万四千七百七十七名の敵軍と出会ひ、敵は白旗を掲げて両角部隊の軍門に降り、同部隊は寡兵よくこの大敵軍を捕虜とする無比の殊勲を樹てた。

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



9 南京突撃撃退される

一九三七年十二月十日 F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電

中国指導者蒋介石総統自慢の精鋭軍第八十八師団は、旧首都の南正面を防衛していた。同師団は先の上海戦でほとんど壊滅したが、訓練を受けた新兵の補充を受けて強化され、装備、指揮ともに良好、兵の士気も高いという。

…南京の複廓陣地に置かれたのは、ドイツ軍事顧問が中国の近代的新軍隊のモデルとして組織、訓練、装備してきた特別部隊であった(教導総隊のこと --- 訳者)。

(※『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』から引用)



【山田支隊】の置かれた状況をまとめてみます。

@:捕えた支那敗残兵の数が膨大で、捕虜への給食の負担に耐えられない状況だった。
A:収容所で火災が発生し、自軍の安全を確保しつつ、支那敗残兵を管理する事が困難になった。
B:多数の支那軍精鋭部隊を解放すると、彼らが再び武器を手に取った時のリスクが高かった。

何よりも問題なのが、【自軍の安全面】に対してです。再び武器を手に取るかもしれない多数の【支那軍精鋭部隊】を解放する事が果たして現実的と言えるのか、軽々しく結論を出せるものではない様に思えます。

改めて、【山田支隊】の置かれた状況を見てみると、例え、本事件は【計画的殺害説】が正しかったとしても、その殺害に至るまでの経緯において、【山田支隊】には残余の支那敗残兵を処断するための十分な【軍事的必要】があったと見るべきではないでしょうか。



支那敗残兵の【食糧の確保が困難】な上に中央軍の精鋭が含まれているため【解放も危険】


『「南京事件」の探求』 北村稔著(※歴史学者)

中国軍捕虜と日本軍の置かれていた状況を冷静に考えてみたい。

まず第一に、食料を調達してきて二万人近い捕虜に食べさせるのは、捕虜を収容した日本軍の部隊ですら十分な食料を確保していなかった状況では不可能であった。

それでは、一部の日本軍部隊が行ったように、中国軍捕虜を釈放すべきであったのか。軍閥の兵士を寄せ集めた部隊であれば、兵士は故郷に帰り帰農したかもしれない。

しかし捕虜の中には中央軍の精鋭も含まれており、戦争が続いている状況下での捕虜の戦線復帰を促し、日本軍には自分の首を絞めるようなものである。

要するに中国軍捕虜も日本軍も、期せずして絶体絶命の状況に置かれてしまったのである。

「皆殺せ」の命令を出した人間の残忍性を認めるのは簡単である。しかし当時の日本軍には一体どのような方法があったのか。捕虜収容に見込みのたたない日本軍の抜け道は、捕虜を餓死させることであったかもしれない。しかしそのためには時間と監視要員が必要で、捕虜の暴動に発展する危険もあった。

かくして、せっぱつまったうえでの「皆殺せ」であり、これは状況に対処出来なくなった日本軍の悲鳴ではないのか。 …



『戦時国際法講義 第二巻』
信夫淳平博士(※国際法学者)


即ち要は、捕獲者に於て俘虜の収容又は給養が能きず、さりとて之を宣誓の上解放すれば彼等宣誓を破りて軍に刃向うこと歴然たる場合には、挙げて之を殺すも交戦法則上妨げずと為すのである。

事実之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしというが如き場合には、勿論之を非とすべき理由は無いのである。



『戦時国際法講義 第二巻』
信夫淳平博士(※国際法学者)


更に俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの己むを得ざる場合あることも肯定すべきである。

之を適切に説明したものはハレックの左の一節であろう。日く、
『俘虜を殺害することの風習は今日文明国聞に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。…

自己安全は勝者の第一の法則で、 この目的のために必要の手段を執ることは交戦法則の認むる所である。

ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。 随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判定すベく、軽々しくその当否を断ずべきではない。』



