-- ◆【第04章】 いわゆる『南京事件』と支那敗残兵処断◆ --

--【第54項】 『歩兵六六連隊戦闘詳報』と『南京事件』--

【第53項】へ   トップページに戻る   【第55項】へ



いわゆる『南京事件』の論争において、物議をかもした史料は幾つもあるのですが、その中の一つに、【第114師団第127旅団歩兵第66連隊第1大隊】のものと推定された【戦闘詳報】があります。この【戦闘詳報】の中にある下記記載が注目されたのです。



八.午後二時零分連隊長より左の命令を受く

  左記
  イ.旅団命令により捕虜は全部殺すべし 其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何

(※『歩兵六六連隊戦闘詳報』から抜粋)



歩兵66連隊戦闘詳報


上記記載は、【日本軍が組織的に捕えた支那敗残兵を虐殺していた証拠】と解釈され、いわゆる『南京事件』肯定派側の有力な根拠の一つになっていました。

しかしながら、上記の【戦闘詳報】は、発見当初から、その信憑性に対して疑問が呈されていました。【戦闘詳報】を所有していた【藤沢藤一郎】上等兵は、この様な証言を残しています。(※【藤沢藤一郎】上等兵が、この【戦闘詳報】を書いたわけではありません。本件【戦闘詳報】の記録者は不明です。)



藤沢藤一郎上等兵証言(※第114師団第127旅団歩兵第66連隊隊員)

…第六十六連隊はこのあと中支に転戦して。昭和十四年八月に内地に戻ひ解散になる。解散のとき、藤沢氏は軍曹まで進み、大隊本部に勤務していた。

解散にあたって大隊の記録は宇都宮五十九連隊留守部隊に収めたが、このとき、藤沢軍曹は記念として第一大隊戦闘詳報を貰った。何か記念になるものを、と思ったが、戦闘詳報は同じものか二部か何部かあり、そのうちの一部を貰った。

留守部隊に収めた記録は終戦時に焼却されたから、当時の記録は藤沢氏が持っていたものだけになった。

戦後、サンケイ新聞や栃木新聞が第六十六連隊史を連載したときこれを貸し出した。昔はコピーがなかったのて戦闘詳報の複製か出回ることもなかったが、数年前に貸し出したときからコピーか出回るようになった。

戦闘詳報の原本は昭和六十一年八月の台風十号で畳の上四十センチほどまで浸水して水びたしになったので、日記とともに捨ててしまって今はない。

一時間近くの藤沢氏の話はこのようなものであつたけれど、肝心の虐殺命令については一切ない。そこで改めて質問することにした。

--- 戦闘詳報によると、第三中隊も捕虜をやったとありますが。
「全然知りませんてした。第三中隊は十三日からずっと城内に入っていましたから」

--- 捕虜をやったことを第三中隊の他の人から聞いたことはありませんか。
「ありません」


--- 第三中隊は十三日全員城内に入ったのですか。
「全員かどうかわかりませんが、ほとんど入ったと思います」

--- 戦闘詳報を持っていらっしやいましたか、捕虜処刑のところを読んでどう思いましたか。
「戦闘処刑は全部読んだわけてはなく、自分の戦ったところだけを見たものでしたから。そのところを読んでどう思ったかについては特別記憶はありません」

--- 戦闘詳報がまるっきり嘘を書くことはないと思いますか。
「そうです。戦闘については中隊から来た戦闘詳報をもとに書きます。嘘を書くということはありません。ただし鹵獲兵器などは数字が来ますけど、もともと正確に数えていませんから、九十とあったら百と書くとかそういうことはあります。しかし、捕虜のことはよくわかりません」

--- 投降してきた中国兵がいたといいますが。
「さあ、私らか城壁の前で中国兵と向かい合っていたときはそういうことはありませんでした」

--- 西沢中隊長からは何か聞いたことはありませんか。
「西沢さんは本を書いていますが、そういうことは載っておりません。中隊会などでも虐殺したなどということは聞いたこともありません。お役に立てずにすみません」

以上が質問とそれに対する藤沢氏の答えであった。

(※『月刊「丸」 1990年7月号 兵士たちの「南京事件」 城壘第19回 阿羅健一著』から抜粋)



同様の証言は、【小宅伊三郎】曹長からも確認する事ができます。



小宅伊三郎曹長証言(※第114師団第127旅団歩兵第66連隊第1大隊第4中隊第1小隊長代理)

