-- ◆【第04章】 いわゆる『南京事件』と支那敗残兵処断◆ --

--【第56項】 『百人斬り』報道と向井少尉が信じて欲しかった事--

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【百人斬り】……一度ぐらいは聞いた事があるのではないでしょうか。上海派遣軍第16師団(※師団長中島今朝吾中将)歩兵第19旅団歩兵第9連隊第3大隊砲兵小隊長【向井敏明少尉】と、同じく上海派遣軍第16師団歩兵第19旅団歩兵第9連隊第3大隊副官【野田毅少尉】が、南京攻略戦の途上、日本刀によって敵兵を斬り倒す戦果を競い、【百人斬り競争】として、当時の東京日日新聞(※現・毎日新聞)により報じられました。テレビも無かった時代で、人々の関心は、新聞記事やラジオ放送に向けられており、その中で、支那事変の最中という事もあって、戦意を煽る様な新聞記事には、多くの人々が釘付けになっていました。

その『百人斬り競争』の関連記事は、合計4回に渡って掲載されていました。その記事が、下記になります。下記記事の中で、【向井敏明少尉】について書かれている部分に注目して下さい。



東京日日新聞 昭和12年11月30日

《百人斬り競争!両少尉、早くも八十人》
(常州にて二十九日浅海、光本、安田特派員発)常熱、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速は、これと同一の距離の無錫、常州をたつた三日間で突破した。まさに神速、快進撃、その第一線に断つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は二十五人斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)-山口県出身-、一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)-鹿児島県肝属郡田代村出身-。銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

「無錫進発後向井少尉は鉄道線路二十六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿って前進することになり、一旦二人は別れ、出発翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた」その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、二十九日常州駅で六名、合計二十五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近四名斬り、記者が駅に行った時この二人が駅頭で会見している光景にぶつかった。

向井少尉「この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらい斬ることになるだろう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六人斬つて刃こぼれがたった一つしかないぞ。」

野田少尉「僕等は二人とも逃げるのは斬らないことにしています。僕は○官をやつているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ。」



東京日日新聞 昭和12年12月4日

《急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過》
(丹陽にて三日浅海、光本特派員発)既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入場までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。 常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。

今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。



東京日日新聞 昭和12年12月7日

《八九−七八/"百人斬り"大接戦/勇壮!向井、野田両少尉》
(丹陽にて【三日】 句容にて【五日】 浅海、光本本社特派員発)南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。



東京日日新聞 昭和12年12月13日

《百人斬り"超記録" 向井一〇六 − 一〇五野田/両少尉さらに延長戦》
(紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発)南京入りまで“百人斬り競争”といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。

野田「おいおれは百五だが貴様は?」
向井「おれは百六だ!」

……両少尉は“アハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。

十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が『百人斬ドロンゲーム』の顛末を語つてのち、「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ、十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を『えいまゝよ』と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさ、これもこの孫六のおかげだ」と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。(写真説明)“百人斬り競争”の両将校/(右)野田巌少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。



要するに、【白兵戦】をやったという事です。第16師団が紫金山等を攻略した際、両少尉は、日本刀を使った白兵突撃を行って支那兵を斬り伏せたという記事ですが、【違和感】が拭えません。野田少尉の方はともかく、向井少尉の所属は、

第16師団歩兵第19旅団歩兵第9連隊第3大隊【砲兵】小隊長です。

最前線というより、むしろ少し後方から味方を支援する部隊の小隊長です。日本刀を使う機会が皆無だったのかはわかりませんが、少なくとも、【野田少尉と百人斬りを競うに相応しい部隊にいたわけではない】のです。

また、本HPでは、繰り返し説明しているのですが、いわゆる『南京事件』は、日本軍が南京城に入城した【1937年12月13日(※昭和12年12月13日)】以降の出来事を指していますので、上記記事は、いわゆる『南京事件』の範疇外なのですが、いい加減な歴史認識を平然と晒している肯定派のHPは、上記記事が、いわゆる『南京事件』の象徴の一つとして扱われていて、失笑させられてしまいます。



いわゆる『南京事件』とは日本軍が南京城に入城した【1937年12月13日】以降の出来事


外務省 歴史問題Q&A [ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/ ]

問6.「南京事件」に対して、日本政府はどのように考えていますか。

1.日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。

2.先の大戦における行いに対する、痛切な反省と共に、心からのお詫びの気持ちは、戦後の歴代内閣が、一貫して持ち続けてきたものです。そうした気持ちが、戦後50年に当たり、村山談話で表明され、さらに、戦後60年を機に出された小泉談話においても、そのお詫びの気持ちは、引き継がれてきました。

3.こうした歴代内閣が表明した気持ちを、揺るぎないものとして、引き継いでいきます。そのことを、2015年8月14日の内閣総理大臣談話の中で明確にしました。



第五章 日本の中国に対する侵略

南京攻撃
松井が上海派遣軍の司令官に任命され。戦地に向って東京を出発したときに、予定の上海を攻略した後には、南京に向って兵を進める考えをかれはすでに抱いていた。東京を去る前に、上海派遣軍のために、かれは五箇師団を要請した。中国の首都に対する進攻のために、現実の準備がなされた。というのは、かれはこれより前に上海と南京との付近の地形の調査を行っていたからである。

一九三七年十月八日に、松井は声明を発して、『降魔の利剣は今や鞘を離れてその神威を発揮せんとしている。また軍の使命は日本の居留民及び権益を保護する任務を完全に果し、南京政府及び暴戻支那を膺懲するにある』と述べた。上海の周辺の戦闘地域は拡大するものと思われたので、松井は中支那方面軍司令官に任命された。

一九三七年十一月下旬に、武藤章は松井の参謀副長に任命された。上海が攻略されてから約一ヵ月を経て、日本軍は南京郊外に到着した。松井は、南京は支那の首都であるから、その占領は国際的事件であり、日本の武威を発揚して中国を畏服させるように、周到な研究をしなければならないという意味の命令を発した。日本側の降服要求は、中国政府によって無視された。

爆撃が始まり、同市は一九三七年十二月十三日に陥落した。南京に入城した日本軍は、新編成の部隊ではあったが、経験のある部隊から成り立っていた。一九三七年十二月十七日に、松井は意気揚々と入城した。十二月十三日から後に、『南京暴虐事件』として知られるようになった事件が起った。これは追って取り上げることにする。一九三八年一月一日に、臨時の自治団体が設立され、中国の正式国旗である青天白日旗の代わりに、廃止されていた昔の中国の五色旗を掲げた。

(※【畏服】 ⇒ おそれおののいて従うこと。 --- コトバンクから引用)



いずれにせよ、上記記事を見る限り、何も問題は無いはずなのですが、向井・野田両少尉は、上記記事が【証拠】とされて、戦後に中華民国で開かれた戦犯裁判により死刑に処され、1948年1月28日、南京郊外の雨花台にて執行されてしまいました。判決理由には、上記記事にはない【非戦闘員(※一般住民)及び捕虜の殺害】が追記されていました。