『国際法V』 田岡良一著(※国際法学者)

戦数を肯定する嫌いのあるドイツ学者の説の引用を避けて、ただイギリスの学者の説のみをたずねても、

戦争法の権威スぺートはその陸戦法に関する名著「陸上における交戦権」のなかに、投降者の助命が戦時の実際において行われ難く、かつその止むを得ない場合があることを論じ、また

投降を許して収容した捕虜さえも、軍の行動の必要によって皆殺するの止むをえぬ場合がある

ことは、ローレンスが、一七九九年ナポレオン軍によるトルコ・ジャッファ守備隊四千人の皆殺の例を引いて説くところである。




【より大きい軍事的必要】が発生して法規遵守不可能の場合は【法規は交戦国の拘束力を失う】


『国際法V』 田岡良一著(※国際法学者)

…「戦争法規は戦時に通常発生する事態における軍事的必要のみを考慮して、その基礎の上にうち建てられたものであるから、より大きい軍事的必要の発生が法規の遵守を不可能ならしめることは実際に必ず生ずる。この場合に法規は交戦国を拘束する力を失う。

具体的にどういう場合がこれに当たるかは、個々の法規の解釈の問題として決定されねばならぬ」という言葉によって表現せられたならば、この説には、戦数論を否定した学者といえども賛成せざるを得ないと思う。この意味において戦数は肯定さるべきものと思う。




いわゆる『幕府山事件』におけるの支那敗残兵処断の妥当性判断は、完全に【国際法解釈の範疇】です。故に、歴史学者の様な国際法の素人が、軽々しくその解釈を提示して良いものではないのです。例えば、歴史学者秦教授は、この様に述べています。



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

[c、捕虜の処刑] 投降兵の殺害には戦闘の延長と見られる要素もあり、リンドバーグの第二次大戦日
記にも、米豪兵が日本の投降兵をその場で殺してしまうため、捕虜情報が取れなくなって困った記事が出てくる。

しかし、一度捕虜として受け入れ、管理責任を負った敵兵を正当な法的手続きを踏むことなしに処刑するのは、明白な国際法(交戦法規)違反行為であり、第二次大戦でも日本軍のほかにあまり例がない。

南京アトローシティの捕虜処刑には、いくつかのタイプがあるが、山田支隊のような一万人前後の大量殺害はむしろ例外で、小集団の日本兵が数十人、数百人程度の捕虜を並べて斬刺殺したり銃殺する例が多い。



17日の処断が【例外】的な事例に属するのであれば、尚の事、専門家である【国際法学者見解】により判断されるべきです。国際法の専門家ではない歴史学者達が、感覚的に国際法を論じ、【違法認定】するのは止めるべきではないでしょうか。



【如何なる場合に法規が妥当性を失うか】の限界を定めるのは【国際法学者の任務】


『国際法V』
田岡良一著(※国際法学者)


…何人も知るように、凡そ法規は、その文言の通常の意義が及ぶ範囲に完全に妥当するものではなく、妥当の範囲はその法規の存在理由に照らして、一定の限界を持つ。

戦争法規もまたその存在理由に照らして一定の限界があることは言うまでもなく、如何なる場合に法規が妥当性を失うかは、各個の戦争法規の解釈の問題として考えて見ねばならぬ事柄である。

この研究は畢竟平時法と戦争法とを通じて国際法学者の任務であるところの、法規の存在理由を究め、これに基いて法規の拡充の限界を定めることに他ならない。



『戦争法の基本問題』 田岡良一著(※国際法学者)

…肯定論者は、一般に戦争法規は軍事的必要によつて破られる、と唱え、否定論者は、一般に戦争法規は、軍事的必要約款あるものを除き、軍事的必要によつて破るを許さず、と唱えるのを常とした。併し私の信ずる所によれば、軍事的必要と戦争法の効力の関係に就いて、斯かる概括的一般的な立言をなすことは危険であつて、問題は個々の戦争法規の解釈に移されねばならぬ。