…多くの兵士は一局面の証言であったが、最後になって比較的大局的に見ることができる人に会えた。第四中隊で第一小隊長代理をやっていた小宅伊三郎曹長である。

小宅氏は、南京攻略戦の後、昭和十四年ごろのことであるが、南京軍官学校の教官を勤め、そのため第一大隊の行った作戦や南京のようすについてはこれまでの兵士と比べにならないほど詳しい。

小宅曹長が証言することによって、この前後のようすがだいぶはっきりしてきたが、その話は次のようなものであった。

「十二月十二日、第四中隊の戦力は半減していたが、第一線で戦っていた第三中隊の右側に進むように命令を受けて、私は第一小隊、第三小隊、指揮班の計六、七十人を指揮して第三大隊の掩護に向かった。ですから、当時の第四中隊は私が指揮していたことになります。

もちろん第一線の戦場ですから、我々の中隊長がどこにいるのか、他の小隊がどこにいるのか分かりませんでした。…

一刈(大隊長)さんは負傷していましたが、片足になっても南京に突入するという頑固な人で、担架かなんかで運ばれてついてきました。大隊長に捕虜の件について言ったような気がしますが、大隊長からどういう答があったのか記憶にないのです。私は引き続き城内掃射もしなくてはなりませんし、忙しかっためでその間も飛び回っていたと思います。

ただし、満州事変にも参加しており、常に軍紀には厳しく言っていました。捕虜を殺すように命令したなどということはありません。

戦闘詳報について言えば、第四中隊の戦闘詳報は私が書いていました。もちろん捕虜処刑などありませんから、そんなことは書いていません。

大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかったと思います。

戦闘詳報は文字どおりこの戦闘に関するすべての事実を詳報するもので、副官または書記が作製し、大隊長の決裁を経て連隊に報告するもので、責任者は大隊長ということになります。…」

(※『月刊「丸」 1990年7月号 兵士たちの「南京事件」 城壘第19回 阿羅健一著』から抜粋)



以上を踏まえると、上記の【歩兵第66連隊第1大隊】のものと推定された【戦闘詳報】は、その記載内容の取り扱いに十分な注意が必要の様です。しかしながら、信憑性に疑問が呈されているとは言え、発見された史料である以上は、記載内容の検証をする必要があると考えます。本項では、記載内容の検証を行いたいと思います。


では、記載内容を検証してみます。

まず最初に、この【戦闘詳報】の形式を見てみます。



歩兵66連隊戦闘詳報


確認してみると、連隊からの命令には【歩六六作命甲第○○○号(※上資料では「八十四」)】の採番があり、発令者と思われる歩兵第66連隊隊長【山田常太】中佐の名前が記載されています。

この命令に対して【下達法】が記載され、連隊から大隊へ命令を下達、最後に命令受領の責任者である第1大隊隊長代理【渋谷仁太】大尉の名前が記載されています。

上記の形式を踏まえ、【旅団命令により捕虜は全部殺すべし】の記載部分を含めて、この【戦闘詳報】内に記載されている一連の命令を以下に抜粋してみました。(※尚、【十二.歩六六作命甲第八十六号】については命令受領者が不明です。)



