-- ◆【第04章】 いわゆる『南京事件』と支那敗残兵処断◆ --

--【第57項】 戦後のBC級戦犯裁判を根拠にする珍論 【前編】--

【第56項】へ   トップページに戻る   【第58項】へ



肯定派の人達の【ダボハゼ論】には毎度失笑させられてしまいますが、下記も本当に呆れました。要するに、南京戦時に発生した【便衣に着替えて安全区内に逃げ込んだ支那兵】について、【処刑するなら裁判の手続きが必要だった】としているのが肯定派の珍論なのですが、その根拠として、戦後のBC級戦犯裁判を持出しているのです。BC級戦犯裁判の実状については、前項でも取り上げた名著【「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」岩川隆著(※講談社)】に詳しいのですが、下記をtwitterに平然と投稿している肯定派は、この本をきちんと読んだのでしょうか。およそ800ページにも渡る貴重な記録集ですが、きちんと最後まで目を通せば、下記の様なお粗末な解釈は書けないはずなのですが。



例えば戦後のBC級裁判では、必ずと言っていいほど、ゲリラの処刑にあたりきちんと裁判を行ったか

が争点となりました。「シンガポール華僑虐殺」裁判がその典型です…


処刑にあたりきちんと裁判が行われていた場合は、連合国もそう無茶な判決は出せなかったようです。


【戦後のBC級戦犯裁判】を、いわゆる『南京事件』に適用している肯定派の【ダボハゼ論】の妥当性を検証する前に、簡単に国際法(※条約)に触れておきたいと思います。ちなみに、『国際法』と『条約』の関係は、下記の様に説明されています。



【国際法】【条約と慣習法】から成り立っており、更に【平時国際法と戦時国際法に分けられる。】


【国際法】(※コトバンク - 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説』から引用)
:主として国家間の関係を規律する法のことで、国際私法と区別するために「国際公法」ともいう。具体的には管轄権など国の権利、義務を主たる内容とするが、国際関係の緊密化と人権保護要求の高まりのもとで国際法の規律範囲も拡大し、現在ではさまざまな個人の権利・義務も国際的な規律に服してきている。その法源には成立の態様の相違によって国家間の直接の合意を基礎とする条約と、国際的な実行を基本に認定された慣習国際法がある。条約は原則として直接当事国のみを拘束するのに対し、慣習国際法は国際社会全体を拘束する。実際の国際法規の形成は、規律内容および拘束力の有無を明確にできることから条約の形式によることが多い。



【国際法】(※コトバンク - 『デジタル大辞泉の解説』から引用)
国家間の合意に基づいて、国家間の関係を規律する法。条約と国際慣習法からなり、平時国際法と戦時国際法とに分けられる。国際公法。→国内法




【第16、17項】でも触れましたが、いわゆる『南京事件』当時は、【事変】であり、正規の戦争とは見なされていません。欧米の認識も同様で、事実上の戦争ではあっても、国際法上に認められる正規の戦争とは見なしませんでした。



『南京事件と戦時国際法』 佐藤和男教授(※国際法学者)

昭和十二年七月七日夜、盧溝橋畔の日支両軍の武力衝突に端を発した支那事変(九月二日、北支事変から改称)は、昭和十六年十二月九日に支那政府(中華民国、蒋介石・国民党政権)が対日宣戦布告を行って、事変が大東亜戦争に包含されるまでの間、日支いずれの側も国際法上の正式の戦争意思(アニムス・べリゲレンディ)を表明しない「事実上の戦争」として性格づけられ、国際社会も、例えばアメリカやイギリスも、それを正規の(法律上の)戦争とは認めなかった。



この【事変】における国際法の位置付けが微妙で、当時の国際法学者においても見解が分かれていました。極端な事を言えば、【事変は国際法上の正規の戦争ではないので、戦時国際法の拘束を受けない】と解釈する事も可能だったのです。これが抜本的に改められたのは、太平洋戦争終了後に締結された【1949年ジュネーヴ諸条約(※ジュネーヴ4条約)】からでした。



【法的】に戦争開始が確認できなければ交戦していても【戦争法が適用される事にはならない】


『戦争と法』 筒井若水教授(※国際法学者、東大名誉教授)

4.戦争に至らない戦争
戦争の開始を決定することは、関係国を規律する法規を決定する前提となる。したがって、戦争の開始が法的に確認できなければ、実際に交戦行為が行われている場合でも、当然には、戦争法が適用されることにはならないのである。

交戦行為が行われても、当事国の関係が戦時に移行しなかった例は近年とくに多くを数える。二十世紀以降でも、一九〇〇年の義和団の乱があり、とくに日本に関係したものだけを拾っても、一九三一年の満州事変、一九三八年の張鼓峰事件、一九三九年のノモンハン事変、一九三七年以来の日華事変(支那事変)があって、いずれも、ソ連や中国との間に「戦争」は発生しなかった。

これらの場合においては、当事者の間で戦争を開始する意思は存在せず、戦争ではなくして、兵力による衝突のみが行われた。とくに日華事変は、発生以来第二次大戦終了まで、日本軍が満州を含めて中国領のかなりの部分を占領するという事態であり、陸戦のみでなく、海戦や空戦も行われた。

他方で、義和団の乱や満州事変においては海戦が行われず(海上においては平和関係にあり)、その意味でもこれらは部分的戦争であった。

これらの場合とちがって、正式の戦争に発展する前に、戦争ではない抗争が続いた場合もある。一九二八年から始まったボリビアとパラグアイ間のチャコ紛争は、一九三三年になって、これが戦争であることが宣言された。日華事変も日本が対米宣戦をした後には、中国も連合国として日本と戦争状態にあることが明らかにされた(一九四二年一月一日の連合国共同宣言)。



外交時報788号掲載 『北支事変と陸戦法規』 篠田治策著(※法学博士、京城帝国大学総長)

我国の国内法に於いては事変と戦争を区別せざる場合多く、例へば出征軍人の給与、恩給年限の加算、叙勲に関する法規等総べて事変と戦争を同一に取扱ふも、国際法上にては事変と戦争は大なる差別がある。

即ち現在の事変が変じて戦争となれば、日支両国は所謂交戦国となり、共に戦争法規を遵奉する義務を生じ、同時に中立国に対しても交戦国としての権利と義務を生じ、中立国は皆交戦国に対して中立義務を負担するに至るのである。

語を換へて言へば事の事変たる間は必ずしも国際法規に拘泥するの必要なきも、一旦戦争となれば戦場に於いて総べて国際法規を遵守すべき義務を生ずるのである。



『戦争犯罪とは何か』 藤田久一著(※国際法学者)

…このような観点から、赤十字組織を中心に従来からのジュネーブ条約の改定作業がおこなわれ、一九四九年には四つの条約が採択された。

「戦地における軍隊の傷病及び病者の状態の改善に関する条約」(第一条)、
「海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関する条約」(第二条)、
「捕虜の待遇に関する条約」(第三条)、
「戦時における文民の保護に関する条約」(第四条)

である。これらは総計四二九ヵ条に及ぶもので、四条約をまとめてジュネーブ諸条約ないし戦争犠牲者保護条約と呼ばれている。これらは従来の赤十字条約の改定にとどまらず、あたらしい性格や内容をもりこんでおり、とくに第四条約ははじめて文民保護を直接的に規定した、文字どおりあたらしい条約(文民条約)であった。

第二次大戦が文民に多大の犠牲を強いたことを省みたものである。また、同大戦の実行において争われた点であるが、占領地域内外でのレジスタンスやパルチザンが相手に捕えられたときは、戦闘員ではないとして処刑されてはならず、捕虜資格を有することも認められた。

これらの条約の適用範囲は、戦争宣言のない「事実上の戦争」にも及ぶことが明示された。この意義については、戦争宣言のなかった満州事変以来の日中戦争で当時の戦争法の適用の可否が問題となったことを想起すべきであろう。



支那事変当時において、旧日本軍が考慮すべき国際法(=条約)は、【陸戦の法規慣例に関する条約(※1907年のハーグ第四条約)】になります。旧日本軍の方針は、本条約を尊重しつつも、【事変なので悉くを適用するのは適切ではない】と判断していた様です。この旧日本軍の認識については、極東国際軍事裁判においても事実認定されましたが、本裁判において、この認識を違法と見なす様な判断は下されていません。



交戦法規の適用に関する件

次官より丁集団参謀長宛 通牒案 (陸支案)

交戦法規の適用に関し別紙の通各軍に通牒せられあるに付之に準拠せられ度通牒す
陸支密第一七七二号 昭和十二年十一月四日

一、現下の情勢に於て日支両国は未だ国際法上の戦争状態に入りあらざるを以て「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を悉く適用して行動することは適当ならず



四、軍の本件に関する行動の準拠前述の如しと雖帝国が常に人類の平和を愛好し戦闘に伴う惨害を極力減殺せんことを顧念しあるものなるが故に此等の目的に副ふ如く前述「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」中害敵手段の選用等に関し之が規定を努めて尊重すべく又帝国現下の国策は努めて日支全面戦争に陥るを避けんとするに在るを以て日支全面戦争を相手側に先んじて決心せりと見らるるが如き言動

(例えば戦利品、俘虜等の名称の使用或は軍自ら交戦法規を其の儘適用せりと公称し其の他必要己むを得ざるに非ざるに諸外国の神経を刺激するか如き言動)

は努めて之を避け又現地に於ける外国人の生命、財産の保護、駐屯外国軍隊に対する応待等に関しては努めて適法的に処理し以て第三国との紛糾を避くるのみならず皇軍に対して信頼を抱かしむる如くするものとす…



第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為)

日本と中国の間に戦争状態が存在しないこと、紛議は単なる「事変」であって、これには戦争法規が適用されないこと、日本軍に抵抗していた中国軍隊は合法的な戦闘員ではなくて、単なる匪賊であることを日本の軍部は主張した。…

日本政府が中日戦争を公式には「事変」と名づけ、満洲における中国兵を「匪賊」と見做したから、戦闘で捕虜となったものに、捕虜としての資格と権利を与えることを陸軍は拒否した。

中国における戦争を依然として「事変」と呼ぶこと、それを理由として、戦争法規をこの紛争に適用することを依然として拒否することは、一九三八年に正式に決定されたと武藤はいっている。東條もわれわれに同じことを申し立てた。



一方、太平洋戦争開始後は、【国際法上の正規の戦争】になりますので、厳密な意味においても国際法(=条約)の遵守が必要でした。本大戦においても、旧日本軍が考慮すべき条約は、【陸戦の法規慣例に関する条約(※1907年のハーグ第四条約)】だったのですが、もう一つ、事情を複雑にしてしまった条約が存在していました。



『戦争と法』 筒井若水教授(※国際法学者、東大名誉教授)

4.戦争に至らない戦争
戦争の開始を決定することは、関係国を規律する法規を決定する前提となる。したがって、戦争の開始が法的に確認できなければ、実際に交戦行為が行われている場合でも、当然には、戦争法が適用されることにはならないのである。