今一度、下記の【歴史学者達による勝手な国際法解釈】を見てみます。本項では、当時の【山田支隊】の状況を再確認しながら【法的考察(※国際法)】を行ったのですが、【山田支隊】の状況に全く触れずに下記結論を出せるものなのでしょうか。【戦時国際法学の泰斗】と称された【国際法学者信夫博士】は、【事毎に周囲の事情を按じて之を判定すベく】と述べているのですが、歴史学者達はどう判断したのでしょうか。



【一度収容】して日本軍の管理下に置いていた支那敗残兵を処断したから【国際法違反】


『南京事件』 秦郁彦著(※歴史学者)

投降兵の殺害には戦闘の延長と見られる要素もあり、リンドバーグの第二次大戦日記にも、米豪兵が日本の投降兵をその場で殺してしまうため、捕虜情報が取れなくて困った記事が出てくる。しかし、一度捕虜として受け入れ、管理責任を負った敵兵を正当な法的手続きを踏むことなしに処刑するのは、明白な国際法(交戦法規)違反行為であり、第二次大戦でも日本軍のほかにあまり例がない。



『いわゆる「南京事件」の不法殺害』 原剛著(※軍事史研究家)

しかし、戦場で捕らえた捕虜や便衣兵を、武装解除して一旦自己の管理下に入れておきながら、その後揚子江岸などへ連行して射殺もしくは刺殺するのは、戦闘の延長としての戦闘行為であるとは言い難い。捕虜などが逃亡とか反乱を起こしたのであれば別であるが、管理下で平穏にしている捕虜などを、第一線の部隊が揚子江岸などへ連れ出して殺害するのは不法殺害に相当する。…




【絶対必要か否か】は事毎に周囲の事情により判断し【軽々しくその当否を断すべきではない】


『戦時国際法講義 第二巻』
信夫淳平博士(※国際法学者)


更に俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの己むを得ざる場合あることも肯定すべきである。之を適切に説明したものはハレックの左の一節であろう。日く、

『…俘虜を殺害することの風習は今日文明国聞に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。

…自己安全は勝者の第一の法則で、この目的のために必要の手段を執ることは交戦法則の認むる所である。ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。

随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判定すベく、軽々しくその当否を断ずべきではない。



『東京裁判史観批判に耳を傾けよ』 佐藤和男教授(※国際法学者)
[ http://www.meiseisha.com/katarogu/sekaigasabaku/tyosha.htm ]

東京裁判が開廷されたのは昭和21年5月のことだが、その少し前に、わが国における戦時国際法学の泰斗とされた信夫淳平博士(帝国学士院恩賜賞受賞者)は、この裁判を念頭に置いて、大要次のような論稿を残されている。…



書評 信夫淳平著「戦時国際法講義」』 大平善梧教授(※国際法学者)
[ http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/4923/1/ronso0090500980.pdf ]

博士は日露戦争、上海事変並びに支那事変の三回、陸海軍に国際法に関する顧問として大陸に従軍せられたのであって、戦時法に就いては学理及び実際に精通する我が国に類例少ない権威である。…



摩訶不思議なのですが、軍事史研究家原氏は、いわゆる『幕府山事件』を違法認定しながら、一方では下記見解を述べています。下記こそが【軍事的必要】だと思われるのですが、【戦時国際法の権威、ジュネーブ諸条約についての権威】である【国際法学者竹本教授】の見解と比較した時、原氏の解釈が【軍事的必要】に該当しない理由は何なのでしょうか。



『いわゆる「南京事件」の不法殺害』 原剛著(※軍事史研究家)