一.午前一時三十分左記連隊命令を受く 歩六六作命甲第八十四号 歩兵六十六連隊命令

  十二月十三日午前零時二十分 於南京南門東南高地…
  連隊長 山田中佐
  下達法 命令受領者を集め口達筆記せしむ

二.右連隊命令に基き左の大隊命令を下達す

  大隊命令 十二月十三日午前一時四十分 於南京東南高地大隊本部…
  第一大隊隊長代理 渋谷大尉

三.午前四時三十分左記連隊命令を受く 歩六六作命甲第八十五号 歩兵第六十六連隊命令

  十二月十三日午前三時十分 於南京南門東南方高地連隊本部…
  連隊長 山田中佐
  下達法 命令受領者を集め口達筆記せしむ

四.右連隊命令に基き午前五時左記大隊命令を下達す

  大隊命令 十二月十三日午前五時〇分 於南京東南高地大隊本部…
  第一大隊隊長代理 渋谷大尉



八.午後二時零分連隊長より左の命令を受く

  左記
  イ.旅団命令により捕虜は全部殺すべし 其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何



十.午後十時〇分左記連隊命令を受く 歩六六作命甲第八十六号 歩兵第六十六連隊命令

  十二月十三日午後九時零分 於南京南門北方千五百連隊本部…
  連隊長 山田中佐
  下達法 命令受領者を集め口達筆記せしむ…

十二.午後十一時左記の連隊命令を受く 歩六六作命甲第八十七号 歩兵第六十六連隊命令

  十二月十三日午後十一時〇分 南京南門北方千五百連隊本部…
  連隊長 山田中佐
  下達法 先づ要旨を各別に下達し次で命令受領者を集め口達筆記せしむ

十三.午後十一時四十分左の連隊命令を下達せり

  大隊命令 十二月十三日午後十一時四十分 於南京南門北方千五百大隊本部…
  第一大隊隊長代理 渋谷大尉

(※『歩兵六六連隊戦闘詳報』から抜粋)



【歩六六作命甲第○○○号】の採番に注意して、【旅団命令により捕虜は全部殺すべし】の前後を確認すると、この様になっている事がわかります。

【三.歩六六作命甲第八十五号

【八.旅団命令により捕虜は全部殺すべし】

【十.歩六六作命甲第八十六号

即ち、【旅団命令により捕虜は全部殺すべし】は、【第八十五号】【第八十六号】の間で出されているので、【歩六六作命甲第○○○号】の採番の余地がありません。という事は、



【旅団命令により捕虜は全部殺すべし】【正式な軍命として発令されたものでは無かった】


と考えられるのです。事実、【旅団命令により捕虜は全部殺すべし】の部分は、【連隊長より左の命令を受く】と記載されてはいますが、発令責任者である歩兵第66連隊隊長【山田常太】中佐の名前も、命令受領責任者である第1大隊隊長代理【渋谷仁太】大尉の名前もありません。


更に記載内容を検証してみます。

肯定派は、下記部分のみを拠り所にして、【捕らえられた支那敗残兵は全員殺害された】と解釈していますが、果たして、その解釈は正しいのでしょうか。



八.午後二時零分連隊長より左の命令を受く

  左記
  イ.旅団命令により捕虜は全部殺すべし 其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何

(※『歩兵六六連隊戦闘詳報』から抜粋)



この【戦闘詳報】には、【旅団命令により捕虜は全部殺すべし】により実行されたと思われる支那敗残兵処断の様子が記載されています。以下に、該当箇所を抜粋してみました。



八.午後二時零分連隊長より左の命令を受く

  左記
  イ.旅団命令により捕虜は全部殺すべし 其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何

  …

九.右命令に基き兵器は第一第四中隊に命じ整理集積せしめ監視兵を附す

  午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果
  各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れ出し
  第一中隊は露営地南方谷地
  第三中隊は露営地西南方凹地
  第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せしむることとせり

  但し監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し連れ出す際絶対に感知されざる如く注意す
  各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り連隊に報告す

  …

(※『歩兵六六連隊戦闘詳報』から抜粋)



歩兵66連隊戦闘詳報


上記には、【第1中隊、第3中隊、第4中隊】の各中隊に【50人ずつ】の支那敗残兵を割り当て、各中隊は、それぞれの場所おいて、【午後5時〜午後7時半(※約2時間半)】にかけて処断を行った事が記載されています。つまり、上記記載を確認する限り、三中隊により処断された支那敗残兵の合計は【約150人】です。

ちなみに、この時点では、捕らえられた支那敗残兵の総数は【約1,800人】であった事が確認できます。



【歩六六連隊第一大隊】により捕らえられた支那敗残兵の総数は【約1,800人】


歩六六連隊戦闘詳報(※1937年12月12日記載)

…第三中隊方面は大なる抵抗を受くることなく予定の通り進捗せり。午後七時頃手榴弾の爆音も断続的となり概ね掃蕩を終り、

我が損害極めて軽微なるに反し敵七〇〇名を殪し捕虜一,五〇〇余名及多数の兵器弾薬を鹵獲し該方面に遁入南門城扉を鎖され退路を失ひし敵を城壁南側「クリーク」の線に圧迫し殆ど殲滅し其策動を封するを得たり。

最初の捕虜を得たる際隊長は其の三名を伝令として抵抗断念して投降せば助命する旨を含めて派遣するに其の効果絶大にして其の結果我が軍の犠牲を尠なからしめたるものなり。

捕虜は鉄道線路上に集結せしめ服装検査をなし負傷者は労はり又日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ更に伝令を派して残敵の投稿を勧告せしめたり。一般に観念し監視兵の言を厳守せり。