連合軍の戦犯裁判の【いい加減さ】は、後の項に詳しく書きたいと思います。それはともかく、本件は、戦後再びクローズアップされる事になりました。発端は、例の【本多勝一】記者による連載記事【『中国の旅』(※朝日新聞掲載)】です。比較のために、東京日日新聞の記事を再掲します。『中国の旅』の方は、証言を書き起こしたものの様ですが、問題となった下記箇所をご覧下さい。



朝日新聞 昭和年46月11月5日 連載『中国の旅』 本多勝一

《競う二人の少尉》
「これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが」と姜さん(注・南京在住の中国人)はいって、二人の日本兵がやった次のような「殺人競争」を紹介した。

AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう。……二人はゲームを開始した。結果はAが八十九人、Bが七十八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山までの約十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人、Bは百五人だった。こんどは二人とも目標に達したが、上官はいった―「どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城までの八キロで、こんどは百五十人が目標だ」……

この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が高いと、姜さんはみている。



東京日日新聞 昭和12年12月13日

《百人斬り"超記録" 向井106-105野田 両少尉さらに延長戦》
(紫金山麓にて12日浅海、鈴木両特派員発)南京入りまで“百人斬り競争”といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。

野田「おいおれは百五だが貴様は?」
向井「おれは百六だ!」

……両少尉は“アハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。

十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が『百人斬ドロンゲーム』の顛末を語つてのち、「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ、十一日の午前3時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を『えいまゝよ』と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさ、これもこの孫六のおかげだ」と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。(写真説明)“百人斬り競争”の両将校/(右)野田巌少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。



東京日日新聞では【百人斬り競争】と書かれていたのですが、朝日新聞では【殺人競争・殺人ゲーム】となっています。また、東京日日新聞では【敗残兵】を斬ったとなっているのですが、朝日新聞では【中国人】となっており、【一般人】が含まれる文言になっています。要するに、朝日新聞の記事では、いわゆる『南京事件』を象徴する出来事として、より【残虐性】を印象付ける記事になっていたのです。これに加えて、【本多勝一】記者個人の考えとして、【捕虜の据え物斬りだった】と主張したため、ついには両少尉遺族との裁判沙汰になってしまいました。歴史学者秦郁彦教授は、この様にまとめています。



『南京事件 増補版』 秦郁彦著(※歴史学者)

2. 百人斬り裁判
一九三七年十一月から十二月にかけ、南京へ進撃途上にあった歩兵第九連隊の二人の少尉(向井敏明、野田毅)が、百人斬り競争を約束したとする『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)の報道記事を唯一の証拠として、戦後の南京軍事法廷は二人の抗弁を受け入れず、一九四八年一月、銃殺刑に処した。七一年、本多勝一記者は中国旅行中に南京で聞きこんだ百人斬り伝説を『朝日新聞』の連載でむし返し、ひきつづく論争の過程で、それが捕虜の「据え物斬り」だったと主張する。論争はその後もつづくが、その間に百人斬りは南京虐殺の象徴シーンへ昇格、虐殺記念館では軍刀を持つ二少尉の等身大写真が飾られるようになった。二〇〇三年四月、二少尉の遺族が「信憑性に乏しい話をあたかも歴史的事実とする報道、出版が今も続き、名誉を傷つけられた」として毎日、朝日、本多らを提訴した。原告の弁護人が東裁判の被告弁護人と同一であることが示すように、裁判をめぐる構図も似かよっている。しかし、〇五年八月二十三日、東京地裁は「当時の記事内容が一見して、明白に虚偽であるとまで認められない」として、原告の請求を棄却した(〇六年十二月最高裁が棄却)。




東京日日新聞の記事が、『中国の旅』を切っ掛けにして、【上書きされてしまった】と言っても過言では無いと思います。南京大虐殺記念館では、両少尉の等身大写真が飾られるまでになってしまい、既成事実化されています。しかも、なんとも情けない事に、これまた【日本発】です。日本側からの左翼系活動家・団体等の働きかけにより、南京大虐殺記念館に両少尉の展示物が飾られる様になったのは明白です。

【白兵戦】による武勇伝が、【捕虜の据え物斬り】に書き換えられ、朝日新聞等による宣伝もあり、日本国内ですら【歴史的事実】とまで認識される様になってしまいました。では、【捕虜の据え物斬り】については、どこまで正当性が担保されていたのでしょうか。それを、本件裁判【判決文】の中に見てとる事ができます。本件裁判の【被告:本多勝一】及び【被告:朝日新聞】は、この様に述べていました。



二審 東京高等裁判所 判決 平成18年5月24日言渡

《被告本多の主張》
本件各書籍は、原告主張に係る事実を摘示したものではなく、両少尉の「百人斬り競争」について、種々の資料批判の上で、戦闘行為だけで多数の人間を斬ることは不可能であることから、捕虜や非武装者が相当含まれていると考えて論評したものである。



二審 東京高等裁判所 判決 平成18年5月24日言渡

《被告朝日の主張》
本件書籍一は、別表記事番号一の2の2のうち第16刷以降及び別表記事番号一の3の2において、「捕虜を裁判もなしに据えもの斬りにすることなど当時の将校には『ありふれた現象』(鵜野晋太郎氏)にすぎなかった。日本刀を持って中国に行った将兵が、据えもの斬りを一度もしなかった例はむしろ稀であろう。たまたま派手に新聞記事になったことから死刑になった点に関してだけは、両少尉の不運であった。」旨記載し、本件書籍二は、別表記事番号ニの1の1、二の2の1及び二の3の1において、志々目彰が直接聞いたという野田少尉の言葉を引用した上で、「これでは、あの武勇伝も実は『据えもの百人斬り』であり、要するに捕虜虐殺競争の一例にすぎなかったことになる」旨記載しているところ、これらは、本件日日記事、志々目の話、鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」に基づいて、両少尉の「百人斬り競争」について、白兵戦のような状況で自分が傷つかずに百人も斬ることは常識的には無理な話であろうとの趣旨で論評したものであって、「据えもの百人斬りをした」、「捕虜を虐殺した」との事実を摘示したものではない。



【論評】(※コトバンクから引用)
:[名](スル)ある物事の内容・結果などを論じ、批評すること。また、その文章。



【批評】(※コトバンクから引用)
:[名](スル)物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。



要するに、

思った事を書いただけで、事実だと書いたつもりはない。

という事です。何とも呆れる言い逃れです。



【思う】(※コトバンクから引用)
:1. ある物事について考えをもつ。考える。
ア. 判断する。信じる。「これでよいと―・う」「そうは―・わない」「自分の―・ったとおりに行動しなさい」



しかし、個人的に思った事を書いただけだとしても、執筆し、朝日新聞記事や書籍等によって広く知らしめられたわけで、それらの記事一つ一つに【これはあくまでも、本多勝一が思った事です】との断り書きが入っていたわけではありません。個人的な考えであれば、【あの人は大量殺人犯だと思う】と書いていいわけではないでしょう。『中国の旅』は、たった一人の証言を書き起こしたものの様ですが、当然、本件裁判では、他の根拠の提示も要求されていました。その根拠の内、百人斬りが【捕虜の据え物斬り】だったとするものが、どうやら下記の様です。