他の戦場では、適当に抵抗して離脱・後退することを常とした中国軍が、南京では背水の陣で逃げられず、さらに南京の周囲は城壁に囲まれ、その城門は塞がれてしまい、

城内の兵も住民も逃げ道がなくなり、烏合の衆となって日本軍に撃滅されたり、捕まったり、あるいは散り散りになって安全区に逃げ込んだ。

このため日本軍は、他の戦場では発生することもなかった予想もしない大量の捕虜や便衣兵に直面し、その処置に困惑し、止む無く殺害する部隊もあったのである。



『国際法辞典 国際法学会編』
竹本正幸著(※国際法学者)


…戦争法は、過去における経験から通常発生すると思われる事態を考慮し、その場合における人道的要請と軍事的必要の均衡の上に作られている。

予測されなかったような重大な必要が生じ、戦争法規の尊守を不可能ならしめる場合もありうるのである。



『南京事件と戦時国際法』
佐藤和男教授(※国際法学者)


…一般に国際武力衝突の場合に、予想もされなかった重大な軍事的必要が生起して交戦法規の遵守を不可能とする可能性は皆無とはいえず、

きわめて例外的な状況において誠実にかつ慎重に援用される軍事的必要は、容認されてしかるべきであるという見解は、今日でも存在しているのである。



『南京事件と戦時国際法』 佐藤和男教授(※国際法学者)

わが国の戦時国際法の権威である竹本正幸教授も「予測されなかった重大な必要が生じ、戦争法規の遵守を不可能ならしめる場合もあり得る」と認めている。



【竹本 正幸(タケモト マサユキ)】(※コトバンクから引用)

:昭和・平成期の法学者 関西大学法学部教授。

学歴〔年〕
京都大学法学部〔昭和28年〕卒,京都大学大学院公法研究科〔昭和30年〕修士課程修了

経歴
昭和32年京都府立大学専任講師、40年より1年間ロンドン大学に留学。45年関西大学教授、57〜59年法学部長、63年より2年間大学院邦楽研究科長。また59年より4年間国際連合の差別防止少数者保護小委員会委員。世界法学会理事長も務めた。戦争犠牲者の保護に関するジュネーブ諸条約についての権威。著書に「国際人道法の再確認と発展」などがある。



【山田支隊】の状況は極めて深刻なものであり、この状況を打開するために【軍事的必要】が発生していた事は十分に考えられるのです。そして、【国際法学者佐藤教授】は下記見解を述べているのです。【国際法の専門家】の下記見解に対して、【国際法の門外漢である歴史学者達】が異を唱える事が学問的にあり得るのでしょうか。



いわゆる【幕府山事件における支那敗残兵処断】【戦時国際法違反でない】


『南京事件と戦時国際法』
佐藤和男教授(※国際法学者)


五、結論的所見
…その二は、戦闘中に集団で捕えられた敵兵の処断である。同じように戦闘中に捕えられながらも釈放された支那兵が多数いたことを見れば(前出『南京戦史』第五表を参照)、日本軍の側に捕えた敵兵を組織的に絶滅させる計画的な意図が無かったことは明白である。

具体的な熾烈な戦闘状況を調べてみると(本稿では詳述する余地がない)、日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。



南京問題小委員会の総括 [ http://www.toidatoru.com/pdf/nankin.pdf ]

二〇〇七年三月の「南京問題小委員会」に講師として参加された青山学院大学名誉教授で国際法が専門の佐藤和男博士は、『偕行南京戦史』に記載されている捕虜の処断を検証した。

@ 第九師団歩兵連隊による安全区掃討作戦において摘出した便衣兵六六七〇名の処断。
A 第十六師団歩兵第三三連隊の太平門、下関、獅子山付近で捉えた捕虜三〇九六人の処断。
B 第十六師団歩兵第三〇旅団が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千人の処断。
C 第百十四師団歩兵第六六連隊第一大隊が雨花門外で捕らえた捕虜一六五七人の処断。
D 山田支隊が幕府山付近で捕らえた捕虜数千人の処断。

以上、右列記した事例について佐藤博士は、いずれも戦時国際法違反でないと断定し、現在、南京問題研究者が素人判断で捕虜の処断を「虐殺」とする研究に対して苦言を呈していた。