交戦行為が行われても、当事国の関係が戦時に移行しなかった例は近年とくに多くを数える。二十世紀以降でも、一九〇〇年の義和団の乱があり、とくに日本に関係したものだけを拾っても、一九三一年の満州事変、一九三八年の張鼓峰事件、一九三九年のノモンハン事変、一九三七年以来の日華事変(支那事変)があって、いずれも、ソ連や中国との間に「戦争」は発生しなかった。

これらの場合においては、当事者の間で戦争を開始する意思は存在せず、戦争ではなくして、兵力による衝突のみが行われた。とくに日華事変は、発生以来第二次大戦終了まで、日本軍が満州を含めて中国領のかなりの部分を占領するという事態であり、陸戦のみでなく、海戦や空戦も行われた。

他方で、義和団の乱や満州事変においては海戦が行われず(海上においては平和関係にあり)、その意味でもこれらは部分的戦争であった。

これらの場合とちがって、正式の戦争に発展する前に、戦争ではない抗争が続いた場合もある。一九二八年から始まったボリビアとパラグアイ間のチャコ紛争は、一九三三年になって、これが戦争であることが宣言された。日華事変も日本が対米宣戦をした後には、中国も連合国として日本と戦争状態にあることが明らかにされた(一九四二年一月一日の連合国共同宣言)。



外交時報788号掲載 『北支事変と陸戦法規』 篠田治策著(※法学博士、京城帝国大学総長)

我国の国内法に於いては事変と戦争を区別せざる場合多く、例へば出征軍人の給与、恩給年限の加算、叙勲に関する法規等総べて事変と戦争を同一に取扱ふも、国際法上にては事変と戦争は大なる差別がある。

即ち現在の事変が変じて戦争となれば、日支両国は所謂交戦国となり、共に戦争法規を遵奉する義務を生じ、同時に中立国に対しても交戦国としての権利と義務を生じ、中立国は皆交戦国に対して中立義務を負担するに至るのである。

語を換へて言へば事の事変たる間は必ずしも国際法規に拘泥するの必要なきも、一旦戦争となれば戦場に於いて総べて国際法規を遵守すべき義務を生ずるのである。



それが、【俘虜の待遇に関する条約(※1929年ジュネーブ俘虜条約)】です。本条約は、当時の日本は未批准でしたので、本来であれば、本条約の適用を拒否する事も可能でした。



『南京事件と戦時国際法』 佐藤和男教授(※国際法学者)

この一九二九年ジュネーブ捕虜条約は、一八九九年、一九〇七年のハーグ陸戦規則中の捕虜に関する諸規定をある程度補足し改善する意義を有していた。

右条約は、支那事変当時、日支両国間の関係には適用されなかった。支那(中華民国)は一九三六年(昭和十一)年五月に同条約に加入していたが、日本は未加入であったからである(本条約は、条約当事国である交戦国の間で拘束力を持つ)。…



『戦時国際法論』 立作太郎博士(※国際法学者)

第三章 陸戦に於ける俘虜 第一節 俘虜に関する沿革

…ハーグの陸戦条規に於て、俘虜に関して、此趣意に依る規定を見るに至った(同条約第一款第二章参照)。世界大戦に於て、俘虜の取扱に関して、交戦国は互いに敵国の措置を非難した。

世界大戦の経験は、俘虜を本国軍人と同様に待遇するの思想が実行困難なることを教へたるものの如くである。千九百二十九年七月俘虜の待遇に関する条約が結ばれ、ハーグ陸戦条規の規定に変更を加へたが、我国は未だ之に批准せざるを以て、主としてハーグ陸戦条規に依り説明せんと欲する。

(※上記の『世界大戦』とは『第一次世界大戦』の事です。)



しかしながら、日本人の曖昧さと言いますか、毅然と拒絶するのが苦手と言いますか、太平洋戦争開始直後、連合国側の問い合わせに対して、当時の日本政府は、【俘虜の待遇に関する条約(※1929年ジュネーブ俘虜条約)を準用(※必要な変更を加えて適用)する】と回答してしまいました。これが、戦後のBC級戦犯裁判に暗い影を落とす事になります。

下記をご覧下さい。【俘虜の待遇に関する条約(※1929年ジュネーブ俘虜条約)】の一部を抜粋したのですが、【裁判の手続きに関する規定】が設けられています。特に、【弁護人】の帯同について言及しているところに特徴があります。それまでの【陸戦の法規慣例に関する条約(※1907年のハーグ第四条約)】では、裁判の手続きに関する規定は全く無く、また、軍事法廷を開いた際に、【弁護人の帯同は必要ない】と考えられていたのです。

(※ちなみに、戦後に行われた旧ソ連でのBC級戦犯裁判においても、【弁護人無し】で行われていますので、旧日本軍による軍事法廷を、弁護人無しであった事をもって批判するのは、公平な歴史観が欠けており、ナンセンスな批判だと言えます。)



俘虜の待遇に関する条約 一九二九年

第五款 俘慮と官憲との関係
第三章 俘慮に対する処罰 三 訴追

第六十一条 [弁護]
俘虜は弁護の機会を与へられずして処罰せらるることなかるべし
俘虜は其の訴へられたる事実に対して有責なりと自認する為強制せらるることなかるべし

第六十二条 [弁護人の帯同]
俘虜は其の選択する有資格の弁護人を帯同し且必要に応じ適当なる通訳を用ふる権利を有すべし
俘虜は捕獲国に依り弁論の開始前適当なる時機に其の権利に付通告を受くべし
俘虜が選択せざる場合に於ては保護国は該俘虜に弁護人を付することを得べし
捕獲国は保護国の請求に基き弁護を為す資格ある者の名簿を保護国に送付すべし
保護国の代表者は訴訟弁論に立会ふ権利を有すべし
右の原則に対する唯一の例外は国家の治安の為訴訟弁論の秘密を要する場合なりとす此の場合には捕獲国は保護国に之を予告すべし

第六十三条 [判決]
俘虜に対する判決は捕獲国軍に属する者に関すると同一の裁判所に於て且同一の手続に依りてのみ言渡さるることを得べし

第六十四条 [上訴権]
一切の俘虜は自己に下されたる一切の判決に対し捕獲国軍に属する者と同様の方法に依り上訴する権利を有すべし

第六十六条 [死刑言渡及言渡後の通知]
俘虜に対し死刑の言渡さるるときは犯行の性質及情状を詳細に記述する通知は俘虜の服役したる軍の所属国に移送せらるる為成るべく速に保護国の代表者に送付せらるべし 該判決は右通知より少くも三月の期間満了前に執行せられざるべし




【陸戦の法規慣例に関する条約】の解釈では軍事法廷で【弁護人の帯同は必要なかった】


『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

第四章 敵国領土の占領 第三款 占領地の軍事司法 大一項 軍律及び軍事法廷

七七五 軍律に依りて犯罪を処断する機関は、稀には陸海軍軍法会議を以て充つることあるも、多くは軍司令官に於て任意に構成する所の特設の軍法会議である。その名称は或は日清戦役に於けるが如く軍事法院といひ、日露戦役に於けるが如く軍事法廷といひ、支那事変に於けるが如く軍罰処分会議といふも可い。その構成及び管轄は、国に依り時に従ひ勿論その揆を一にしない。米国の一八六三年のリーバー陸戦法規には、第十三条に『軍事司法管轄権に二種あり。一は国内法律の明定するものに係り、二は交戦の普通法より来るものとす。……その一に属するものは軍法会議の管轄とし、二に係るもの即ち法律の規定に依り軍法会議の管轄に属せざるものは軍事委員会之を審問す。』と規定してその管轄を明らかにせるが、言ふ所の軍事委員会(military commissionで他国の軍事法廷に該当する)の構成のことに就ては特に規定する所が無い。



『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

第三章 戦闘 第四款 間諜 第二項 間諜の処罰

六二七 間諜は以前はこれを捕らえたる軍において一応審問したるうえすぐ処罰(多くは絞銃殺)する風であったが、今日ではこれを戒め、陸戦法規慣例集規則の第三〇条に『現行中捕らえられたる間諜は裁判を経るに非ざれば之を罰することを得ず』とあるが如く、裁判に付した上でなければ之を処罰するを得ないこととなった。一段の進歩である。勿論その裁判は専ら軍事法廷で、そこには弁護人がある訳ではなく、又本人自身の挙ぐる反証とても充分に聴取せらるるや否やは疑はしき場合もあらんが、兎に角処罰に裁判を経るを要すとしてあるだけでも、その無きに勝や勿論である。…



『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

勿論軍律の規定事項には専横過酷の嫌あるものも多きは当然で、常時における法の観念に照らさば、いずれの文明交戦国の軍律にも議すべきものあるを免れない。

けれども軍律の目的は、犯罪の処罰そのものよりも軍に有害なる犯行を予戒的に防止するのが主で、平たく言えば厳罰をもって予め住民を威嚇するにあるから、苛厳の罰例を掲げたからとて是非ともこれを課すとは限らず、情状を酌量してその適用を自在にする、そこに軍律の伸縮性を認めるべきである。

将た軍律の犯人には多くの例において弁護人を附せず、被告の陳述と審判官の判断だけにて擬律処断するのであるから、被告の利益を考慮せざる不都合の制と云えば云えぬでもないが、占領地とても元々戦地であり、戦地のことは常時の規矩準縄をもって律し得ざる点少なからずあるの事実を斟酌せねばならぬ。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

"オソ"で判決を決定
軍法会議の開設地はウラジオストク、ニコリスク、中央アジアなどであったが、大部分の裁判はハバロフスクでおこなわれた。くり返すようだが、他国のような"戦争犯罪人裁判規程"はなく、一般ソ連人にたいして施行されているソ連刑法によって裁判はすすめられている。法令上は公開裁判ということであったが、事実は秘密裁判というにふさわしく、また形式的であった。

被告には弁護人もつけられず、検察側の証人は"密告者"などソ連の側についた人物たちで検察官に都合のいい証言をおこなう者にかぎられていた。被告側の証人はほとんど認められず、また稀に認められた場合も、ソ連側が故意に妨害し、発信不可能に陥った。被告人自身の法廷における発言も、禁止されるか無視されて、まったく一方的に判決がくだされた。審理らしい審理はおこなわれず、調書を認めさせるだけの裁判といってもいい。従って審理の所要時間はきわめて短く、驚いたことに、十数分で判決を言い渡されるという例も多かった。裁判する前にすでに判決が決定しているという印象を受けた」

と体験者たちは異口同音に言う。これが事実なら、裁判といえるものかどうか。まがりなりにも他の七ヵ国が"裁判規程"をつくって裁判した実情と比較すると、都合のいい形式的な一つの行動としか思えない。言い換えれば世界に類のない自己流の"秘密裁判"であり、とても"公表"できる戦争裁判とは思えない。