二審 東京高等裁判所 判決 平成18年5月24日言渡

《被告本多の主張》
(ア)本件日日記事の「百人斬り競争」が存在していたことは,以下のとおり明らかである。

c.望月五三郎は、昭和12年当時、冨山大隊第十一中隊に所属し、南京戦にも参加した人物であるところ、同人の著書である「私の支那事変」には、両少尉による「百人斬り競争」について記述されており、その内容は、具体的で迫真性があり、体験者でなければ到底書き得ないものである。

d.志々目彰は、雑誌「中国」昭和46年12月号に投稿した論稿の中で、同人が小学生のころに聞いた野田少尉の講演内容について記載しており、それによれば、野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言をしていたものである。志々目彰は、野田少尉の話が、軍人を目指していた志々目彰にとってショックであり、それゆえ、明確な記憶として残っていたとするものであって、その内容も具体的で確かなものである。



二審 東京高等裁判所 判決 平成18年5月24日言渡

《被告本多の主張》
(イ)両少尉が行った「百人斬り競争」が戦闘行為の中だけでなく、投降兵、捕虜、農民等に対する殺害でもあったことは、以下のとおり明らかである。

a.望月五三郎の「私の支那事変」によれば、野田少尉が行軍中に見つけた中国国民を殺害し、「その行為は支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた」ことが明記されており、志々目彰の上記論稿によれば、野田少尉は、投降兵や捕虜を「並ばせておいて片つばしから斬」ったことを認めている。



またぞろ奇妙な証言者が現れたわけです。二人ほどいたらしく、一人は第16師団歩兵第19旅団歩兵第9連隊第3大隊第11中隊に所属していた【望月五三郎(※階級不明)】氏で、この人は、『私家版』(※要するに自費出版の様なもの)の中で、回想録として記述していました。もう一人は、【志々目彰】氏で、こちらの方は何と【小学生の時に聞いた話】の様です。

証言のみを偏重するやり方が、どれ程混乱を引き起こすかは、実例を上げれば枚挙に暇がないはずです。ここでは割愛しますが、2ch(※今は「5ch」)に貼られているテンプレを引用させて頂きます。



・東史郎…
一番有名な捏造者。原本が存在しない創作をバラまいた。中国じゃ未だに真実扱い。

・中山重夫…
段列兵の立場で虐殺目撃談を語ったがそもそも現場に居合わせるのは不可能だったことが判明。

・富永博道…
当時は学生だったのに自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。経歴照会であっさり嘘判明。

・舟橋照吉…
東の懺悔屋成功に載せられて日記捏造。輜重兵の自分が1人で敵陣突撃し勇戦するというカッコつけかました仮想戦記な内容であっさり×。

・曾根一夫…
野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官だと経歴と日記を捏造。やっぱり経歴を調べられて嘘と判明。懺悔屋の代表格で、あの秦教授も騙された。

・田所耕三…
強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。後に「普通の話だと記者が興味を示さないから…」と捏造を白状。

・太田壽男…
死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった。

・富沢孝夫…
海軍の暗号兵で、「南京発の松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」と証言(だから逆説的に虐殺があったという主張)。だが陸軍の暗号を海軍の知識しかない彼が解読するのは不可能で、おまけに証言日時には松井司令官は蘇州で入院していた。

・上羽武一郎…
「上官の命令で強姦虐殺放火をした」と証言。しかし彼は「(後方で担架運びの)衛生兵」でしかもそんな命令が出たという史料は一切無し。



肯定派の懲りないやり口には呆れてしまいますが、中身の確認はしたいと思います。【望月五三郎】の回想録には、この様な記述がありました。簡単に言えば、肯定派が涙を流して喜ぶ様な事を書いてくれていたのです。



『私の支那事変』 望月五三郎著 私家版1985年

…常州へと進撃する行軍中の丹陽附近で大休止のとき、私は吉田一等兵と向ひ合って雑談をしていると、突然うーんとうなって腹をおさえながらうずくまった。流弾にあたったのである。「おい吉田」と声をかけたが返事がない、死んでいるのである。即死であった。もう五寸位置がちがっていたら、私にあたっていたのである。私はほんの五寸前で死んでいった吉田一等兵をこの目で見た。葬るにも時間がない。衛生隊にお願ひして、心を残しながら行軍に続いた。このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。

野田少尉は見習士官として第11中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。この人が百人斬りの勇士とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。「おい望月、あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦闘中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。

この残虐行為を何故、英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいながら、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。今戦争の姿生がうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。



この手の証言で、いつも不思議に思うのが、【同じ隊の〇〇氏と一緒に見た】との類の証言はめったにお目にかかれないという事です。上記の回想録では、望月氏は一人で立会ったのか、それとも他に兵士がいたのか、記載が無いのが残念です。仮に、【その場には、同じ隊の〇〇氏がいた】の類の証言であれば、信憑性は飛躍的に増すと思うのですが、野田少尉以外には【望月氏一人だった】のであれば、なんとも都合の良い設定です。

野田少尉は既にこの世を去っており、【死人に口無し】状態です。

それより、注目して欲しいのは、上記記事の冒頭にある【1985年】と、最後の箇所の【マスコミ=東京日日新聞(※現毎日新聞)】に対する批判が書かれている部分です。この批判の一方で、本件記事を書いた【東京日日新聞(※現毎日新聞)】は、『百人斬り』報道について、どの様な見解を持っていたのでしょうか。下記をご覧下さい。皆さん本当に驚くと思います。



『昭和史全記録1926〜1989』 毎日新聞社
平成元年(※1989年)発行

(※『百人斬り』競争について)この記録は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は「南京大虐殺」を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった。



望月氏が回想録を出したのは【1985年】ですが、本件記事を書いた毎日新聞社(※当時は東京日日新聞社)は、【1989年】【記事を取り消す見解を出していた】のです。本来であれば、この時点で、

被告:本多勝一の負けが確定していたはずなのです。

しかしながら、毎日新聞社(※当時は東京日日新聞社)が記事取り消しの見解を出したにもかかわらず、【被告:本多勝一】らは引き下がらなかった様です。この当時は、朝日新聞を中心とした反日極左集団が、猛威を振るっていた時代です。皆さんもよく覚えている元朝日新聞記者【植村隆】によるデタラメな慰安婦報道が為されたのは【1991年】でした。今日の日韓関係の破綻の原因は、この【植村隆】記事が発端になっていると言っても過言ではありません。



記事を訂正、おわびしご説明します。朝日新聞社
慰安婦報道、第三者委報告書

[ http://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014122337.html ]

--- 《「軍関与示す資料」の記事について 「従軍慰安婦」用語メモを訂正》 ---

「従軍慰安婦 1930年代、中国で日本軍兵士による強姦(ごうかん)事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約8割が朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊(ていしんたい)の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」(92年1月11日付朝刊1面)

これは、日韓首脳会談のために当時の宮沢喜一首相が訪韓する前、「慰安所 軍関与示す資料」という見出しの記事と併せて掲載した用語説明メモです。慰安婦については、今も実態がはっきりしない点が多くあります。現在までの研究成果や知見を踏まえると、このメモには誤りや不正確な表現があります。90年代から疑問を指摘されていた点もありました。長期間にわたり読者の誤解を招く表現を放置し、対応を怠ったことをおわびし、訂正します。