佐藤博士が問題ないと断定した右@〜Dの事例は、中国側も当時、戦時国際法違反があったと国際連盟に提訴していない。



【国際法の門外漢である歴史学者達】は、学問の範疇を逸脱した解釈を提示していると言わざるを得ません。【素人判断】がまかり通っている現状に対し、強く反省を促したいと思います。


補足します。

【第46〜48項】に掲載した兵士達の日記には、【徴発】に関する記載を所々で目にします。



柳沼和也(※仮名)陣中日記 12月15日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第7中隊、上等兵]


何する事もなくして暮す。其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発して来た。支那饅頭うまかった。十六師団が敗残兵を殺すのを見たが残酷だったと聞く…

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



この【徴発】について、【国際法学者信夫博士】及び【国際法学者立博士】は、下記見解を述べている事を付言しておきます。(※参考資料として、上海派遣軍参謀長飯沼守少将の証言も合わせて掲載しておきます。)



『戦時国際法論』 立作太郎博士(※国際法学者)

第一編 交戦法規、第三部 陸戦法規、第十一章 陸戦に於ける取立金及徴発

第三節 徴発

徴発とは、交戦国の軍隊が、特に敵地の住民又は市、区、町、村より、其の必要とする物件を徴収し、又は是等の者に対して其必要とする労務を課するを言ふのである。労務を課することも亦徴発の一種と考へらるるを常とするも、之を課役と称するを得べきである。ハーグの陸戦条規は、現品徴発及課役に関して、(1)占領軍の需要の為にするに非ざれば、之を課するを得ずとし、(2)地方の資力に相応すべきものとし、(3)且つ人民をして其本国に対する作戦動作に加はるの義務を負はしめざる性質のものたるを要すとし、(4)占領地方に於ける指揮官の許可を得るに非ざれば之を要求するを得ずとし、(5)現品の供給に対しては成るべく即金にて支払ひ、然らざれば領収証を以て之を証明すべく、且つ成るべく速に之に対する金額の支払を履行すべきものとして居る(第五十二条参照)。

(1)所謂占領軍の需要とは、占領軍の給養及実力維持の為めに要せらるる所を指すと解すべく、糧食、薪炭、寝具、被服類及其材料、靴革、酒類、煙草等を徴発し得べきものと認むべきである(イギリス陸軍省「陸戦」第四百十六条、アメリカ「陸戦規則」第三百四十六条参照)。其以外に於ても、軍の給養及実力維持の為めに要せらるるものは、何物にても徴発し得べきである。建築材料、輸送及び通信に用ゆる材料、医療材料をも、徴発し得べきである。而して解釈論として異論無きにあらざるも、現在に於ても、陸戦条規第五十三条第二項に所謂軍需品に属するものも、占領軍が自己の需用に充てんとするとき、押収の名義を用ひずして、徴発の名義に依り、徴発の条件及手続を以て、之を徴発せんとせば、之を為し得べきものと認むべきが如くである。…

(5)第一回平和会議の際定まれる陸戦条規に於ては、『現品の供給は成るべく即金にて支払うべく、然らざれば領収証を与へて之を証明すべし』と為すに止めた。而して常時実際に於て、即金を払わずして領収証を与へたるときは、戦争中之に対して支払を為すこと無く、戦争終了の際、講和条約に於ても特に之に関して支払を約すること稀にして、領収証は、占領軍の濫徴を防ぐに幾分かの効果ありたるべき以外には、単に徴発を命ぜられたる者の本国が自国人の是等の損害に対して補償を与ふる場合に於ける証拠となるに過ぎなかったのである。第二回平和会議に於て、新に『且つ成るべく速に之に対する金額の支払を履行すべきものとす』との語を付加せる為め、著しき差異を生ずるに至り、即金を支払はざる場合に於て、戦争中たると否とを問はず、成るべく速に金額の支払を履行すべきこととなり(第二回平和会議書類第三巻二十一項参照)、徴発に依る現品の領収証は、成るべく早き時期に於て、現品の価格を支払ふべきの占領者の義務の存在を証するものとなるに至った。然れども第二回平和会議の新陸戦条規に於て追加されたる上述の点は、世界大戦の際に於ては、戦争関係国中、該新条規に加はらざる国ありたるを以て、総ての大戦関係国の間に於て行はれざることとなり、第一回平和会議の議定せる旧陸戦条規の規定及徴発に関する慣習国際法規のみが、大戦関係国間行はれたのである。