歩六六連隊戦闘詳報(※1937年12月13日記載)

五.午前七時〇分予定の如く行動を起し機関銃を斉射して連隊主力の城門進入を援護すると同時に当面の掃蕩を開始す。

午前七時四十分頃日の出を見るや全軍一斉に立ち上り万歳を唱へ遥かに皇居を遥拝し感激にひたる。掃蕩愈々進捗するに伴ひ投降するもの続出し午前九時頃迄に三百余名を得。友軍砲弾は盛に城内に命中するを見る。



となりますと、この捕らえられた支那敗残兵【約1,800人】全員を処断するなら、三中隊の一度の処断数が合計【約150人】ですので、合計【12回(=総数1800人÷約150人)】の処断を実行する必要があります。即ち、

@【収容所からの連れ出し(※三中隊合計約150人)】

A【処断現場までの連行(※露営地南方谷地、露営地西南方凹地、露営地東南谷地附近)】

B【捕虜の処断】

C【再び収容所まで引き返す】

上記【@〜C】の一連の流れを、【約2時間半(※午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り)】で、合計【12回】実施する必要があるのです。一回の処断に掛かかった時間は【12分30秒】との計算になります。これは、【実行不可能】ではないでしょうか。

更に、【附表】を見ると、この様な記載がありました。



歩兵66連隊戦闘詳報


【約1,800人】の支那敗残兵全員を処断したのであれば、【俘虜計1,657人(※将校18人、准士官他1,639人)】と報告しているのは不自然です。この【俘虜計1,657人】が処断されたとは何処にも記載されていません。

また、【約1,800人】の支那敗残兵全員を処断したのであれば、上表【備考】に書かれている戦場に於ける敵の遺棄死体数【約1,400人】とも一致しません。

しかしながら、【処断された支那敗残兵は約150人だけだった】と解釈すると、処断された人数は【約150人】、そして上表にある俘虜が【1,657人】、この合計は【約1,800人】となり、下記史料から確認される【歩兵第66連隊第1大隊】により捕らえられた支那敗残兵総数【約1,800人】とピタリと一致するのです。



【歩六六連隊第一大隊】により捕らえられた支那敗残兵の総数は【約1,800人】


歩六六連隊戦闘詳報(※1937年12月12日記載)

…第三中隊方面は大なる抵抗を受くることなく予定の通り進捗せり。午後七時頃手榴弾の爆音も断続的となり概ね掃蕩を終り、

我が損害極めて軽微なるに反し敵七〇〇名を殪し捕虜一,五〇〇余名及多数の兵器弾薬を鹵獲し該方面に遁入南門城扉を鎖され退路を失ひし敵を城壁南側「クリーク」の線に圧迫し殆ど殲滅し其策動を封するを得たり。

最初の捕虜を得たる際隊長は其の三名を伝令として抵抗断念して投降せば助命する旨を含めて派遣するに其の効果絶大にして其の結果我が軍の犠牲を尠なからしめたるものなり。

捕虜は鉄道線路上に集結せしめ服装検査をなし負傷者は労はり又日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ更に伝令を派して残敵の投稿を勧告せしめたり。一般に観念し監視兵の言を厳守せり。



歩六六連隊戦闘詳報(※1937年12月13日記載)

五.午前七時〇分予定の如く行動を起し機関銃を斉射して連隊主力の城門進入を援護すると同時に当面の掃蕩を開始す。

午前七時四十分頃日の出を見るや全軍一斉に立ち上り万歳を唱へ遥かに皇居を遥拝し感激にひたる。掃蕩愈々進捗するに伴ひ投降するもの続出し午前九時頃迄に三百余名を得。友軍砲弾は盛に城内に命中するを見る。



即ち、下記解釈が一番矛盾が無いのです。



----- 歩六六連隊第一大隊により捕らえられた支那敗残兵総数1,800人の類別 -----

 捕えられた後処断された支那敗残兵総数  約150人(※三中隊でそれぞれ50人宛処断)
 捕えられて俘虜とされた支那敗残兵総数  1,657人(※将校18人+准士官他1,637人)
 合計  約1,800人

(※【戦場に於ける遺棄死体:約1,400人】には、戦闘による殺害も含まれていますので、上記の【処断された支那敗残兵:約150人】と一致する必要はありません。)