誤りは、慰安婦と挺身隊を混同したことです。女子挺身隊とは軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、兵士らの性の相手をさせられた慰安婦とはまったく別のものです。また、慰安婦の数や朝鮮人女性の比率も、現在の知見に照らすと不正確でした。日本人を含めた慰安婦の総数を示す公式記録は見つかっておらず、国内の研究者の推計も変化しています。民族ごとの比率も明確な資料は見つかっていません。現代史家の秦郁彦氏は93年に6万〜9万人とし、99年には2万人前後と修正しました。吉見義明・中央大教授(日本近現代史)は95年に5万〜20万人と推計し、最近は5万人以上としています。日本人や他の民族の慰安婦が全体に占める比率も諸説あり、確定していません。第三者委の報告書はこのメモについて、「あたかも挺身隊として『強制連行』された朝鮮人慰安婦の人数が8万人から20万人であるかのように不正確な説明をしている点は、読者の誤解を招くものであった」と指摘しました。また、「集積された先行記事や関連記事等から抜き出した情報をそのまま利用したものと考えられる」と述べ、「当時は必ずしも慰安婦と挺身隊の区別が明確になされていない状況であったと解されることを考慮しても、まとめ方として正確性を欠く」としています。

朝日新聞は今年8月、慰安婦と挺身隊の混同があった記事について、該当の表現を過去記事を閲覧できるデータベースから削除せず、おことわりをつけて確認できるようにしました。この用語説明メモについては、今後、「慰安婦と挺身隊の混同があり、『主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した』という表現は誤りでした。これまでの知見では、慰安婦の数や朝鮮人女性の比率もはっきりわかっていません」といったおことわりをつけます。

--- 《「元慰安婦、初の証言」の記事について 「女子挺身隊」「連行」の記述訂正》 ---

日中戦争や第2次大戦の際、『女子挺身(ていしん)隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり……」(91年8月11日付朝刊社会面〈大阪本社版〉)

  これは、「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」との見出しで掲載した記事の前文部分です。記事は、韓国人の元慰安婦の一人が初めて、自らの過去を「韓国挺身隊問題対策協議会」に証言したことを、録音テープをもとに伝えました。しかし、同記事の本文はこの女性の話として「だまされて慰安婦にされた」と書いています。この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません。前文の「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」とした部分は誤りとして、おわびして訂正します。

第三者委員会に対し、筆者の植村隆・元記者(56)は「あくまでもだまされた事案との認識であり、単に戦場に連れて行かれたという意味で『連行』という言葉を用いたに過ぎず、強制連行されたと伝えるつもりはなかった」との趣旨の説明をしたといいます。第三者委は報告書で、「だまされた」事例であることをテープ聴取で明確に理解していたにもかかわらず、この前文の表現は「『女子挺身隊』と『連行』という言葉の持つ一般的なイメージから、強制的に連行されたという印象を与える」などと指摘しました。また報告書は、挺身隊と慰安婦の混同について、91年から92年ころにかけて両者の違いが急速に意識されるようになるまでは、「両者を混同した不明確な表現が朝日新聞に限らず多く見られたという実態があった」との見解を示しました。朝日新聞は今年8月の検証記事で、この記事に「意図的な事実のねじ曲げはない」と結論づけました。報告書はそれだけでなく、「読者に正確な事実を伝えるという観点から、前文部分の記載内容も含め、さらに踏み込んで検討すべきであった」としました。この指摘についても、重く受け止めます。

この記事には、過去記事を閲覧できるデータベース上で、挺身隊の混同がみられたことから誤用したことを示すおことわりをつけています。今後、改めて、「この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません」といったおことわりをつけます。



そもそも、証言を照査する事もなく、そのまま垂れ流すやり方で、またまた大きな混乱を引き起こしてしまったのは、下記人物でも記憶に新しい所です。下記の偽物慰安婦【李容洙(イ・ヨンス)】は、日本の共産党系団体に招聘され、何度も日本で講演し、その度に日本に対して謝罪を要求してきましたが、自分が慰安婦ではなかった事に対して、これまで日本国民に嘘を付き続けてきた事を謝罪するつもりは無い様です。偽物慰安婦【李容洙(イ・ヨンス)】については、【証言がコロコロ変わる】ので、当時からその信憑性が疑われていた事は、多くの人達の共通認識となっていました。



しんぶん「赤旗」 2002年6月26日
[ https://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-06-26/13_0201.html ]

《元「慰安婦」へ補償を 参院議長らに法案成立要請》
韓国、台湾の元「従軍慰安婦」らは二十五日、国会内で参院の倉田寛之議長、本岡昭次副議長と会い、「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」の早期審議と成立を要請しました。同法案は、元「慰安婦」とされた人たちに謝罪の意を表し、その名誉回復のために必要な措置(金銭の支給を含む)を講ずると定めています。日本共産党、民主党、社民党の野党三党が前国会に提出し、継続審議になっています。韓国の李容洙さん(74)は、十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけたことなどを話し、「私は歴史の生き証人として今、生きている。この法案が審議され、成立することを望む」と語りました。日本共産党からは吉川春子、八田ひろ子参院議員が同席しました。



しんぶん「赤旗」 2005年8月7日
[ https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-08-07/2005080714_01_2.html ]

《共に生きるアジアを 侵略と未来について討論 東大・駒場》
「戦後60年 共生のアジアを!フォーラム」と題した公開討論会が六日、東京・目黒区の東京大学駒場キャンパスで開かれました。日本のアジア侵略の歴史とアジアの未来について中国や韓国の戦争被害者などが証言し、討論しました。日本共産党の吉川春子参院議員など国会議員、被害者団体、支援・市民団体などの呼びかけた実行委員会(代表・土屋公献元日弁連会長)が主催。

韓国在住の李容洙さんは旧日本軍によって十六歳のときに連行され、従軍慰安婦として軍人による性暴力を受けた体験を生々しく証言しました。七日も午前十時から同じ場所で、映画上映、証言やシンポジウム「共生のアジアへの道」などが行われます。



しんぶん「赤旗」 2007年2月17日
[ https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-02-17/2007021702_02_0.html ]

《元「慰安婦」が初証言 米下院委 日本政府の謝罪求める》
【ワシントン=鎌塚由美】アジア太平洋戦争時に旧日本軍によって性奴隷にされた元「従軍慰安婦」が十五日、米議会公聴会で初めて証言しました。「慰安婦」問題で日本政府に公式な謝罪を求める決議案が今議会に提出されていることに伴う公聴会です。下院外交委員会のアジア・太平洋・地球環境小委員会で証言したのは、元「慰安婦」の韓国人の李容洙さん(79)と金君子さん(81)、オランダ出身でオーストラリア人のジャン・ルフ・オハーンさん(84)。兵士に次々とレイプされた体験を語りました。



しんぶん「赤旗」 2007年3月23日
[ https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-23/2007032307_01_0.html ]

《200年でも生きてたたかう 安倍首相発言に抗議 元「慰安婦」李容洙さん(79) 私こそ歴史の証人です》
ソウルの日本大使館前で二十一日開かれた安倍首相の旧日本軍「慰安婦」問題発言への抗議集会に参加した韓国の元「慰安婦」、李容洙(イ・ヨンス)さん(79)に話を聞きました。李さんは、安部首相の発言を「ここに私がいるのにどうして妄言を繰り返すことができるのか」と糾弾しました。(ソウル=中村圭吾 写真)