『戦時国際法講義 第二巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

第四章 敵国領土の占領 第二款 占領地の行政及び常事司法 第六項 徴発及び取立金

第一目 徴発

一三一八 …徴発とは軍が目前の消費のために使用又は近く使用に必要と認むる物品を所有者をして提供せしむることで、進軍中にも沿道の住民に対し之を行ふことあるか、多くは取立金と同様に占領地にて行ふを普通とする。その提供せしむる物品は、苟も『占領軍ノ需要ノ為ニスル』ものであるならば、敢てその種類如何を問はず、如何なる物品にても徴発するに妨げなく、即ち兵員の糧食、被服、馬匹の糧秣、物資運搬の舟車、牛馬、鉄道材料等、悉くこれ徴発の適法の目的物である。 …のみならず徴発し得るものは必しも動産のみに限らず、不動産とても同様で、例へば邸宅を徴発し兵の宿営に提供せしむるなどは往々見る所である。

一三一九 徴発すべき物品の所有者は独り敵国人(及び自国人)のみに限らず、占領地(及び内地)在住の外国人に対しても、特定の範囲に於て徴発を之に及ぼすを得るのである。ホールの説に『…同様に敵国内所在の中立人は敵国の法権の下にあり、且敵と密接の関係を有し、種々の点に於て敵と離るべからざるものであるから、その生命財産は一般原則として、敵の非戦闘者と同じ程度に於て交戦の結果の前に曝さるべきである。中立人は外国の占領軍の一時的法権の下に立つ国人と同じ位置に置かれ、不従順の行為あらば同じ処罰を受ける。交戦者はその交戦の遂行上、彼等を占領地の他の住民以上に尊重せねばならぬ義務を有しない。彼等の財産は課金取立及び物品徴発より免るべきではない。従って例へば攻囲地に対し砲撃を加ふるに方り、一般住民に退去を許さざるに独り外国人のみに退去の機会を与ふるを要しない。彼等の財産は課金取立及び物品徴発より免るべきではない。』(Hall, §278, pp. 901-2)とあるは、原則として一般に肯定せらるる所である。

一三二一 徴発を行ひたる場合には『成ルベク即金ニテ支払ヒ、然ラザレバ領収書ヲ以テ之ヲ証明スベク且成ルベク速ニ之ニ対スル金額ノ支払ヲ履行』するを要する。徴発は往古の糧を敵に藉るといふ主義に胚胎し、十八世紀以前には概ね無償で行はれ、事実に於て掠奪と択ぶなきものであったが、交戦の法規慣例の発達と共にそれがざ漸次有償主義に進化し、以て現行の法規を見るに至ったものである。尤も報償すべき代価は徴発者と受命者との契約にて定むるのではなく、徴発者之を適当に査定する。占領地住民は動もすれば結局に付込んで貪るに傾き易いものであるから、占領軍は彼等の不当の申出を顧慮するを須いず、自身相当と認むる代償を支払ふを以て足れりとする。日清戦役の前掲の『第二軍徴発心得』には別に『徴発ヲ行ヒタルトキハ成ルベク其土地ノ通貨ヲ以テ代価賃銀ヲ支払フベシ。其ノ金額ハ相当ト認ムル所ニ従ヒ之ヲ定メ、徴発ニ応ズル人民ノ同意ヲ得ルヲ要セズ。』(第六条)とあったが、これは当然の規定である。然しかしながら徴発者に徴発物品の代価を任意査定するの権を認むるのは、前述の如く畢竟該物品所有者が軍の須要に足元を見て値段を競上げ、暴利を貪らんとするが如きを為しめざるがためで、徴発受命者に幾ら損をさせても構はぬといふ意味ではない。故に徴発者の任意査定する金額とても、百円のものを一円で踏倒しても可なりといふことは許さるべきではなく、自ら相当といふ程度は之を守らねばならぬのである。…