当時の日本政府は、【俘虜の待遇に関する条約(※1929年ジュネーブ俘虜条約)を準用(※必要な変更を加えて適用)する】と回答していましたので、上記裁判手続きに関する規定も、【必要な変更を加えて適用する】との方針を伝えていたつもりだったのですが、戦後のBC級戦犯裁判において、連合軍側は、【準用する=必要な変更を加えて適用する】の部分を一方的に無視して、【適用する】と解釈した上で判決を下したのです。



『日本の捕虜取扱いの背景と方針』 立川京一教授(※歴史学者)

…太平洋戦争が開戦し、双方に捕虜が発生し始めると、米国、英国など交戦相手国から、日本には俘虜待遇条約を適用する意思があるのかどうかについて照会があった。それに対して、日本は俘虜待遇条約の「準用」(apply mutatis mutandis)を回答した(1942年1月29日)。東條英機首相兼陸相(当時)が、戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)に提出した宣誓供述書によれば、

「準用」という言葉の意味は帝国政府においては自国の国内法規および現実の事態に即応するように壽府条約に定むるところに必要なる修正を加えて適用するという趣旨であった。

この点に関しては、外務省も同様の認識であった。しかし、交戦相手国はこの「準用」を、事実上の適用と解した。戦争中の日本に対する抗議や非難声明、あるいは戦後の戦争犯罪裁判などは、そうした解釈に基づいてなされるのである。

ところで、日本陸軍がすでに存在する条約をそのまま適用しないという方針を掲げた例は、支那事変(日中戦争)において見られる。その条約は陸戦条約であり、同事変においては、「準拠スルモノ」とされた。支那事変は「全面戰爭」、すなわち、宣戦布告をともなった国際法に言う戦争ではなく、また、日本が「全面戰爭」の決心をしていると受け取られないようにするために、陸戦条約の「規定ヲ努メテ尊重スヘク」も、「具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適當ナラス」との方針が示されたのである。そして、具体的な例の一つとして、「俘虜等ノ名稱ノ使用」を「努メテ避ケ」るように指示している。



『南京事件と戦時国際法』 佐藤和男教授(※国際法学者)

三、捕虜の取扱いに関する法規
…第一次世界大戦の経験を通じて右のハーグ規則十七箇条の不備と不明確性が明らかとなり、その欠陥は一九一七年、一九一八年に諸国間で結ばれた諸条約によって、一部是正された。一九二一年にジュネーブで開かれた第十回国際赤十字会議は、捕虜の取扱いに関する条約の採択を勧告し、一九二九(昭和四)年にスイス政府は、そのような条約の採択(および戦地軍隊の傷者・病者に関する一九〇六年ジュネーブ条約の改正)のために外交会議を招集して、「俘虜(捕虜)ノ待遇二関スル条約」を同年七月に正式に採択せしめるに至った。

この一九二九年ジュネーブ捕虜条約は、一八九九年、一九〇七年のハーグ陸戦規則中の捕虜に関する諸規定をある程度補足し改善する意義を有していた。右条約は、支那事変当時、日支両国間の関係には適用されなかった。支那(中華民国)は一九三六年(昭和十一)年五月に同条約に加入していたが、日本は未加入であったからである(本条約は、条約当事国である交戦国の間で拘束力を持つ)。

ちなみに、大東亜戦争が開始された直後の一九四一(昭和十六)年十二月二十七日の連合国側の問合わせに対して、日本政府は翌年一月二十九日に、未批准の一九二九年捕虜条約の規定を準用すると回答している。準用とは「必要な変更を加えて適用する」との意味である。しかし、連合国側は、あえて準用を批准とほぽ同義に解釈したのである。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

…(四)のジュネーブ・俘虜条約はアメリカおよび連合国側が日本のBC級戦犯を訴追するための法的に大きな支柱としたものだが、前述したように、法的に考えればこの条約について日本政府は調印したものの批准はしていなかった。しかし裁判国側は、第二次大戦開始後に日本はこの条約を準用することを約束したという理由をもって、日本もまたこの条約に拘束されると主張して、被告たちの「違反」を衝いてきた。



以上をまとめると、旧日本軍と国際法との関係は、この様になると思います。

【支那事変時】 -- 『陸戦の法規慣例に関する条約』が該当するが、厳密な意味においての適用までは要求されていなかった。

【太平洋戦争時】 -- 『陸戦の法規慣例に関する条約』は厳密な適用が必要だったが、『俘虜の待遇に関する条約』は準用して対応するつもりだった。

旧日本軍と国際法との関係は、支那事変時と太平洋戦争時とでは全く異なるわけで、【戦後のBC級戦犯裁判】を、いわゆる『南京事件』に適用して解釈するのは相当な【ナンセンス】だと言えますが、所詮は肯定派の【ダボハゼ論】ですから、あまり深く考えずに適用してしまっているのでしょう。


国際法の解釈はともかく、戦後に行われた【BC級戦犯裁判の実態】を見てみたいと思います。果たして、肯定派が根拠とするに相応しい裁判だったのでしょうか。

下記をご覧下さい。【第41項】でも取り上げたのですが、いわゆる【空襲軍律】に基づいて行われた日本国内での【軍律審判】を裁いたものです。いわば、裁判の裁判と言うべきもので、日本国内で開かれた【軍律審判】そのものを、戦後の米軍は、【戦争犯罪行為】と見なしたのです。太平洋戦争中のB29等による日本本土空襲は、【故意に民間人殺害を狙ったもの】であり、その違法性は明らかなのですが、連合軍側は、まさに【報復的措置】として、本件軍律審判にかかわった日本軍関係者を処断したのです。その不当性は言うまでもないのですが、注目して欲しいのは、軍律審判が行われずに処断されたB29搭乗員もいた様で、その【無裁判処断にかかわった日本軍関係者に対する裁判結果】です。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

敵機搭乗員処刑事件
俘虜収容所関係の裁判でとりあげなければならないのが、いわゆる"敵機搭乗員処刑事件"である。同じ俘虜には違いないが、空襲にやってきて不時着・撃墜されて俘虜となった連合軍の兵士の一部を日本軍は各地で処刑した。この処刑については、彼らの無差別爆撃や不法行為を国際法規に照らし合わせて裁判(軍律会議の審判)し、法的手続きを踏んで処刑したものと、そうでないものとがある。前者の場合は、件数が四件で、被告にされた者は三十三名、全員が有罪の判決を受け、一名が処刑となっている。四件の内訳は、第一五方面軍(中部軍)司令部が処刑した事件、第一〇方面軍(台湾軍)司令部が処刑した事件、第一三方面軍(東海軍)司令部が処刑した事件が二件、である。

知られているのは岡田資元中将(東海軍管司令部)を筆頭の被告とした第一三方面軍の裁判であろう。被告の数は岡田を含めて二十名。大西一元大佐(参謀)のほか伍長、見習士官まで逮捕され、法廷に引き出された。岡田は、「この裁判は戦争の継続だ」と喝破して、「責任は私一人に集中させる。規律を乱すな」と伝えたという。BC級裁判全般を見渡したとき、この言葉と考え方は多くの場合、正鵠を射ているが、この東海軍の被告たちほど明確な意思で組織をかため、"闘い"を開始し、最後まで貫いたケースはめずらしい。たいていは敗戦とともに組織の秩序は乱れ、単なる烏合の衆と化し、それぞれが自分の行く末を考えて混乱した。国内に進駐した米軍の狙いも一つはそこにあり、日本の上下の組織やモラルの壊滅をめざして、個人を威嚇したり恐怖に陥れたといっていい。…

話をもとに戻すと、東海軍事件で問題とされた俘虜(B29機搭乗員)の処刑数は三十八名であった。元中将・岡田資は、「組織ある一団(参謀以下旧部下及び弁護団)をもって、余の統率の下に飽くまで戦ひ抜かんと考へた。(略)吾人は当初においては、消極的な斬死案であった。然るに米軍の不法を研究するに従ひ、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、わが覚悟において強烈ならば、勝ち抜き得るものであると判断した」と遺書(『毒箭』)の中に記している。法廷闘争は岡田元司令官以下の被告にとってはまさに"法戦"であった。一致団結して戦い抜き、昭和二十三年五月十九日にくだされた判決では、初期の目的どおり、被告二十名のうち絞首刑は岡田司令官だけという"勝利"をかち得た。絞首刑が司令官だけというだけでなく、終身刑の判決も大西一元大佐一人だけという、BC級裁判ではめずらしい軽い結果におさまっている。(ほかの被告は全員、十年から三十年の有期刑)

中部軍律会議事件というのは、大阪(昭和二十年三月十三日夜)、神戸(三月十六日夜)を空襲にやってきて、撃墜され落下傘で逃れた二名の生存者にたいし、両名の行為は無差別爆撃であり国際法規に違反せるものとして、軍律会議の審判の結果、死刑に処したという事件である。軍律会議処刑事件というのは、日本軍の法務官が参加しておこなった日本の軍裁判そのものを、今度は米軍の軍裁判が審理するという側面を持っている。裁判の裁判とでもいおうか。

この中部軍の事件でも、米軍側は、「日本軍事裁判所の違法、無法、虚偽、かつ無効な訴訟手続きにより両名を不法に殺害した」として審理し、第一五方面軍司令官・内山英太郎元中将にたいして重労働三十年、太田原清美元法務部長にたいして絞首刑(のち終身刑に減刑)、国武三千雄元参謀長に重労働三年を言い渡している。ただし判決では、起訴事実にある"違法""無法""虚偽"かつ"無効なる手続き"という言葉を削除し、これにかかわる容疑は無罪ということになった。米軍側も日本空襲における無差別爆撃を認めたのである。

この事件を審理中、米人弁護士はアメリカ統合参謀本部に無差別爆撃を計画したかどうか問い合わせたという。とても回答は寄越すまいと考えていたら、あっさり公文書をもって、「無差別爆撃なり」と答えてきたという裏話がある。日本への空襲が"軍事目標だけに限ったもの"とはとても言えない。裁判に影響する回答であっても、さすがに厚かましいことは言えなかったのであろう。

敵機搭乗員処刑についての裁判は、前述したように、いま一つ軍律会議もなく処刑したケースもあった。

件数 十九件
被告数 百四十一名
有罪 九十五名(うち死刑二名)
無罪 四十二名
その他 四名(判決不承認三名、裁判中止一名)


このうちには軍律会議処刑事件と重なって、二つの事件の被告となった者もある。憲兵が関与した事件が多かった。事件そのものには、「東部軍司令部および東部憲兵隊関係事件」と、「中部軍司令官以下が被告となった事件」「中部軍憲兵隊司令官以下が被告となった事件」などがある。世に知られるいわゆる九大生体解剖事件もこの種の西部軍事件と関連しており、千葉県香取郡佐原町(現・佐原市)の町民をまき込んだ佐原事件、同じく千葉県長正郡日吉村で搭乗員俘虜を斬殺した"武士道裁判"の満淵ケースもこの部類に入る。