…いくら言葉で隠そうとしても、それで隠せるものではありません。河野談話から十年以上もたつのに、日本政府はずっと責任を否定しようとしています。いったい「慰安婦」を誰がつくったのか。強制動員の証拠がないというが、私は十五歳で連れて行かれました。どんなにねつ造をしても、私こそ生きた歴史の証人です。私は、最後まで日本政府に抗議するために、私が変わってしまってはいけないと思い、結婚もしませんでした。年をとったことを除けば、連れて行かれた時のそのままです。ここに私がいるのに、どうして妄言を繰り返すことができるのでしょう。世界中を回って証言してきました。今日もそのために大使館の前に来ました。私が生きた歴史の証人としてここにいます。私たちの後の世代のために、二百年でも生きて、最後まで日本政府とたたかいます。



しんぶん「赤旗」 2012年9月13日
[ https://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-13/2012091315_02_1.html ]

《生あるうちに解決して 日本軍「慰安婦」被害者招き集会 川崎》
日本の侵略戦争で日本軍「慰安婦」として、性暴力の被害を受けた韓国の李容洙(イ・ヨンス)さん(83)が実名で被害を告発してから20年になった今年、李さんを招いての集会が12日、川崎市内で開かれました。主催は、川崎から日本軍「慰安婦」問題の解決を求める市民の会。

李さんは「証言することは私の命と同じ」と話し、日本語で語り始めました。15歳のときに、自宅で寝ていたところを日本軍によって連行されました。帰りたいと言うと「言うことをきかなければ殺す」と脅され、軍靴や棒で顔や体に暴力を受けました。各地を日本軍とともに転々とし、17歳で父母の元に帰るも、「また捕まるのではないかと思うと、顔を上げて歩けない。誰にも話せなかった」といいます。李さんは言います。「日本と韓国は隣の国だもの。若い人たちが仲良く手をつないでいけるようにするのが私の仕事。私が生きているうちに解決をしないと」と、日本政府による心からの謝罪と賠償を求めました。



しんぶん「赤旗」 2018年8月15日
[ https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-08-15/2018081501_04_1.html ]

《韓国初の「慰安婦」被害者の日 彼女たちは勇気の行動 文大統領が式典でたたえる》
…この日は、全国で行動が取り組まれ、被害者が共同生活を送る「ナヌムの家」では、李容洙(イ・ヨンス)さんがあいさつ。「27年間(ソウルにある)日本大使館前で謝罪と賠償を叫んできた。私は91歳だが、200歳まで生きて、絶対にこの問題を解決する」と語りました。



     ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓



韓国「聯合ニュース」 2020年11月12日
[ http://japan.hani.co.kr/arti/politics/38289.html ]

証人として法廷に立ったイ・ヨンスさん「慰安婦ではない…私は朝鮮の女の子でした」

慰安婦ではありません。私は朝鮮の女の子でした。そのような子が大韓民国の老人になって(法廷に)来ました。国対国で解決すると言われてずっと待ちましたし、法を信じて期待していました。なのに、どうして4年経っても何もしてもらえないのですか?」2016年、元日本軍「慰安婦」被害者たちが日本政府を相手に損害賠償を韓国裁判所に請求してから、4年後にようやく最後の裁判を受けることになったイ・ヨンスさんが法廷でこう話した。…



韓国「朝鮮日報」 2020年5月8日
[ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1588992792/1 ]

尹美香「イ・ヨンス氏、『慰安婦被害者は私ではなく友達…』と電話」

共に市民党の尹美香当選者
共に市民党の尹美香当選者が8日、「水曜集会をなくせ」とした日本軍慰安婦被害者イ・ヨンスさんと関連して、 「1992年に申告電話をかけてきた時、私はオフィスで電話を受け、蚊の音ほどの声で震えながら、『私は被害者ではなく、私の友達が…』と話し出した当時の状況を昨日のことのように覚えている」とした。尹氏はこの日、Facebookにこのように書いた後、「ほぼ30年間、共に歩んできた」と綴った…(省略)

[ http://naver.me/IGATZemY ](※朝鮮日報記事)



前述しましたが、もう一人の証言者【志々目彰】氏の方はもっと呆れます。【小学生の時に聞いた話】の様です。一般的な【常識】があれば、根拠とするには不適切で、せいぜい【参考】程度にしかならないと判断するのですが、根拠が薄弱なものしかない肯定派は、こんなあやふやな証言にすら飛び付いているのです。



二審 東京高等裁判所 判決 平成18年5月24日言渡

《被告朝日の主張》
本件書籍一は、別表記事番号一の2の2のうち第16刷以降及び別表記事番号一の3の2において、「捕虜を裁判もなしに据えもの斬りにすることなど当時の将校には『ありふれた現象』(鵜野晋太郎氏)にすぎなかった。日本刀を持って中国に行った将兵が、据えもの斬りを一度もしなかった例はむしろ稀であろう。たまたま派手に新聞記事になったことから死刑になった点に関してだけは、両少尉の不運であった」旨記載し、本件書籍二は、別表記事番号ニの1の1、二の2の1及び二の3の1において、志々目彰が直接聞いたという野田少尉の言葉を引用した上で、「これでは、あの武勇伝も実は『据えもの百人斬り』であり、要するに捕虜虐殺競争の一例にすぎなかったことになる」旨記載しているところ、これらは、本件日日記事、志々目の話、鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」に基づいて、両少尉の「百人斬り競争」について、白兵戦のような状況で自分が傷つかずに百人も斬ることは常識的には無理な話であろうとの趣旨で論評したものであって、「据えもの百人斬りをした」、「捕虜を虐殺した」との事実を摘示したものではない。



二審 東京高等裁判所 判決 平成18年5月24日言渡

《被告朝日の主張》
志々目彰は、雑誌「中国」昭和46年12月号所収「百人斬り競争―日中戦争の追憶―」において、野田少尉が帰国後の昭和14年春ころ、鹿児島県立師範学校付属小学校で行った「百人斬り競争」についての講演を直接聞いたと述べている。



くり返しますが、

望月五三郎・志々目彰証言は全く照査されておりません。右から左に垂れ流されているだけです。


それにしても奇妙な話です。もう一度下記をご覧下さい。



二審 東京高等裁判所 判決 平成18年5月24日言渡

《被告本多の主張》
本件各書籍は、原告主張に係る事実を摘示したものではなく、両少尉の「百人斬り競争」について、種々の資料批判の上で、戦闘行為だけで多数の人間を斬ることは不可能であることから、捕虜や非武装者が相当含まれていると考えて論評したものである。



要するに、下記記事にある様な『百人斬り』の武勇伝は信じられないと述べてるわけです。この点は本HPも同意見で、毎日新聞社(※当時は東京日日新聞社)が、平成元年に記事を取り消す見解を出すまでもなく、下記武勇伝は、【全くの作り話だった】と考えています。繰り返しますが、