一三二二 現品徴発に対し即金支払を為し難き事情ある場合には、領収証を以て現品徴発を為したことを証明し置き、後日成るべく速に之に対する金額の支払を履行すべきである。成るべく速に支払の履行を要するの一事は旧陸戦法規慣例規則に無く、第二回海牙会議に於て新たに現行規則の本条第二項中に挿加せられたる要求である。尤も『成ルベク速ニ』であるから、支払の時期は結局徴発者の裁量に属し、その遅速を確と当てにすることは能きまいが、それでも無きに勝る規定であるには相違ない。徴発に対する領収書は、金銭支払の履行を徴発官憲に要求すべき一の証憑として交付するものである。

一三二三 然しかしながら領収証は一の証憑ではあるが、必しも徴発物品に対する代金の請求書たるものではない。徴発物品に対し領収証を交付する理由は、一は他の指揮官が新たに来りて再び徴発を行はんとする場合に、之を提示して既に資力相当の徴発に応じたものなることを証し、且その既に行はれたる徴発の多寡範囲等を知るに便ならしむること、又一は徴発者より支払を受くるを得ざりし被徴発者は戦後自国政府に向って之が補償を要求するが如き場合あるかも知れず、別言すれば、後日の講和条約に於て被占領国が之を負担するやうなことになるならば、その際本国政府に対し之を要求すべき証明の資料と為さしむるのである(Hall, §140, p.511; Oppenheim, U, §146, p.208)。実際徴発に対する代金の後日の支払は、必しも徴発者に依りて履行せらるるとは限らず、結局は戦敗国の支払ふべき償金から差引かれるといふことは、過去の講和の際に於て稀ではなかった。

一三二五 徴発代金の支払には占領地の従来の通貨を以てするも、将た占領国本国のそれを以てするも、一に占領軍の裁量に由るべく、要は無償にて糧を敵に藉るといふ往昔の手段を戒め避くれば可いのである。然しながら土地の通貨に容易に換ゆるを得ざる外国貨幣にて支払はれては被徴発者として迷惑なことであるから、能ふ限り土地の通貨を以てするに若くはなきが、その流通高には自ら限りがあり、又相場の高低もありて、土地の通貨のみに依ること能はざる事情もあるべく、さりとて占領軍本国の通貨を無限に使用するに於ては、ためにその下落を招き、為替政策上面白からざる影響を見るの●もあるから、之に兌換し得らるべき一種の代用紙幣を便宜発行し、之を以て徴発代金の支払に充つることは戦時往々見る所で、謂ゆる軍用手票がそれである。

一三二七 軍用手票はその後の大正三年の日独戦役及び同七年の西比利出兵の折にも何程か発行されたやうであるが、特に録する程のものではなかった。然るに後年の支那事変に於ては、遥に広く利用せられた。軍票は該事変の第一年の初冬から中支に姿を現はしたが、その中南支占領地一帯(但し上海を除く)の通貨として名実相備はるに至ったのは翌十三年十一月以降であろう。…支那事変に於ける軍票の発行高は、局外者として明確に知るを得ざるも、事変の上半期即ち武漢陥落前の頃、占領地に於ける我が全軍の一か月の所要額大約一千万円と聞いたから、その発行高はかなりの巨額に達したものと察すべく、従って戦後の軍票回収方法は、当局者の間に相応の思慮を要するものと信ずる。



極東国際軍事裁判速記録 第309号 (昭和22年11月6日)
[ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269565 ]