『戦時国際法講義 第二巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

一六〇一 凡そ敵を攻撃するに方り、敵国の非戦闘員に対しては直接加害を為すべからざることは交戦法則の根本原則となってある。然しながら、そは直接の加害のことである。直接の加害とは、非戦闘者を主たる又は重なる目的物として之に対し故意に攻撃を加ふるを云ふのである。これは人道上厳に戒むべきこと論を俟たない。故意に非戦闘者を爆撃するが如きことは、支那事変を通じ皇軍の会て行ひたる例なきが、時を略々同うせる西班牙の内乱戦に於ては、それが時に行はれたやうである。…



上記、米軍による戦犯裁判の中身の再検証は後回しにして、【軍律審判が行われたケース】と、【軍律審判が行われなかったケース】を単純に比較してみると、否応なく一つの【結論】が出てくると思います。

軍律審判を開いたにもかかわらず有罪判決を受けた事例】

    -- 件数:4件、被告数:計33名、有罪判決:33名(※被告全員有罪)、その内死刑判決:1名


軍律審判を開かずに処断して有罪判決を受けた事例】

    -- 件数:19件、被告数:計141名、有罪判決:95名、その内死刑判決:2名


普通の読解力・理解力があれば、誰でもすぐに気が付くと思うのですが、軍律審判をやってもやらなくても、【結果は変らなかった】様に見えます。皆さん如何でしょうか。

むしろ、軍律審判をやってしまった方が、軍律審判記録等の証拠が残ってしまったせいか、【全員有罪】となっていますので、これなら軍律審判をやらなかった方がましに見えます。

次に、本件戦犯裁判の中身の再検証をやってみたいと思います。本件は、まさに【戦後のBC級戦犯裁判=連合軍による復讐裁判】の象徴の様なものでした。【ルーズベルト大統領のメンツ】のための復讐裁判だったと言っても過言ではありません。それにしても、読み返せば読み返すほど酷い裁判です。ドゥリットル空襲では、国民学校の学童(※当時13歳と報道)等が故意に銃撃されて殺害されており、戦時国際法に違反した爆撃であった事は明々白々なのですが、【米飛行士八名にたいし、全員無罪の判決をなすべきであった】とは酷い判決理由です。しかしながら、こんな裁判でも、肯定派の手にかかると【旧日本軍を非難する口実】になるのですから、呆れる以外にありません。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

"ドゥリットル空襲"軍律会議事件
上海法廷ではこの"漢口事件"が唯一の殺人事件に関する裁判であった。後につづいた裁判は"軍律会議事件"と"俘虜など虐待事件"の二種類といっていい。軍律会議事件というのは横浜裁判における中部軍律会議事件、西部軍律会議事件にみられるように、主として米軍機搭乗員の俘虜について、日本軍側が戦争中に軍律会議(軍事裁判)によって処刑した事件をあらためて裁判してその責任を問う、という裁判の裁判といっていいものである。上海法廷におけるその筆頭は戦時中に内地で空襲を受けた日本人には忘れることのできない本土初空襲の"ドゥリットル空襲"をおこなった米機搭乗員たちに関する裁判であった。そのドゥリットル空襲軍律会議事件については拙著『われ自爆す、天候晴れ』(日本文芸社)の中に「無差別爆撃」として詳細に述べているが、ざっとふれておこう。

東京をはじめ日本本土が初めて空襲を受けたのは昭和十七年四月十八日。東京地区には十三機、名古屋、大阪、神戸には三機。それらのB25機の攻撃隊を率いたのはジェームズ・H・ドゥリットル陸軍中佐であった。爆弾の搭載量や空母からの飛行距離からいってふたたび空母に帰ることはできず、米軍側はひそかに蒋介石と連絡をとって、中国に逃れ中国の航空基地に着陸することを計画していた。来襲した攻撃機は当初そのつもりはなかったらしいが自然の成り行きで、市民や小学生まで空襲で死亡させ、中国の空に逃れる。一機も撃墜さはされなかった。しかし第六番機と第十六番機は目的地まで到着できずに不時着し、計八名の搭乗員が日本軍の俘虜となった。…

〈無差別爆撃〉は当然、裁かれるべきであった。俘虜八名は上海監獄(当時上海陸軍監獄上海分所)に収容され、第一三軍(司令官・沢田茂中将)の軍法会議室で裁かれ、全員死刑の判決。しかし"天皇の御仁慈の言葉"があって死刑執行は三名のみで、残るは終身刑と決まった。(銃殺執行は昭和十七年十月十五日)

この情報と事実を知ったルーズベルト大統領やアメリカ側の軍の首脳は激怒して、日本政府を非難するだけでなく、いつの日にか"関与した日本軍の将校たち"を法的に制裁すると言明した。審判の責任者であった中條豊馬中佐や和光勇精中尉(当時)などは、戦争のさなか上海でその短波放送を聞きながら「戦争が終わったらワシントンの軍法会議に堂々と出かけて裁判を受けてやるか」と笑い合ったという。当時すでに戦況は不利であり、まさかのことも予想されたが、しかし審判をおこなった一同は俘虜たちのおかした非人道的な無差別爆撃の行為に対し公正な裁判をおこなった、という法務官としての自信を抱いていたのである。

たしかに日本軍側にも復讐と威嚇の要素があった。いそいで作り上げた軍律も事後法であった。しかしその軍律は無差別爆撃を禁じたヘーグの国際協定にもとづいていた。八名の飛行士は単なる俘虜ではなく無差別爆撃をおこなった戦時重罪犯の容疑者であり、裁判手続きについては国際法上の制約を受けることなく軍律によって各国独自の取り扱いが可能ということになっている(BC級裁判も同類)。八名については軍法会議のうち戦時事変に適用される特設軍法会議の規定を準用して審理していた。審判廷においては録事(書記)一名、憲兵隊通訳一名を立ち会わせ、午前九時からおよそ二時間にわたって審理し、午前十一時から審判官三名が評議に入って午後二時ごろまでつづけ、軍法会議法にのっとって法務官・和光勇精中尉がまず八名全員の死刑の意見を出し、岡田隆平大尉が賛成し、ついで審判長の中條豊馬中佐も賛成して死刑判決の審判を成立させている。

ルーズベルト大統領の声明は、犯罪の主体である無差別爆撃をドゥリットル攻撃隊はおこなっていないという前提に立っており、これでは議論にもならなかった。

…昭和二十年十月十五日には、神奈川・葉山の自宅に復員していた第一三軍の元司令官・沢田茂中将が米軍によって逮捕され、東京・大森にあった米軍拘置所に入所させられる。家を出て行くに際し、沢田は胸を張って、家人に、「何も心配はいらぬ。自分は間違ったことは何もしていない」と言い残して出て行ったという。沢田にしてみれば、米軍飛行士たちは非戦闘員を殺傷し非軍事施設を破壊したから、わが国の法規に照らし合わせて処刑したのである。もしも法廷に引き出されたときは堂々と応酬してやろう、日本軍の軍司令官として米軍側と一騎打ちを試みるという意気込みを抱き、戦争犯罪者などといううしろめたさはまったくなかった。

和光勇精大尉(終戦時)も十月二十四日に大森に拘置され、十二月八日には沢田と同じく巣鴨プリズンに移された。年が明けて昭和二十一年一月と二月には米軍側の法務官が上海からやってきて二人を取り調べたが、このとき沢田は、「日本軍では法務部長や参謀長は軍司令官の幕僚にすぎず、全責任は司令官だけが負う。彼らに責任はない」と強調した。そのせいか事件当時に第一三軍の法務部長であった伊藤章信大佐と参謀長の唐川安夫中将は米軍側の起訴を免れた。

…沢田にはボーディンという空軍中佐でしかもニューヨークで弁護士をつとめていたという人物が弁護人としてつけられたが、沢田は彼に、「注文が一つある。私は日本軍の軍司令官として日本軍の法規によって行動した。なんら法に反する行為をしていないから、そのことだけは明らかにしてほしい。日本軍が正しく行動していたことを弁護してもらいたい。自分自身の刑はどのようになろうとかまわないし、その結果はきみの責任ではない」と告げている。

この「沢田ケース」あるいは「ドゥリットル・ケース」と呼ばれる裁判は昭和二十一年二月十八日から上海法廷で開かれた。奇しくも場所はかつて日本軍が俘虜たちを裁判したところと同じく、上海監獄の五階であった。〈無差別爆撃〉が証明されたにもかかわらず米軍側(検察官側)はあくまで俘虜たちの"虐待"にこだわった。沢田が終始全責任を一人で負おうとする攻防あって、判決は四月十五日にくだされた。「被告人は米飛行士八名にたいし、全員無罪の判決をなすべきであったにもかかわらず、裁判官として死刑あるいは無期懲役の判決をなしたものである。……よって、いずれも再審確定の日まで、被告・沢田茂には重労働五年、被告・和光勇精には重労働九年、被告・岡田隆平には重労働五年、被告・立田外次郎には重労働五年を宣告するものである」という内容であった。



『戦時国際法講義 第二巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

一六〇一 凡そ敵を攻撃するに方り、敵国の非戦闘員に対しては直接加害を為すべからざることは交戦法則の根本原則となってある。然しながら、そは直接の加害のことである。直接の加害とは、非戦闘者を主たる又は重なる目的物として之に対し故意に攻撃を加ふるを云ふのである。これは人道上厳に戒むべきこと論を俟たない。故意に非戦闘者を爆撃するが如きことは、支那事変を通じ皇軍の会て行ひたる例なきが、時を略々同うせる西班牙の内乱戦に於ては、それが時に行はれたやうである。…



ちなみに、本件の米軍飛行士を裁いた軍律審判は、全て【弁護人無しの軍事裁判】でした。しかしながら、判決文においては、【"違法""無法""虚偽かつ無効なる手続き"という語は削除】とありますから、【弁護人の有無は争点にならなかった】という事になります。【俘虜の待遇に関する条約(※1929年ジュネーブ俘虜条約)】には、俘虜に対して【有資格の弁護人の帯同】を権利として認めた規定があったのですが、日本は、あくまでも本条約は【準用する=必要な変更を加えて適用する】との立場でしたので、本軍律審判においても弁護人の帯同は規定しなかったものと思われますが、米軍は、特に問題視しなかった様です。仮に、弁護人を帯同させたとしても、結果は変わらなかったと思います。

米軍側は、【虚偽の証拠により米軍飛行士を審理し死刑の宣告をなした】と開き直って訴追していますので、旧日本軍側の軍事裁判(※軍律審判)がいくら正当なものだったとしても意味はありません。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

「戦争の継続だ」
敗戦とともに、ルーズベルト大統領が予告した"報復"の言葉は生きていたことが証明される。ドゥリットル裁判に関しては元第一三軍司令官の沢田茂元中将がまず逮捕され、巣鴨プリズンを経て上海監獄に送られた。葉山の自宅から米軍に連行されるとき、沢田元中将は胸を張って、家人に、「何も間違ったことはしていない。何も心配することはない」と言って出ていったという。…検察側がそれぞれについて起訴した罪状項目をみると、沢田元中将にたいしては、「俘虜たるべき正当の資格を有する米軍飛行士を審判するため日本軍の軍律会議を故意に構成し、任命した」「米軍飛行士を虚偽の起訴によって審判に付するよう命じた」「虚偽の証拠により米軍飛行士を審理し死刑の宣告をなした」「ホルマーク中尉の俘虜たる資格を否定し、戦犯者として監禁し、適当なる食料、衣服、医療、舎屋を与えず、残酷なる虐待をなした」「軍司令官として軍律会議の判決宣告を免除、減刑、あるいは取り消す権限を有するにもかかわらず、これを故意になさず、戦犯者として彼らを死刑または終身刑とした」という罪状が並んでいる。