向井敏明少尉は、第16師団歩兵第19旅団歩兵第9連隊第3大隊【砲兵】小隊長です。砲兵小隊長が、日本刀片手に一番乗りで突撃したなど、意味がわかりません。



東京日日新聞 昭和12年11月30日

《百人斬り競争!両少尉、早くも八十人》
(常州にて二十九日浅海、光本、安田特派員発)常熱、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速は、これと同一の距離の無錫、常州をたつた三日間で突破した。まさに神速、快進撃、その第一線に断つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は二十五人斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)-山口県出身-、一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)-鹿児島県肝属郡田代村出身-。銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

「無錫進発後向井少尉は鉄道線路二十六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿って前進することになり、一旦二人は別れ、出発翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた」その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、二十九日常州駅で六名、合計二十五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近四名斬り、記者が駅に行った時この二人が駅頭で会見している光景にぶつかった。

向井少尉「この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらい斬ることになるだろう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六人斬つて刃こぼれがたった一つしかないぞ。」

野田少尉「僕等は二人とも逃げるのは斬らないことにしています。僕は○官をやつているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ。」



東京日日新聞 昭和12年12月4日

《急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過》
(丹陽にて三日浅海、光本特派員発)既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入場までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。 常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。

今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。



『昭和史全記録1926〜1989』 毎日新聞社
平成元年(※1989年)発行

(※『百人斬り』競争について)この記録は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は「南京大虐殺」を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった。



であれば、上記記事自体に【信憑性は無い】という事ですから、武勇伝のみならず、【百人斬った】の部分も同様に【信憑性は無い】と判断するのが普通だと思うのですが、【被告:本多勝一】や朝日新聞や肯定派達【左翼脳】の連中は違う様で、

支那人を『百人斬った』の部分だけは【真実】認定しているのです。

(※『百人』という数字そのものを真実認定しているという事ではなく、『百人』と言っても過言ではないぐらいの多数の支那人を斬ったという意味で解釈しているのでしょう。)

その上で、戦闘中の支那兵百人を斬り伏せるのは不可能だから、

捕虜や一般人を据え物斬りにしていたというのが真相だったのだろう。でないと、百人斬るのは不可能だ、と理論を飛躍させているわけです。


二審 東京高等裁判所 判決 平成18年5月24日言渡

《被告本多の主張》
本件各書籍は、原告主張に係る事実を摘示したものではなく、両少尉の「百人斬り競争」について、種々の資料批判の上で、戦闘行為だけで多数の人間を斬ることは不可能であることから、捕虜や非武装者が相当含まれていると考えて論評したものである。



では、【百人斬った】の部分だけは何故信じたのかと言えば、

それは【野田少尉の証言】だと言うのです。


二審 東京高等裁判所 判決 平成18年5月24日言渡

《被告本多の主張》
(ア)本件日日記事の「百人斬り競争」が存在していたことは,以下のとおり明らかである。
b.「百人斬り競争」については、当時、本件日日記事のほか、昭和12年12月1日付け大阪毎日新聞鹿児島版、同月2日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版、同月16日付け鹿児島朝日新聞、同月18日付け鹿児島新聞、昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版、同年3月21日付け鹿児島新聞、同月22日付け鹿児島朝日新聞、同月26日付け鹿児島新聞、昭和14年5月16日付け東京日日新聞にそれぞれ掲載されており、野田少尉が中村碩郎あての手紙の中で「百人斬り競争」を自認し、「百人斬日本刀切味の歌」まで披露していること(昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版)、野田少尉が帰国後に新聞社の取材に対して「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月21日付け鹿児島新聞)、野田少尉の家族も「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞)などの事実からも、両少尉が「百人斬り競争」を事実であると認めていたことが裏付けられる。



もう意味がわかりません。

『百人斬り』の武勇伝が作り話だったとしても、実は、【たまたま三人程の支那兵を斬った】のが真相だったとすると、この三人の支那兵を【百人の支那兵】と面白くおかしく吹聴していただけだったのかもしれないわけで、この場合なら、

捕虜や一般人を据え物斬りにして『百人』に帳尻を合わせる必要は無いはずです。

【被告:本多勝一】は、野田少尉が語った【百人斬りの武勇伝】は信じなかったものの、同じく野田少尉が語った【百人斬り】の部分だけは信じたという、

典型的な【ダブルスタンダード】なのです。

確かに、どの様な証言でも、真実の部分と間違った部分が混在する事はありますが、であれば、【もっと客観的な根拠】によって、証言内容の取捨選択を行うべきでしょう。

野田少尉が言っていた事は信用できないが、野田少尉が言っていたのだから信用できる、では、意味がわかりません。

ちなみに、本件裁判では、最終的に、この様な判断が下されていました。



二審 東京高等裁判所 判決 平成18年5月24日言渡

《当裁判所の判断》
「南京攻略戦当時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、1本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り貌争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。



要するに、『百人斬り』の戦果は作り話だったのだろうが、東京日日新聞記事にあった様な【白兵戦闘】はあったのだろう、即ち、

被告:本多勝一が主張していた様な捕虜の据え物斬り等は事実認定されなかったのです。

【被告:本多勝一】及び朝日新聞側は、【望月五三郎回想録】【志々目彰証言】等を裁判所に提出して抗弁していましたが、裁判所は、

望月五三郎回想録・志々目彰証言を事実を裏付ける証拠とは認めなかったのです。

これは、客観的に見ると、著書等を通じて繰り返し【捕虜の据え物斬りだった】と主張していた【被告:本多勝一】及び朝日新聞の主張は、裁判所に認めてもらえなかったという事であり、実質、

新説『捕虜の据え物斬りだった』を事実として認めてもらえなかった被告:本多勝一の【負け】なのです。


本件『百人斬り』については、どの証言者もその証言内容について【照査】されてはいません。ただ、【証言があるのみ】の状態です。向井少尉や野田少尉が、本当にその様な大活躍をしていたなら、誰か一人ぐらい日記に書いていても良さそうですが、それも存在しません。また、一般住民や捕虜の据え物斬りが『百人』に迫るほどの大量殺人であったのなら、目撃者が【望月五三郎ただ一人】というのも不自然でしょう。

であれば、本件『百人斬り』については、肯定側・否定側双方の証言を重んじ、双方の証言を公平に載せるべきでしょう。ところが、本件については、例えば当事者の一人である【向井敏明少尉】の証言がきちんと掲載されているHPが全くと言っていいほどありません。どのHPも、肯定側のHPばかりで、【望月五三郎ただ一人の証言】が何度も掲載されている始末です。

そこで、本項のメインテーマにいきたいと思います。【向井少尉が信じて欲しかった事】です。向井少尉の言い分も、きちんと掲載しないと公平とは言えないはずです。これについては、名著【「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」岩川隆著(※講談社)】から引用させて頂きたいと思います。少し長いのですが、ここまで読んでくださった皆さんには、是非とも最後まで目を通して頂きたいのです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

南京虐殺事件については戦後、これまでにいろいろと取り沙汰され、その事実や数についてもさまざまな調べや著書が発表されたり、刊行されたりしているが、戦後に東京国際軍事裁判で衝撃的にとり上げられたとき、被告席に座ったA級戦犯たちはほとんど"寝耳に水"といった感じであった。おびただしい数の証人が登場して、世界に日本人の残虐性と残虐行為を喧伝し、冒頭に東京国際軍事裁判の性格と正当性を印象づけたといってもいい。その規模や実態について勝者や中国側が大きく刺激的にとり上げるのは当然の成り行きだが、地元の南京においても同じであった。