八.午後二時零分連隊長より左の命令を受く

  左記
  イ.旅団命令により捕虜は全部殺すべし 其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何

  …

九.右命令に基き兵器は第一第四中隊に命じ整理集積せしめ監視兵を附す

  午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果
  各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れ出し
  第一中隊は露営地南方谷地
  第三中隊は露営地西南方凹地
  第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せしむることとせり

  但し監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し連れ出す際絶対に感知されざる如く注意す
  各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り連隊に報告す

  …

(※『歩兵六六連隊戦闘詳報』から抜粋)



歩兵66連隊戦闘詳報


本件については、書籍・文献等を見る限り、【旅団命令により捕虜は全部殺すべし】の記載より、捕らえられた支那敗残兵は【全員殺害された】と解釈しているものがほとんどの様です。しかしながら、本HPでは、上記の検証結果を踏まえて、いわゆる『南京事件』の研究者達の中で固定観念となってしまっている【全員殺害された】とした解釈に疑問を呈したいと思います。


では、何故【約150人】は処断されたのでしょうか。

この【戦闘詳報】には、処断の理由は一切書かれていません。また、いわゆる『幕府山事件』と違って、検証するための兵士達の日記等が無く、有力な証言もほとんどありません。僅かに確認できる関連資料が下記になりますが、信憑性の判断は事実上不可能です。

(※特に、下記【手塚清】氏の著書は、館野軍医中尉から聞いた話の様で、いわゆる【伝聞証拠】です。故に、信憑性はほとんど無いと見ています。【戦闘詳報】によれば、【第四中隊】も捕虜処断に加わっていたのに、【第四中隊長】である【手塚清】氏自身が知らなかったというのは不自然です。)



捕虜の刺殺について 歩兵第六十六連隊第一大隊関係者の手記と証言

第三中隊長・西沢弁吉氏著『われらの大陸戦記』によると、「雨花台の敗残兵約三千が城内に遁走するのを阻止する戦果をあげた」と記しているが、捕虜の処分には触れていない。

第四中隊長・手塚清氏著『聖戦の思い出』には、大要次のように記して、捕虜処分の事実を認めている。「十五日午後、館野軍医中尉が、入院中の一刈第一大隊隊長を迎えに来た。その話によれば、第四中隊は南門城外で逃げ遅れた敵兵千二百四十名を武装解除して捕虜としたが、捕虜に給する食料がないので、これらを第一、第三中隊その他に分配、各隊は適宜処置したとのことである。

この捕虜の刺殺について直接西沢、手塚両氏に質問したものの手記の範囲を出なかったが、第四中隊第四分隊・高松半市氏は次のように述べた。「数は、それほど多くなく、その半数以下であったと思う。私の中隊だけでは処分しきれないので、他の中隊に手伝ってもらった。私の中隊で処分したのは百名ぐらいと思う。当時中隊で満足に行動できる兵は、七、八十名で、捕虜監視に多くの兵力を割くことは不可能であった。

(※偕行社『南京戦史』から引用)



八.午後二時零分連隊長より左の命令を受く

  左記
  イ.旅団命令により捕虜は全部殺すべし 其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何

  …

九.右命令に基き兵器は第一第四中隊に命じ整理集積せしめ監視兵を附す

  午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果
  各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れ出し
  第一中隊は露営地南方谷地
  第三中隊は露営地西南方凹地
  第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せしむることとせり

  但し監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し連れ出す際絶対に感知されざる如く注意す
  各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り連隊に報告す

  …

(※『歩兵六六連隊戦闘詳報』から抜粋)



歩兵66連隊戦闘詳報


郷土部隊奮戦記によれば、【捕虜のなかにホネのあるものがいて、一部の兵隊を扇動して暴動を起こした】とあります。処断された支那敗残兵【約150人】が、この時暴動を起こした支那敗残兵であったのなら、やむを得ない処置だったのではないでしょうか。



【捕らえた支那兵捕虜】のなかにはホネのあるものがいて【一部の兵隊を扇動して暴動を起こした】


郷土部隊奮戦記 日華事変 南京総攻撃(※サンケイ新聞栃木版掲載)

…第一大隊は困った。兵器は焼却できるが、千五百余人の捕虜をどうするか---。

渋谷大隊長代理は山田連隊長に、連隊長は秋山旅団長、旅団長は末松師団長に報告、指示を仰いだが、回答は翌日に持ち越された。第一大隊は、捕虜をクボ地に集めて第四中隊が警戒に当たり、ほかの中隊は、城外の残敵掃討をつづけた。