要するに、"無差別爆撃"などというのは虚偽の証拠によるでっち上げであり、軍法(※ママ)会議なるものを故意に構成し、不法に死刑を宣告したというのである。弁護側は東京や 名古屋にとび、被害を受けた小学校の教員や個人の陳述書などをとり、手に入れてきた証拠品を法廷に提出した。それらは、小学校の校舎の壁から抜き取ってきた弾丸であり、撃ち抜かれた板であり、銃弾で割れたガラス窓の破片などであった。しかし、これらの提出品にたいして検察側は、「この裁判は、日本軍の軍律会議の審判手続きが公正であったかどうかについて審理するものであって、あの当時、軍律会議に提出されなかった品を展示(※ママ)しても意味がない」と、証拠品として認めることを強硬に反対した。論点が"無差別爆撃"に移ることをおそれたといっていいだろう。

裁判になってから沢田元軍司令官は自分一人が責任を負って死ぬことを覚悟した様子がありありとみえたという。「この事件ではアメリカの飛行士が三名処刑されて一名が病死している。アメリカの国民感情としてはわれわれのうち二名か三名は死刑にしたいところだろう。しかし、もしも日本側の審判判決書が私の署名捺印で効力を発したということになれば、和光中尉、岡田大尉はなんとか無期刑以下に終わり、死刑は免れるのではないか。自分の死刑だけでことがすめば、私は満足だ」と言い、和光中尉がそうはさせまいと忠告しても沢田元軍司令官は聞き入れず、終始、態度を変えなかった。この「沢田ケース」あるいは「ドゥリットル・ケース」と呼ばれる裁判は昭和二十一年二月二十八日から一ヵ月半近くにわたっておこなわれている。ドワイヤー検察官の最終論告などを見ると、「私は十三年間アメリカで弁護士を開業していたが、このように嘘でかためた事実を述べる被告たちを見た経験がない。沢田は作戦に出動したとき六万の中国人を殺すことをかんがえており、米飛行士たちがどのような待遇を受けていようと、見向きもしなかった。また立田は米飛行士たちを処刑しているのみでなく、中国人を五十名も死刑執行している」などとはげしい非難の言葉を浴びせ、"無差別爆撃"の真実性には論及することなく、被告人全員に死刑を求刑している。沢田たちも死刑を覚悟していたが、四月十五日、マック・ケイノールド裁判長(監察大佐)が言い渡した判決は、沢田茂に重労働五年、和光勇精に重労働九年、岡田隆平に重労働五年、立田外次郎に重労働五年という、思わぬ軽い刑であった。弁護側(米人)からみれば、この判決は、「被告らの立場を認めるとともに戦勝国たるアメリカの顔も立てた。まず、いたしかたなき良判決であろう」という見方で一致していたという。

軍律会議事件の中でよく知られているのは名将・岡田資元中将(東海軍管区司令官)を筆頭の被告とした第一三方面軍についての裁判であろう。被告の数は岡田を含めて二十名。岡田は、「この裁判は戦争の継続だ」と喝破して、「責任は私一人に集中させる。規律を乱すな」と伝えて"法戦"を戦い抜き、所期の目的どおり絞首刑は岡田元軍司令官のみという悲壮な"勝利"をかち得ている。中部軍軍律会議事件では、同じく、「日本軍事裁判所の違法、無法、虚偽、かつ無効な訴訟手続きにより二名の米軍機搭乗員俘虜を殺害した」として審理され、元軍司令官・内山英太郎中将にたいして重労働三十年、太田原清美元法務部長にたいして絞首刑(のちに終身刑に減刑)、国武三千雄元参謀長に重労働三年が言い渡されている。ただし、興味あることに、判決では上記の起訴事実にある"違法""無法""虚偽かつ無効なる手続き"という語は削除され、これにかかわる容疑は無いということになっていた。



俘虜の待遇に関する条約 一九二九年

第五款 俘慮と官憲との関係
第三章 俘慮に対する処罰 三 訴追

第六十一条 [弁護]
俘虜は弁護の機会を与へられずして処罰せらるることなかるべし
俘虜は其の訴へられたる事実に対して有責なりと自認する為強制せらるることなかるべし

第六十二条 [弁護人の帯同]
俘虜は其の選択する有資格の弁護人を帯同し且必要に応じ適当なる通訳を用ふる権利を有すべし
俘虜は捕獲国に依り弁論の開始前適当なる時機に其の権利に付通告を受くべし
俘虜が選択せざる場合に於ては保護国は該俘虜に弁護人を付することを得べし
捕獲国は保護国の請求に基き弁護を為す資格ある者の名簿を保護国に送付すべし
保護国の代表者は訴訟弁論に立会ふ権利を有すべし
右の原則に対する唯一の例外は国家の治安の為訴訟弁論の秘密を要する場合なりとす此の場合には捕獲国は保護国に之を予告すべし

第六十三条 [判決]
俘虜に対する判決は捕獲国軍に属する者に関すると同一の裁判所に於て且同一の手続に依りてのみ言渡さるることを得べし

第六十四条 [上訴権]
一切の俘虜は自己に下されたる一切の判決に対し捕獲国軍に属する者と同様の方法に依り上訴する権利を有すべし

第六十六条 [死刑言渡及言渡後の通知]
俘虜に対し死刑の言渡さるるときは犯行の性質及情状を詳細に記述する通知は俘虜の服役したる軍の所属国に移送せらるる為成るべく速に保護国の代表者に送付せらるべし 該判決は右通知より少くも三月の期間満了前に執行せられざるべし



ついでに、下記支那で行われたBC級戦犯裁判を合わせて紹介したいと思います。下記のケースはもっと酷くて、【在上海日本軍第一三軍法会議に送致して死刑に処した事】そのものが訴追されてしまいました。取り調べの際に酷刑を施し、数名を死に至らしめた事のみが訴追されたのならまだ理解できるのですが、【正式な軍法会議に付した事】すらをも訴追されてしまうのであれば、

連合軍側の判断は、「わざわざ軍事裁判をやったとしも無意味である」と言ってるのも同然です。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

上海裁判
…米村憲兵大尉にたいする起訴概要は、「昭和十八年七月九日、太倉憲兵隊員たちとともに太倉において陸嘯雲など五十余名を逮捕し、常熱分隊に拘留し、取り調べに当たって酷刑を施して自白を強要し、数名を死に至らしめ、三十数名は釈放したものの、陸嘯雲など十七名を中国共産党工作員なりとして在上海日本軍第一三軍法会議に送致して死刑に処した」というものであった。前者は上官の命令によるもので下田憲兵軍曹一人が責任を負うべき性質の事件ではなかったが、法廷は彼に死刑を宣告した。後者の事件も日本軍が正式に軍法会議に付して決定をくだしたものであり、処刑されたのは中共の工作員たちであったが、米村憲兵大尉は責任を負わされて死刑となった。

のちに、昭和二十二年六月十七日に刑を執行された米村憲兵大尉(熊本県出身、当時五十二歳)は、刑場に引かれる直前に郷里の子息に宛て、「愈々茲に汝等と永訣の機来る。父の生前の事は知る人ぞ知る。憂ふる勿れ。不幸に遭遇して之を克服し大成する人と崩壊する小人とあるは常に余の示したる処、汝等母子必ず前者たるを確信し父は逝く。忠孝は臣民の大体なり。夢忘る勿れ。中国の人士中には極めて高潔の士もあり、父生前の知人に聞き之等の人と親善し必ず民族的偏見あるを許さず。本次事変に鑑み将来東亜民族の解放を達成せよ」と書いている。もののふ(武士)として裁判の不条理についていまさらとやかく言いたくはない、中国人民にすばらしい高潔の士もある、それらの人たちとはこだわりなくつきあい、今後は決して民族的な偏見や恨みを抱いてはならぬ、という遺言である。怨念を越えて死んでいった米村憲兵大尉の人格があらわれている。




次に下記をご覧下さい。【島民工作員(=戦争犯罪者)】を処断したケースの様で、【略式裁判(※被告弁護人は無し)】により全員死刑判決となっています。田中兵曹殺害の嫌疑も濃厚で、工作員としてはかなり悪質の類の様です。しかしながら、戦後の米軍は、【正式な裁判に付せずに殺害した】という理由で、古木少佐・井上大尉両名に終身刑の判決を下しています。【正式な裁判】が、一体どの様なものなのか、全く説明は無いし、適用法の根拠として【日本刑法】を持出してくる等、もう【滅茶苦茶な裁判】です。米軍側は、旧日本軍兵士を戦犯として裁くための適用法等の準備すらしていなかったという事です。裁く側が、相手国の【国内法】を持出してくる等、聞いた事も無い様な裁判です。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

島民銃殺
「升田少将ほど部下から敬愛され親しまれた将校を私は知らない。海軍はもちろんのこと陸軍の将兵も軍属も、また島民も心服していた」と陸軍の元大隊長・古木秀策少佐は言っている。太平洋上で散っていった多くの島の守備隊がそうであったように、ヤルート島の戦争末期の状態も悲惨なものであった。…

…のちに米軍に追及されることになった第二の事件は、昭和二十年四月上旬に発生した。島の南北端にカヌーとボートに乗ったミレ島の島民が漂着したことが発端であった。それぞれ四名ずつ乗っていて計八名。ミレ島から逃れてきたというがどうもおかしい。一週間ばかりかけて調べたところ意外な企みが明るみに出た。彼らはいずれも親族であって米軍側の誘いを受けてミレ島を脱出することを計画。ミレ警備隊の舟艇監視員・田中某兵曹を殴りつけて海中に突き落とし、その軍服や舟艇、食糧などを奪って米軍のLST(上陸用舟艇)に走った。これを迎えた米軍側は彼らに言い含めて、彼らを攪乱工作員あるいはスパイとして用いることを思いついた。そのままの恰好でヤルート島に漂着したふうをよそおい、ヤルート島に着いたら他の日本軍基地が壊滅に瀕していること、すでに米軍側に逃亡した多数の日本人や島民たちが優遇されて生活していることなど、大いに吹聴せよというのである。「二週間後にLSTで迎えに行くから日本兵も島民もそのときに逃亡しろ。さもなくば椰子林とともに焼き殺してしまうと言え」と命じられ、ヤルート島の椰子林が見え始めるところまでLSTに送られてきたという。(田中兵曹遭難の事実は戦後の井上文夫大尉に関する裁判で証明されている)