「母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。野田君(野田毅少尉)が、新聞記者に言ったことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集って語れば冗談も出るのは当然のことです。私も野田様の方に御詫びして置きました。公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞賛されます。書いてあるものに悪い事はないのですが頭からの曲解です。浅海さん(記者)も悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません

と「遺書」に書いているのは向井敏明少尉(当時三十六歳)である。向井少尉と、そしてこの「遺書」にも出てくる野田少尉の二人は、戦時中に東京日日新聞(現・毎日新聞)に掲載された"百人斬り競争"の記事に眼をつけられ、中国側に逮捕されたのであった。

戦時中に戦線に特派された新聞の記者たちが、戦意昂揚の世相のこともあって、血湧き肉躍るような読みもの記事を送ることはめずらしくなかった。向井少尉と野田少尉についての記事もその類とみていい。「人が集って語れば冗談も出る」「頭からの曲解」と向井少尉が言っているのは、ある新聞記者がやってきたとき、野田少尉が、軽い気持ちだっただろうが、勇ましい戦闘のことをいろいろと話した。当時は中国人を何人やっつけた、などということが武勲であり、"尊敬"を集めるときでもある。その記者が書き送った記事は昭和十二年十一月三十日に最初に活字になって読者の眼にふれた。片桐部隊(当時)の二人の若い将校が、南京に向かう前線で、ばったばったと中国兵を斬り倒し、"百人斬り"の競争をしているというものであった。"銃後"の国民の戦意を煽るにはもってこいの記事である。読者は喜んだに違いない。二人の"競争"についての記事は"続報"がなされ、第四報ではつぎのようになった。少し長くなるけれども、いかにも講談調の記事なので紹介しておこう。

いのち取りになった「百人斬り」記事
「(紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発)南京入りまで『百人斬りの競争』といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田毅両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作って十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に体面した。野田『おいおれは百五だが貴様は?』向井『おれは百六だ!』……両少尉は"アハハハ"結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局『ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや』と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬がはじまった。十一日昼中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が『百人斬りドロンゲーム』の顛末を語ってのち、『知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや。戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ、十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて弾雨の中を『えいままよ』と刀かついで棒立ちになっていたが『一つもあたらずさこれも孫六のおかげだ』と飛来する弾雨の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した」

今読めばむごい内容である。しかしこの記事になって二人の少尉が戦時スターになったことは間違いない。特派記者たちはべつに本人たちが中国兵を斬っているところを目撃したり見たりしたわけではない。野田少尉は大隊の副官であり、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長であって両者ともつねに後方に位置しており、最前線の一兵卒のように中国兵と渡り合う機会も少なかった。しかし記事には二人の職務内容など書いていないから、読者にしてみれば素直に読んで、戦意をかきたてた者も多かったろう。一方はおもしろくオーバーに喋り、一方はこれはいけると脚色して書く。その結果、二人の少尉もなかなかの有名人になる、という構図だったと考えられる。

ところが、この一連の記事が、敗戦となって文字どおり"いのち取り"の記事になってしまうのである。次女の千恵子さんの記述によると、向井少尉は戦後復員してまもなく、昭和二十一年六月下旬、東京・市ヶ谷の東京国際軍事法廷から呼び出しを受ける。山口県から上京し、七月一日に出頭。検察官から訊問を受けたが、検察官はすでに記事を書いた浅海記者をも訊問していたらしく、事実無根と判断したようであった。「新聞記事によって迷惑被害を受ける人はアメリカにも多数ありますよ」と、わざわざ呼び出したことを謝り、握手して別れたという。しかし、中国側は見逃さなかった。それから一年あまり経過した昭和二十二年九月二日、巣鴨プリズンに収容される。野田少尉も八月十日に出頭を命じられ、収容されていた。二人が南京の戦犯拘留所に移送されたのは十月二十一日であった。

訊問、予審の段階から二人は、記事が創作であり、事実ではない、とくり返し主張したが、中国側はその言葉を無視していた。十一月六日に第一回の訊問があり、続いて十一月十五日に第二回の訊問。十二月九日に予審がおこなわれ、十二月十八日にはあっさりと死刑の判決がくだされた。百人斬りの"記事"だけが決め手といってよく、目撃者も証人もいなかった。 最初の訊問の後、向井少尉は答弁書を提出しているが、そこに書かれていることも、もっぱら新聞記事は創作であるという訴えだけである。「浅海記者の新聞記事は『記者自己の職務遂行上の面目』及『名声を得る目的』並びに『新聞社自体の商的立場』等より記載せられたる架空的創作に基づくものなるを以て部隊答弁人の行動事実等には全然関係なく別個に創作を続行し新聞紙上に報道したるものなり」とある。さきの千恵子さんの記述によりと、向井少尉は十二月九日の予審の後にも七項にわたる"申弁書"を提出しており、内容はすべて新聞記事が創作であることの論証にさかれていて、つぎのような言葉もあるという。

軍刀一本が事実に於て斯る多数の人を斬り得る武器なりや否や、新聞記事中に『被告が中国兵を鉄帽と共に切つた』云々とあるも、事実軍刀が鋼鉄製の鉄帽を切断し鉄帽下の中国兵を共に斬り得るや否や、之また常識上より判断するも虚偽なること明瞭なり

まったくそのとおりである。向井少尉は巣鴨プリズンに収容されたときから、面会に来た弟に、記事を書いた浅海一男記者を探し出して、記事が創作であったことを証明してもらうよう頼んだが、待てど暮らせど浅海記者からの"証明書"は届かなかった。弟の努力があって、ようやく手にすることができたのは判決がくだった後であった。それでも、向井は涙した。上訴申弁書を出す道が残されていたからである。しかし、"証明書"を読みくだした向井は落胆した。記者としての"名誉"がそうさせたのだろうか、そこには"創作であった"という表現はどこにもなかった。

「両氏に関し私が昭和十二年十一月ごろ大阪毎日新聞及び東京日日新聞に掲載した記事につき左のごとく証明します。一、同記事に記載されてある事実は右の両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。二、両氏の行為は決して住民、捕虜などに対する残虐行為ではありません。当時といへども残虐行為の記事は日本軍検閲当局をパスすることは出来ませんでした。三、両氏は当時若年ながら人格高潔にして模範的日本軍将校でありました。四、右の事実は去年七月東京に於ける連合軍A級軍事裁判に於て小生よりパーキンソン検事に供述し、当時不問に付されたものであります。右証明します。昭和二十二年十二月十日 毎日新聞記者 浅海一男(※印鑑)」

というもの。提出先は、「中華民国、南京戦犯審判所長殿」となっている。浅海記者としては記者生命を守ろうとしたぎりぎりの表現だったのかもしれない。しかし、この"証明書"で向井少尉の生命を救うことはできなかった。「遺書」の中で、浅海氏を責めることなかれ、と言う裏には万感の思いがこもっていた。

「証明が来ましたが公判には間に合ひませんでした。然し間に合ったところで無効でしたらう。直ちに証明書に基づいて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかったです。厚く御礼を申上げて下さい。浅海氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛かりました。勿論死を覚悟はして居りますものゝ人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となっては未練もありません