このときのことを高野保太郎さん(鹿沼市上石川)はこう語っている。「百二十人たらずの第四中隊で警戒に当たった。捕虜のなかにホネのあるものがいて、一部の兵隊を扇動して暴動を起こしたが、機関銃の空砲でおどしたら間もなく静まった。無装備というものの、千五百余の敵を一個中隊で監視するのはひと苦労だった



確かな情報が無くて判断が非常に難しいのですが、上記郷土部隊奮戦記・証言等を確認する限り、多数の支那敗残兵を捕らえた【歩兵第66連隊第1大隊】の置かれた状況は、いわゆる『幕府山事件』における【山田支隊】の状況とよく似ている様に思えます。(※【第53項】参照)

下記に、【歩兵第66連隊第1大隊】の状況をまとめてみます。

@:捕らえた支那敗残兵が多数で管理が困難な状況に陥っていた。
A:捕らえた支那敗残兵の一部が暴動を起こした。
B:捕らえた支那敗残兵に給する食糧が無かった。

以上を踏まえれば、【歩兵第66連隊第1大隊】【山田支隊】と同じ様に、【自軍の安全面】において憂慮すべき事態になっていたと思われます。

本HPでは、処断された支那敗残兵は【約150人】であったと結論付けていますが、仮に、捕らえられた支那敗残兵は【全員殺害された】が真実であったとしても、上記の【歩兵第66連隊第1大隊】が置かれた状況を検討してみれば、【軍事的必要】があったと認められるのではないでしょうか。

【法的考察(※国際法)】をするのであれば、【事毎に周囲の事情】を十分に考察する必要があります。しかしながら、本件を【違法認定】している歴史学者達の文献等を見てみると、【歩兵第66連隊第1大隊の事情】を全く考察していないものばかりです。

【国際補学者佐藤教授】によれば、本件処断も【国際法違反ではない】と述べられています。故に、歴史学者達は、本件処断に対して素人判断で軽々しく【違法認定】するのは止めるべきではないでしょうか。



【軍事的必要】があったのか否かの判定は【事毎に周囲の事情】を考慮して判定するべき


『戦時国際法講義 第二巻』
信夫淳平博士(※国際法学者)


更に俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの己むを得ざる場合あることも肯定すべきである。

之を適切に説明したものはハレックの左の一節であろう。日く、
『俘虜を殺害することの風習は今日文明国聞に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。…

自己安全は勝者の第一の法則で、 この目的のために必要の手段を執ることは交戦法則の認むる所である。

ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。 随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判定すベく、軽々しくその当否を断ずべきではない。



『南京事件と戦時国際法』
佐藤和男教授(※国際法学者)


五、結論的所見
…その二は、戦闘中に集団で捕えられた敵兵の処断である。同じように戦闘中に捕えられながらも釈放された支那兵が多数いたことを見れば(前出『南京戦史』第五表を参照)、日本軍の側に捕えた敵兵を組織的に絶滅させる計画的な意図が無かったことは明白である。

具体的な熾烈な戦闘状況を調べてみると(本稿では詳述する余地がない)、日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。



南京問題小委員会の総括 [ http://www.toidatoru.com/pdf/nankin.pdf ]

二〇〇七年三月の「南京問題小委員会」に講師として参加された青山学院大学名誉教授で国際法が専門の佐藤和男博士は、『偕行南京戦史』に記載されている捕虜の処断を検証した。

@ 第九師団歩兵連隊による安全区掃討作戦において摘出した便衣兵六六七〇名の処断。
A 第十六師団歩兵第三三連隊の太平門、下関、獅子山付近で捉えた捕虜三〇九六人の処断。
B 第十六師団歩兵第三〇旅団が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千人の処断。
C 第百十四師団歩兵第六六連隊第一大隊が雨花門外で捕らえた捕虜一六五七人の処断。
D 山田支隊が幕府山付近で捕らえた捕虜数千人の処断。

以上、右列記した事例について佐藤博士は、いずれも戦時国際法違反でないと断定し、現在、南京問題研究者が素人判断で捕虜の処断を「虐殺」とする研究に対して苦言を呈していた。

佐藤博士が問題ないと断定した右@〜Dの事例は、中国側も当時、戦時国際法違反があったと国際連盟に提訴していない。






--【第54項】 『歩兵六六連隊戦闘詳報』と『南京事件』--

【第53項】へ   トップページに戻る   【第55項】へ