まだ両者は交戦中であり、明らかに島民たちは敵の工作員ということになる。このような存在を見逃せば日本兵や島民の人心は四分五裂となるだろう。升田司令官は略式裁判によって裁くことを決意した。取り調べた井上文夫大尉を検察官とし、古木少佐と警備副長を判事、司令みずからは裁判長として審理にあたった。島民たちに弁護人はなし。適用したのは刑法、海軍刑法、軍紀保護法の関係条項であったという。判決は全員死刑で、升田司令官は判決書にきちんと判決結果を書いた。このとき司令官は、「たとえ彼らを監禁する場所や人手があったとしても、スパイとしてこのような任務を持っている島民をヤルートの日本人に接触させること自体がヤルートにとっていのち取りの毒薬を注射するようなものだ」と古木少佐にもらしたそうだ。死刑の執行は井上大尉に命じられた。井上大尉はその命令を受けて部下の陸海軍将校以下七名に命じて彼らを処刑させた。…

…クェゼリン裁判は吉村中尉たちの法廷のあとウエーク島関係(海軍第六五警備隊、被告は酒井原繁松少将、橘荘一少佐、伊藤寅司大尉)を第三番目として終わり、以後はグアムに移されてグアム裁判として裁かれることになるのだが、ヤルート島の古木秀策少佐や井上文夫大尉たちの身柄はクェゼリンからグアムに運ばれた。二人とも、自決した升田司令官と同じく、"島民処刑"の行為が米軍によって裁かれることについては半信半疑であった。逮捕されてクェゼリンに移された直後、古木少佐は、米(海)軍裁判の地域責任者であるマーシャル・ギルバート方面最高指揮官・ハリル海軍少将に宛て抗議の文を送っている。「われわれが関与した島民処刑事件は人と時と場所から考えてもアメリカに裁判管轄権はないはずだ。即刻、私どもの身柄を日本政府に引き渡していただきたい」という内容である。ハリル海軍司令官からは、「貴書は拝読した。裁判されることになれば弁護人をつけられることになるだろう」という返答が届いたのみであった。

グアムに移されたあと、裁判はまぬがれ難いだろうという情報を得た日、井上大尉は古木少佐と接し、「私の(関与した)事件は私一人で引き受けようと思いますがどうでしょう」と言い、古木少佐もまた、「そうしてくれますか。私もそうする」と答えた。思いは同じであった。島民の処刑に際しては部下たちが手伝っているが、彼らには絶対に累をおよぼしたくない。部下たちはクェゼリンですでに事情聴取を受けていた。聞いてみると、みな、ありのままを話すしかなかったという。それでは多くの者が罪を着せられるというので古木と井上は頭をひねった結果、ひそかに作戦を立てた。まず古木と井上からそれぞれの個別な訴えとして、「これまでの報告ならびに答弁は虚偽であり、部下たちは島民を処刑することを知らないで、ただ護送の監視にあたったにすぎない」という内容の書類を、米海軍マリアナ方面司令部の法務部長に送った。そのうえで、いざとなって追及されて破綻をきたさぬよう、二人でたびたび尋問の応答の模擬演習をおこなった。自分たちだけならまだしも、命令してことをおこなわせた部下たちをこれ以上悲惨な目にあわせたくはなかった。収容されたグアム・ストッケードの毎日は"虐待の地獄"といってよかった。

…このような状況の中で、古木少佐と井上大尉は裁判を迎えた。「被告・陸軍少佐古木秀策は昭和二十年五月より同年八月にいたるあいだヤルート島において非武装のマーシャル島民合計十三名を、前後五回にわたり第一回はレソールなど四名、第二回はアルデンなど三名、第三回はチニタなど二名、第四回はアンデーラなど二名、第五回はメジカなど二名を、スパイ容疑をもって正式の裁判に附せず殺害し、当時現場において施行中の日本刑法第百十九条および戦争法規ならびに慣習に違反した」というのが古木にたいする起訴状の内容であった。昭和二十二年三月初旬に起訴されて、およそ一ヵ月の審理ののち四月十八日に判決がくだされた。刑は終身刑であった。井上大尉のほうも一ヵ月半ばかりのちに裁判された。起訴内容は、「昭和二十年四月ごろ、非武装のマーシャル島民八名を正当な裁判に附せず同島において殺害し、当時現地において施行中の日本刑法および戦争法規ならびに慣習に違反した」と、起訴理由は古木少佐の場合と同じようなものであった。米軍の"戦争裁判"でありながら、日本刑法を持ち出さなければならないところに、これらの裁判の矛盾があらわれているともいえるだろう。二ヵ月あまり審理が続いて、判決は古木少佐と同じく終身刑であった。

憤りの中にも二人はひそかな救いをおぼえていた。二人の作戦は成功し、その陳述を信じた米軍側は処刑を手伝った二人の部下たちをストッケードの外に出し、逆に検察側の証人として利用していた。古木少佐と井上大尉にしてみれば、災禍を最小限にとどめ、二人だけが罪を負うことができたという思いがあったという。



上記の旧日本軍による軍律審判も、【弁護人無し】の軍事裁判でした。既に書いている通り、日本が未批准だった【俘虜の待遇に関する条約(※1929年ジュネーブ俘虜条約)】には弁護人の規定があったのですが、その規定がまた微妙で、【俘虜(=交戦資格者)】を想定したものだったのです。上記ケースの様な、【島民工作員(=戦争犯罪者)】を想定したものではありません。加えて、本条約に未加入だった日本は、【準用する=必要な変更を加えて適用する】との方針で、もっぱら軍律審判においては【弁護人無し】で対応していたのは、既に述べている通りです。



俘虜の待遇に関する条約 一九二九年

第五款 俘慮と官憲との関係
第三章 俘慮に対する処罰 三 訴追

第六十二条 [弁護人の帯同]
俘虜は其の選択する有資格の弁護人を帯同し且必要に応じ適当なる通訳を用ふる権利を有すべし
俘虜は捕獲国に依り弁論の開始前適当なる時機に其の権利に付通告を受くべし
俘虜が選択せざる場合に於ては保護国は該俘虜に弁護人を付することを得べし
捕獲国は保護国の請求に基き弁護を為す資格ある者の名簿を保護国に送付すべし
保護国の代表者は訴訟弁論に立会ふ権利を有すべし
右の原則に対する唯一の例外は国家の治安の為訴訟弁論の秘密を要する場合なりとす此の場合には捕獲国は保護国に之を予告すべし



日本が批准していた【陸戦の法規慣例に関する条約(※1907年のハーグ第四条約)】には、裁判の手続きに関する規定は全く無く、弁護人の規定もありませんでした。故に、【各国の任意】に委ねられていたわけで、米国自身も【特に規定する所が無い】としており、【弁護人の有無】が、裁判の正当性の根拠になるものではないとわかっていたはずです。米軍側が、正式な裁判ではないと認定した根拠について、【弁護人の有無】に言及している文言も見当たりません。要するに、何をもって【正式な裁判ではない】と認定したのか全く不明なのです。



『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

第四章 敵国領土の占領 第三款 占領地の軍事司法 大一項 軍律及び軍事法廷

七七五 軍律に依りて犯罪を処断する機関は、稀には陸海軍軍法会議を以て充つることあるも、多くは軍司令官に於て任意に構成する所の特設の軍法会議である。その名称は或は日清戦役に於けるが如く軍事法院といひ、日露戦役に於けるが如く軍事法廷といひ、支那事変に於けるが如く軍罰処分会議といふも可い。その構成及び管轄は、国に依り時に従ひ勿論その揆を一にしない。米国の一八六三年のリーバー陸戦法規には、第十三条に『軍事司法管轄権に二種あり。一は国内法律の明定するものに係り、二は交戦の普通法より来るものとす。……その一に属するものは軍法会議の管轄とし、二に係るもの即ち法律の規定に依り軍法会議の管轄に属せざるものは軍事委員会之を審問す。』と規定してその管轄を明らかにせるが、言ふ所の軍事委員会(military commissionで他国の軍事法廷に該当する)の構成のことに就ては特に規定する所が無い。



『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

第三章 戦闘 第四款 間諜 第二項 間諜の処罰

六二七 間諜は以前はこれを捕らえたる軍において一応審問したるうえすぐ処罰(多くは絞銃殺)する風であったが、今日ではこれを戒め、陸戦法規慣例集規則の第三〇条に『現行中捕らえられたる間諜は裁判を経るに非ざれば之を罰することを得ず』とあるが如く、裁判に付した上でなければ之を処罰するを得ないこととなった。一段の進歩である。勿論その裁判は専ら軍事法廷で、そこには弁護人がある訳ではなく、又本人自身の挙ぐる反証とても充分に聴取せらるるや否やは疑はしき場合もあらんが、兎に角処罰に裁判を経るを要すとしてあるだけでも、その無きに勝や勿論である。…



『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

勿論軍律の規定事項には専横過酷の嫌あるものも多きは当然で、常時における法の観念に照らさば、いずれの文明交戦国の軍律にも議すべきものあるを免れない。

けれども軍律の目的は、犯罪の処罰そのものよりも軍に有害なる犯行を予戒的に防止するのが主で、平たく言えば厳罰をもって予め住民を威嚇するにあるから、苛厳の罰例を掲げたからとて是非ともこれを課すとは限らず、情状を酌量してその適用を自在にする、そこに軍律の伸縮性を認めるべきである。

将た軍律の犯人には多くの例において弁護人を附せず、被告の陳述と審判官の判断だけにて擬律処断するのであるから、被告の利益を考慮せざる不都合の制と云えば云えぬでもないが、占領地とても元々戦地であり、戦地のことは常時の規矩準縄をもって律し得ざる点少なからずあるの事実を斟酌せねばならぬ。



にもかかわらず、古木少佐と井上大尉の両名は、【正式な裁判に付せずに殺害した】という理由で終身刑に処されました。結局、旧日本軍関係者は、

裁判をやればやったで【正当な裁判ではなかったから】と言いがかりを付けられて処罰される運命だったのだと思います。


次に下記をご覧下さい。旧日本軍による【華僑粛清】については、耳にした事ぐらいはあるのではないでしょうか。肯定派のどのHPを見ても、旧日本軍による一方的な戦争犯罪行為の様に吹聴されていますが、その実態を見てみると、どうやらそうではなかった様です。【華僑達の残虐な一面】が如実に表れており、戦後吹聴されている【華僑粛清】が、肯定派達による【捏造】である可能性を示唆しています。下記、【アピ事件】をご覧下さい。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

アピ事件
英軍側が裁判地をボルネオに移したのはシンガポールに法廷をさがすのが難しいという理由もあったろうが、やはり現地で現地民をまきこんだ戦時中の最大の事件……"アピ事件"があったためと思われる。

アピ事件とはジェッセルトンのアピに住む郭衡南という青年華僑が、米フィリピン軍の将校であったソワリス大佐の示唆を受けてリーダーとなり、華僑を糾合するとともに地元民たちを扇動して昭和十八年十月九日夜の双十節を期して大暴動をおこした事件であった。それまで郭衡南はひそかに兵器を集め同志をつのってメンガタル東方山地を根城にして攻撃の訓練をおこない、準備を整えていた。華僑と現地民を合わせてその数は七百名にのぼり、郭衡南は総司令官といってもよかった。