と向井少尉が「遺書」の中に記しているのをみても、その気持ちを汲みとることができる。浅海記者の"証明書"の中で、「ずいぶん気になった」というのはたぶん第二の項目のほうだったろう。「両氏の行為は決して住民、捕虜などに対する残虐行為ではない」という文章は、弁護論にちがいないが、二人の少尉に"百人斬り"の行為があったことを前提としているようにも思われる。向井少尉としては心外だったのであろう。この二人の少尉は、昭和二十三年一月二十八日、ともに南京郊外の雨花台において処刑された。戦争・戦闘というものの異常な状況と、"戦争とジャーナリズム(報道)"を考えさせる事件でもある。

「此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚く御礼申上げます。只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶体にお受け出来ません。お断り致します。死を賜りました事に就いては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最期の如何なるものであるかをお見せ致します。(中略)宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します」

と、これは野田少尉が刑場に引かれる直前に記した文章である。"南京大虐殺事件"の真実と事実は今後も徹底して追及されなければならないし、日本軍がおこなった戦争犯罪として象徴的なものだが、真の責任の所在は裁判では曖昧に終わったと言っていいだろう。



愚かな話です。【自業自得】と言われれば、それまででしょう。【身から出た錆】だと言われても、両少尉は全く否定しなかったでしょう。しかしながら、【その様に証言したのだから真実として認めろ】と言われれば、

両少尉は絶対に【お断り】したでしょう。話した内容が真実とは限らない事は、先の従軍慰安婦の証言だけでも十分過ぎるほど証明されています。

上記には、【そこには"創作であった"という表現はどこにもなかった】とありますが、前述している通り、毎日新聞社(※当時は東京日日新聞社)は、平成元年に下記見解を出しています。

【浅海一男記者】が、保身を捨て、決意を持ってその一言を書いていれば、もしかしたらその後の展開が変わっていたのかもしれません。



『昭和史全記録1926〜1989』 毎日新聞社
平成元年(※1989年)発行

(※『百人斬り』競争について)この記録は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は「南京大虐殺」を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった。




改めて本件を振り返ってみると、この問題の本質は、【ジャーナリズムのあり方】にあった様に思われます。即ち、【被告:本多勝一】や朝日新聞の様な連中がいる限り、いつまで経っても【証言が悪用される事例が尽きない】という事です。デタラメな慰安婦記事を書いた元朝日新聞記者【植村隆】もそうでしたが、こういう連中にとっては、

証言とは、真実かどうかは重要ではないのです。その証言に利用価値があるかどうかが重要なのです。

ですから、その証言を照査して、正しい事を確認してから新聞記事等に掲載する様な事はしません。いきなり、

『本当は〇〇だったと証言する人が現れた』と切り出してきます。この手の記事に対しては、私達皆がもっと批判的にならないといけないのです。

名著【「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」岩川隆著(※講談社)】には、本件とも大いに関連する記述があります。二十数年にわたり、当事者の取材を続けてきた著者の、自戒を込めた言葉には、非常に重みを感じました。



『孤島の土となるとも BC級戦犯裁判』
岩川隆著(※ノンフィクション作家)


"被害者"の"談話"をそのまま"事実"として書きたてるのは単なるセンセーショナリズムにすぎない。国によってはその"被害"を政策的に、外交的に利用しようとする場合もあり、"事実"の前には慎重にならなければならないと思う。これは自戒の言葉でもある。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

…戦争体験の全般について言えることだが、端的に言って、時を経るごとに「話は円く」なる。それは人間の生理のようなものだろう。神が人間に生きるために与えた生理といってよいのかもしれない。体験者たちはしだいに年老い、「墓場まで持っていく」はずであったのに、やはりこれだけは言い置いて死にたい、自分がこの世に生きた証明を遺しておきたいという心境になるようだ。体験時の日記やメモを残している場合はべつとして、そのようなときはたいてい"記憶"に頼ることになる。この"記憶"が、私の取材体験からいえば、当人の気づかぬうちにしばしば微妙に変容する。五年後、十年後にあらためて聞くと、細部や全体が以前と違っていることに驚かされる場合も多い。「以前にお話しになった事実はこうでした」と反問すると、「いやそれは記憶違いだろう。いま語るほうが真実だ」と確信をこめて言う。どれだけ戸惑ったことか。「いやなことは年とともに忘れる」という言葉があるが、戦争体験の場合は、「いやなことを実際より以上に強調する。ときにはそれらしく創り出す」ということも往々にしてある。"被害者"の感覚で語られる事実はとりわけその傾向が強い。

"事実"や"証言"というのは難しい。近ごろは終戦記念日が近づくたびにマスコミに戦争体験談がいっせいに登場するけれども、二十数年前から直接に聞きつづけてきた私などは、いかにもそれらしい、いかにもいまの時代に生きる読者に感銘を与えそうな"体験談"が多いことに不安をおぼえ、ときには不快感をもよおすときがある。

…BC級戦犯裁判や戦争犯罪についても同じである。"事実"は時を選ばず、さまざまな立場の証言や資料を積み重ねて、たゆまず追及されなければならないと思う。たとえば、『世紀の遺書』の中に収録された胸うつような遺書に触発されて調べてみると、遺書の内容とはうらはらに、真相は当人が"俘虜生体解剖"の張本人だったこともある。悲しいことではあるけれども、客観的な事実を追求するためには遺書さえも信用できない。それも一つの立場の証言にしかすぎないのである。

…戦争犯罪についても同様だろう。"被害者"が"事実"を過大に証言し、"加害者"がその行為を正当化し過小にみるというのは当然の心理であり、態度である。これも両者の証言や記録の重ね合わせや照合が大切なことは自明の理なのだが、日本の戦後のマスコミ・報道は往々にして、"被害者"側の証言を鬼の首でも取ったのように"事実"として大きく騒ぎ立てる。あれは自虐趣味とでもいうのだろうか。日本人あるいは日本軍が戦争中におこなった暴虐な戦争犯罪の事実の一つひとつはむろん、徹底的に追及されなければならない。そのことが戦争体験を無駄にしないことであり、私たち日本人の将来のためでもあると思う。しかし"被害者"の"談話"をそのまま"事実"として書きたてるのは単なるセンセーショナリズムにすぎない。国によってはその"被害"を政策的に、外交的に利用しようとする場合もあり、"事実"の前には慎重にならなければならないと思う。これは自戒の言葉でもある。



まさに、本件騒動の【急所】を突いた言葉だと思いました。

被告:本多勝一や朝日新聞社は、「あなた達はジャーナリストではなくセンセーショナリストだ」と指摘されれば、顔を真っ赤にして反論するのでしょうか。

最期に、【捏造】という言葉を引用したいと思います。コトバンクによれば、この様に説明されています。



『捏造』 コトバンク - デジタル大辞泉から引用

[名](スル)《「でつぞう(捏造)」の慣用読み》
事実でないことを事実のようにこしらえること。でっちあげること。「記事を捏造する」



嘘とわかってて書いたかどうかではなく、

事実ではない事を事実であるかの様に書いてしまえば、それはもう【捏造】なのです。




--【第56項】 『百人斬り』報道と向井少尉が信じて欲しかった事--

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