[朗読]
一、私は元陸軍中将で、一九三七年八月十五日上海派遣軍の編成のとき松井軍司令官の下に参謀長として上海戦、南京戦に参加しました。

九、部隊として家具などを持ち出したことを聞いて居る。これは集団宿舎の設備補充の用途に当てたとのことである。この徴発の際には夫々損害を補償するが管理人が逃亡して不在のことが多く、これ等の家には代価を支払うべき証明書を貼布しておいたとのことである。個人として無断持ち出しをしたものも少しあった。又外人の家財を侵したものがあったので是等は夫々現物を返還し又は補償金を与え解決し犯罪者は処罰した。決して司令部として不法行為を命令したことは勿論無いし、又之を容認したことも無い。

昭和二十二年(一九四七年)四月十九日 於東京 供述者 飯沼 守


反対尋問をどうぞ。
〇裁判長 『ノーラン代将』
〇ノーラン検察官 『飯沼証人。一九三七年、昭和十二年に、あなたが松井大将のもとで、参謀長をしておった時代には、あなたの階級は何でありましたか。』
〇飯沼証人 『少将であります。』
〇ノーラン検察官 『南京に対する攻撃は、第十軍及び上海派遣軍によって行われたのではありませんか。すなわち二個の軍によって行われたのではありませんか。』
〇飯沼証人 『そうです。』

〇ノーラン検察官 『南京市内に居留しておったころの、外国居留民から、これは昭和十二年十二月十三日から翌年の、昭和十三年の二月までの間に、種々の抗議文が送られたのですが、あなたはこれを見ましたか。』
〇飯沼証人 『見たことはありません。』
〇ノーラン検察官 『どれか一つでも見たことがありますか。』
〇飯沼証人 『一つもありません。』
〇ノーラン検察官 『外国人居留民が、抗議を申し込んだということを、あなたは知っておりましたか。』
〇飯沼証人 『このことは、居留民から抗議があったかどうかは存じませんが、ピアノを持出したとか、自動車を持出したとかいう事件が、起ってのちに聞きまして、これらに対するそれぞれの処罰をしたのであります。』…



【第18項】で触れましたが、日本政府見解では、いわゆる『南京事件』について、【略奪行為等があったことは否定できない】と述べられており、略奪等が皆無だったとは言えないと思われます。しかしながら、【第46〜48項】に掲載した兵士達の日記を見てみると、【代価】を支払っていた事も確認されています。



斉藤次郎(※仮名)陣中日記 12月22日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊連隊本部通信班、輜重特務兵]


今日の目的地は■より南方七、八里の全椒県、午后三時到着、住民は日章旗を振りかざし爆竹をあげて我が部隊を歓迎した、聯隊長よりの注意がある、「婦女子に対し暴行をせぬ事。徴発の際は相当なる代価を支払ふ事。みだりに発砲せぬ事等」、我が部隊も此の処に守備に就くらしい…

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



宮本省吾(※仮名)陣中日記 12月27日
[※第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊、第4中隊、少尉]


風寒し、午前八時半出発、江浦県に向ふ、(略)当街は今迄になく支那軍も日本軍も未だに入らず、営業も正午迄行って居る様で日本軍の到来にて驚き然し日本軍を歓迎する有様にて種々好意を見せて居る、徴発も無理な事をせぬ様命令が出て物を始めて売買する様にて勿論支那の貨幣にて買ふ、

(※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』から引用)



外務省 歴史問題Q&A [ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/ ]

問6.「南京事件」に対して、日本政府はどのように考えていますか。

1.日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。

2.先の大戦における行いに対する、痛切な反省と共に、心からのお詫びの気持ちは、戦後の歴代内閣が、一貫して持ち続けてきたものです。そうした気持ちが、戦後50年に当たり、村山談話で表明され、さらに、戦後60年を機に出された小泉談話においても、そのお詫びの気持ちは、引き継がれてきました。

3.こうした歴代内閣が表明した気持ちを、揺るぎないものとして、引き継いでいきます。そのことを、2015年8月14日の内閣総理大臣談話の中で明確にしました。






--【第53項】 『幕府山事件』に対する『法的考察』--

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