これら七百名の集団は双十節の日に日本人たちを襲撃し、女子どもを含む日本人およそ五十名を殺害し、さらに日本軍に協力していた巡回警察官、現地民など十名をも殺し、掠奪、放火、強姦と暴虐をほしいままにした。
当時、ジェッセルトンに駐留する日本軍の兵力(憲兵隊四、野戦郵便隊四、飛行場大隊二)は少なった。当時の記録が残っているが、その暴虐の実態には眼をそむけるばかりのものがある。

「十月九日夜、ジェッセルトン居住日本人十三名を射殺したのちバラン(凶器)にて斬首。それらの首をメンガタル地区に携行。十二日に首祭りを実施したのち麻袋に投げ入れて密林内に埋める」
「右同夜、トアラン居住の台湾拓殖社員・浜田(仮名)ほか十一名を捕らえ、うち五名は当夜のうちにトアラン街にて衆人環視のもとに射殺。他の六名はおよそ一週間、山中を連行したのちにムンジャン山中にて斬首。その間、浜田夫人は多数の暴徒により強姦される
「十月十日、ランギラン地区において日本人二名を捕らえ、付近の住民数百名を集め、その眼前にてバランにて数ヶ所負傷せしめたのち斬首す」
「十月十二日夜、ユタブル地区居住の日本人警察署長・芹田警部ほか三名を射殺し、斬首。死体を河中に投ず」

など、虐殺された日本人は老若男女を問わなかった。さらに建物の破壊・放火となると、各地の野戦郵便所、警察分署、埠頭税関、市民病院、日本人宿舎など手当たりしだいで、弾薬類も多く盗まれた。これにたいして日本軍側の第三七軍司令部はジェッセルトンに戦闘司令所を進め、佐合鐸治中佐を討伐隊長として憲兵・警察と協力して暴徒を逮捕し、地元民の鎮静化にあたった。山中に潜伏した集団の一部は頑強に抵抗し、日本軍側にも二十名の戦死者を出したが、十二月中旬になってリーダーの郭衡南が捕らえられてから事件は急速に解決への道をたどった。

討伐隊が逮捕した暴徒はおよそ四百二十名で、取り調べたうえで三百二十名を日本軍の軍律会議に送り、ほかは釈放した。軍律会議では二百二十名を死刑とし、残る百名を懲役刑とし、刑を執行した。報復にたいしてはまた報復というのが戦争である。戦後になってジェッセルトン裁判が開かれると英軍側もこのアピ事件にこだわった。しかし郭衡南が率いた暴徒の非道な行為の数々は明らかになっており、処刑者が多かったとはいえ日本軍としては軍律裁判の手続きを踏んで刑を確定している。英軍側もむやみに関係者を捕えるわけにもいかなかった。

第一回の裁判ははやりこのアピ事件の捜査と対応・処置に関したもので、起訴事実は、「英領ボルネオ、ランギラン地区において昭和十八年十月、ボルネオ住民一名の殺害に関与し、また同月二十七日ごろ、メンガタル憲兵隊本部付近においてボルネオ住民たる中国婦人一名を殺害した」として、第三七軍憲兵隊クチン分隊・加藤忠一郎憲兵軍曹が被告席に坐らされた。加藤軍曹のほうは身におぼえのないことで、現地民の言いがかりといってもよかった。検察側の証人として立ったその現地民は、検察官と打ち合わせていた対応だけはできたが、予期しない反対尋問を受けると何も答えられなかった。

合理的な証言が得られないので、事件の信憑性も疑われる。結局は、初回の裁判に関するかぎり、加藤軍曹は無罪を言い渡された。英軍側としては不満であったにちがいない。加藤軍曹についてはもう一度裁判を開いて刑を確定している。結果的に、アピ事件に関した裁判は、いずれも強引な関連づけといっていいものだが、四件をもって終わった。被告もまた四名で、宮本久憲兵軍曹(絞首刑)、中尾正二憲兵准尉(禁固十年)、加藤忠一郎憲兵軍曹(二回目の裁判で禁固十五年)、西山二郎憲兵軍曹(禁固十二年)という判決であった。



事件そのものは残虐性を極めており、本来であれば全員を死刑にしても良さそうなものなのですが、捕えた支那人匪賊等420名のうち、【取り調べたうえで三百二十名を日本軍の軍律会議に送り、ほかは釈放した】とありますので、公正に取り調べを行った上で軍事裁判にかけていた事が伺えます。本件についても、【被告弁護人は無し】の軍律審判ではあったとは思いますが、犯行内容は究極的なまでに悪質で、戦後の英軍も、本件旧日本軍による【軍事裁判(※軍律審判)そのものを訴追する事はできなかった】様です。しかしながら、現地華僑に対する配慮の必要もあったのかのでしょうか、現地民の言いがかり(※要するに、現地民による「でっち上げ」)を根拠として、宮本久憲兵軍曹は絞首刑に処されてしまいました。

旧日本軍が公正な裁判をやっていても関係なかったのです。連合軍は、裁判の有無に関係なく、【罪をでっち上げてでも】旧日本軍関係者を処罰するつもりだったのです。

改めて、下記肯定派の言い草をご覧下さい。こんなデタラメな事を吹聴していて、本当に呆れます。下記肯定派は、twitter上では左巻き界隈から支持を受けている様ですが、本HP的には【馬鹿の代名詞的な位置付け】となっています。本人は、「私は本をたくさん読みました」と吹聴していて失笑してしまいますが、日本語が読めてない人の様にしか思えません。



例えば戦後のBC級裁判では、必ずと言っていいほど、ゲリラの処刑にあたりきちんと裁判を行ったか

が争点となりました。「シンガポール華僑虐殺」裁判がその典型です…


処刑にあたりきちんと裁判が行われていた場合は、連合国もそう無茶な判決は出せなかったようです。


参考までに、この肯定派の日本語レベルは、以下にまとめております。興味をお持ちの方は、リンクにはしておりませんので、コピー・ペーストしてご覧下さい。[ http://oira0001.sitemix.jp/omake_frame01.html ]


ついでですので、肯定派の大好きないわゆる【シンガポール華僑虐殺】を見てみたいと思います。本件について、結論から言えば、【無裁判による処断】でした。旧日本軍としては、反日分子に対する【掃討戦】という位置付けでしたので、当初から裁判の予定はありませんでした。

この件については、BC級戦犯裁判として旧日本軍関係者の裁判がシンガポールで開かれたのですが、極東国際軍事裁判でも証人が出廷し、証言を行っていた様です。証人は【杉田一次】氏(※本件当時は陸軍中佐)で、第25軍(※本件当時は山下奉文大将指揮下)参謀だった様です。杉田証人自身は、本件に直接かかわったわけではなく、戦後に行われた連合軍による戦犯裁判に備えて、陸軍内部での再調査にかかわった様です。本件当事者の一人であった河村参郎少将(※シンガポールで行われたBC級戦犯裁判により死刑判決)の日記等も調査しており、信憑性はかなり高いと思われます。

少し長いのですが、以下に証言を引用したいと思います。ポイントは、【現地華僑によるゲリラ的な抵抗活動があったのは間違いない】という点です。要するに、旧日本軍側としては、掃討戦を行う理由があったのです。この点については、検察側からも特に反論は無く、【事実として認定された】と見て間違いありません。また、【無裁判による処断】だった事は杉田証人も認めているのですが、検察側から、【裁判を行うべきだったのではありませんか】等との質問も、特に無かった様です。



極東國際軍事裁判速記録. 第263號 (昭和22年9月3日)
[ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10269519 ]


〇法廷執行官 『裁判長閣下杉田証人はただいま出廷いたしました。それより宣誓を開始いたします。』

〇法廷執行官 『裁判長閣下、証人は宣誓を終えました。証人はその宣誓口供書に署名捺印いたしました。』

〇フリーマン弁護人 『証人あなたの住所氏名を述べてください。』

〇杉田証人 『杉田一次、東京都世田谷区北澤二丁目一七四』

〇フリーマン弁護人 『証人に弁護側文書一九二一号をお示し願います。杉田証人、それはあなたの宣誓口供書であり、そしてあなたはそれに署名いたしましたか。』

〇杉田証人 『そうであります。』

〇フリーマン弁護人 『その内容は信実にして正確なものでありますか。』

〇杉田証人 『内容の一部を訂正していただきたいと思います。』

〇フリーマン弁護人 『その正誤すべき場所を示してください。』

〇杉田証人 『第三項の「殺された華僑は約五千人といふ証言が為されている相でありますが私の日側当局より得た情報によると実際は夫れよりも少ないやうです」この項を削除していただきとうございます。』

〇裁判長 『それははなはだ奇妙なことです。』

〇フリーマン弁護人 『その項を除きましてあなたの宣誓口供書はすべて正確で正しいものでありますか。』

〇杉田証人 『そうであります。』

〇フリーマン弁護人 『訂正を終えました弁護側文書、一九二一号を証拠として提出いたします。』

〇裁判長 『通例の条件付で受理いたします。』
[ 書記 弁護側文書一九二一号は法廷証三〇六八号といたします。]

〇フリーマン弁護人 『法廷証三〇六八号を朗読いたします。』

二、馬来(※「マレー」の事)作戦開始に当り山下軍司令官の下された訓示(焼却された)には原住民との友好を第一とする方針なる旨を強調され又新嘉坡(※「シンガポール」の事)陥落に当りて二月八日頃新嘉坡を接収する方針として『新嘉坡陥落は南方各民族のみならず世界各国に与へる影響大なるものありますから事故を起さずに模範的にやること』を定めて居りました。我々は其の方針に遵って行動して居りました。又山下大将は其の降伏勧告文(英軍側にあると思ふ)に於てパーシバル将軍に市民の大量に上る殺傷を招く抵抗を止めて早く降伏することを勧められて居り又、山下、パーシバル両将軍の会見時にも英国市民及婦女子を保護することを約束されました。

三、新嘉坡島攻撃間日本軍にも相当大なる損害(馬来全作戦間の二分の一の損害あり)があり陥落後日英間の空気は不良であり又華僑に対する日本軍将兵の気分は全作戦の進むにつれ華僑の作戦妨害により段々悪くなつて来て居りました。華僑の作戦妨害の例を申上げますと次の様であります。

(イ)昭和十六年十二月末頃タイピン北方山林中に於て華僑百数十名は武器を持ちて立籠り我が兵站戦の擾乱軍需品の焼夷を企図しました。

(ロ)昭和十六年十二月下旬カンパル付近の戦闘にて夜間屡々我が部隊付近に信号弾上り捜索の結果華僑の所為なることが判明しました。

(ハ)昭和十七年一月中旬ゲマス及セガマツト付近の戦闘並にクアラランプールに対する敵の空襲時の飛行場付近に同じく信号弾による敵砲火又は敵機の誘導をなしたのは華僑の所為なること判明しました。又一月中旬ムール付近の近衛師団の渡河に際し華僑は敵機の夜間爆撃を誘導しました。

(ニ)昭和十七年一月中旬及下旬近衛師団のマラツカ、バトパハト付近の戦闘間華僑はマラツカ海上の敵潜水艦と通謀し潜水艦よりの諜者の侵入誘導、保護に任じマラツカ海上よりする敵の艦砲射撃を容易且つ有利ならしめました。

(ホ)軍用通信機が華僑により破壊せられた其の数は多くありました。

此の間軍司令官は開戦当初の訓示を変更せらるることなく唯作戦を妨害せること明らかなるものに対しては厳罰を以て臨むべきことを強調せられていました。又日本軍将兵中悪いことをしたものに対しては厳格なる態度で臨まれました。終戦後の調査に依り軍司令官は昭和十七年二月十七日軍命令を下達せられたことが判りました。本命令は純作戦命令により敵性華僑を掃蕩する為市内外に逃避せる華僑を処断せられたのであります。私としては其の現場は勿論のこと一死体と雖も見たことがありません。本件に関しては其の後南方総軍司令部でも反対の意見であり勿論その様な命令を出した事はなく又三月下旬頃南方に来られた武藤中将も敵性華僑掃蕩策に反対の意向を漏して居られたと私共は聞きました。…

六、法廷第四七六号即ち「馬来作戦闘に於ける非人道的行為に関する調査概要」以下五部より成る書類の内、日記抜萃二月十八日より記載の日本紙二枚より成る部分を除いて私は承知しています。是の書類は昭和二十年十一月二十二日俘虜調査委員会第四班で使用したもので、その内「シンガポールに於ける華僑処断状況」(昭和二十年十月二十三日)というのは初め私が主として作成しましたが、それが不十分なる為に研究の上、同年十一月二十二日「馬来作戦闘に於ける非人道的行為に関する調査概要」と改定し橋詰少佐の援助を得て主として私が書いたものであります。但し多数の挿入削除は外のものがしたのであります。之を起案して此の書類の第一頁にある通り俘虜中央調査委員会及俘虜関係調査部へ提出しましたが、之の委員会並に調査部で之れを採用したか否かは此の書類からは分かりません。又此の書類の中には鉛筆書で削除又は別紙等との書き込みがありますが、誰がしたのか私には分かりません。反対尋問があればしてください。

〇裁判長 『モーネン中佐』

〇モーネン検察官 『あなたの口供書の中の、まだ読まれませんでした部分におきまして、昭和十七年三月十六日までは、情報部主任参謀であったと書いてありますが、それは事実でありますか。』

〇杉田証人 『そうであります。』

〇モーネン検察官 『そういたしますと、あなたのその参謀将校としての任務上、山下将軍に対して、あなたはシンガポールにどういうことが起こっておったかということを、報告することがあなたの義務ではなかったのですか。』
[ モニター 参謀将校を情報部主任参謀と訂正します。]

〇杉田証人 『それは私の義務でありました。』

〇モーネン検察官 『あなたのその資格におきまして、あなたは、二月二十一日から中国人の捕縛ということが始まったということを知っておられたわけですね。』

〇杉田証人 『ところが当時私の支那での任務は、連絡将校になっておりまして、情報に関することは、私はほとんどそれに手をつけることができなかったのであります。』

〇モーネン検察官 『事実といたしまして、あなたは二月二十一日に、中国人の捕縛ということが始まったということを知っておりますか。』

〇杉田証人 『その当時は始まったということは知っておりません。』

〇モーネン検察官 『その後に至りまして、その華僑虐殺事件というものを、検察するための委員会の委員長の位置にあなたはつきまして。そうですね。』

〇杉田証人 『それは終戦後のことであります。』

〇モーネン検察官 『そういたしますと、あなたは華僑の捕縛が二月二十一日に始まったということを確かめたわけでありますね。』

〇杉田証人 『そうであります。』

〇モーネン検察官 そういたしまして、華僑約五千人を死刑に処したということは、二月の二十三日ごろまでにそれが行われたということをあなたは、知っておるわけでありますね。

〇杉田証人 『それは全部五千人殺されたということは二十一日ごろから、以後全期間を通じてのことであります。

〇モーネン検察官 『とにかくあなたは、その河村少将の日記というものを使いまして、そうしてこの華僑の虐殺が起こったことを調べたわけでありますね。』

〇杉田証人 『そうであります。河村少将の日記以外に、当時参加したところの人々から知ったのであります。』

〇モーネン検察官 『この河村少将は、この華僑の捕縛の任務を掌っておった人でありましたね。』

〇杉田証人 『河村少将は警備司令官でありまして、その下に憲兵司令官がありました。』

〇モーネン検察官 『あなたはその河村少将の日記、二月二十三日に記入してあるところを見て、午前十一時より部隊長会議に出席、そして状況を聴いた。そして現在までのところ、罰せられた者の数は大体五千名であるという記入を見たわけでありますね。』

〇杉田証人 『あったかもそれませぬが、今記憶にありません。』

〇モーネン検察官 『これらの華僑というものは、結局いかなる形式の裁判にもかけられなかった者ではありませんか。

〇杉田証人 『そうであります。

〇裁判長 『証人、あなたはなぜあなたの宣誓口供書のあの部分を削除なさったのですか。あの部分を削除される場合読み上げたので、結局われわれはその内容を承知しており、法廷記録にも載っておるのです。』

〇杉田証人 『約五千人が殺されたということは、私はシンガポールにおいても証言をいたしましたが、日本軍の当局から得たその数が少なかった。その数の少ないということは、私も当時のいろいろの状況からそう考えられるのでありますが、日本軍の当局からそういうような情報を得たということは言えなかったので、私は消したのであります。』

〇裁判長 『その説明はこの宣誓口供書に、その部分を残しておくということの言訳になります。』

〇杉田証人 『いやそうはならぬと思います。私は日本軍の当局から、それを五千名よりも少ないということを得たわけではありません。』

〇モーネン検察官 『あなたは日本軍南方総司令部は、この掃蕩作戦というものをとるべきではないという意見であったということを、その後知ったと言っております。』
[ モニター 「掃蕩作戦」を「掃蕩策」と訂正します。]

〇杉田証人 『そうであります。』

〇モーネン検察官 『あなたはだれからそういうことを聴きましたか。』

〇杉田証人 『当時南方総軍からシンガポールにまいりましたところの、幕僚たちからそういう話を聴きました。』

〇モーネン検察官 『またあなたは、こういうことを聴いたということになっておりますが、すなわち南方総軍は、掃蕩策をとらないということに決定したということ。』

〇杉田証人 『いやそういうことにはなっておりません。』

〇モーネン検察官 『証人、あなたの今された返答がよくわからないのですが。』

〇杉田証人 『南方総軍では、今の掃蕩策につきましては、反対であるということを聴き、またそういうことを二十五軍の山下大将に命令をしたということは、ないということを聴いたのであります。』

〇モーネン検察官 『それではその掃蕩策というものは、山下大将によって命ぜられたものでありますか。』

〇杉田証人 『そうであります。』

〇モーネン検察官 『それでは華僑を殺すということ、そのことに関して山下大将のなしましたことを罰するために、南方総軍はどういうことをしましたか。』

〇杉田証人 『別に南方総軍として処罰はしませんでした。』

……

〇フリーマン弁護人 『証人の退廷を許可願います。』

〇裁判長 『通例の条件付で退廷を許します。』
[ 杉田証人退廷 ]

〇フリーマン弁護人 『ここに法廷証第四六七号より、二十五ページの(イ)及び二十八ページの二行目から始まる説を朗読します。これはマレー作戦中における華僑の陰謀に関するものであります。』

[ 朗読 ]
四、馬来半島に於ける粛正状況
(1)馬来半島の治安状況
馬来作戦に於ける華僑の策動情況に関しては前進せるところなるも、新嘉坡陥落後に在りても多数の抗日華僑は都市に又山林中に潜入して、その中には共産主義を標榜して相互連繋を取り確乎たる組織の下統制ある抗日運動を展開すべく活発なる活動を続行し、盛に武器弾薬糧秣資金並に同志の獲得等に勉めあり。此の間我集積鹵獲兵器の掠奪我将兵の暗殺通信線交通網の破壊一般良民の殺害脅迫掠奪等を擅(※「ほしいまま」)になしありて馬来半島の治安は戦後(※注、シンガポール陥落後の事)に在りても尚ほ寒心すべきもの大なりしなり。之を要するに馬来半島に於ける粛正工作は日本軍隊自体の為めのみならず一般市民(一般華僑、馬来人、印度人等)の生命財産擁護の為行はれたる治安警備の行動にして其の細部の状況は資料に乏しく明かならざるを遺憾とするも、抗日華僑にして生命を絶ちたる者は悉く討伐間の戦闘行動中に銃弾等に斃れたるものなり。困難なる討伐に於て我方に於ても相当数の犠牲者を発生せり。



上記最後の箇所には、第25軍からの報告書と思われるものが朗読されていますが、現地華僑による【我将兵の暗殺】や、【一般良民の殺害脅迫掠奪等】への言及があり、これらは、明白に戦争犯罪行為である事は言うまでもありません。【討伐に於て我方に於ても相当数の犠牲者を発生せり】とあり、掃討戦がかなりの困難を伴った事も伺えます。一連の掃討戦により処断された華僑の総数は、大ざっぱではありますが、【おおよそ5,000人】と見るのが妥当だと思われます。当時のシンガポール現地新聞も、その様に報じていました。

本件戦犯裁判が、結局、どの様な結末だったかのかは、下記をご覧下さい。絞首刑は、河村参郎少将と大石正幸憲兵大佐の二名、西村琢麿中将、横田昌隆中佐、城朝龍中佐、大西覚少佐、久松晴治大尉の五名は終身刑に止まり、全員死刑を覚悟していた弁護団側から見れば、予想外の【軽い判決】だった様です。途中、弁護側が【陸戦法規に基づいた正当な戦闘行為である】と主張しているのに対し、検察側が【軍事的必要(=交戦法規から逸脱した必要な軍事行動)は認めらない】と反論するなど、ちぐはぐなやり取りが見られますが、それはともかく、上記極東国際軍事裁判での杉田証人とのやり取りも踏まえると、連合軍側は、【捕えた華僑達を処断するのに裁判が必要だったか?】については全く争点にしていなかったと言えます。また、本裁判では、華僑達によるゲリラ的な活動があった事は明白なのですが、その点については判決にまったく触れられておらず、【一般居住民である華僑たちを虐殺した】と一方的に見なした上で、判決が導かれた様です。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

「華僑粛清事件」
内容別に分ければざっと以上のような裁判が続けられたわけだが、しかし、シンガポール裁判といえば、最も注目され、重大事とされるのは、いまなおシンガポールと日本とのあいだに深い傷痕として残っている「華僑粛清事件」なるものと、「双十節事件」であろう。「華僑粛清事件」とは、日本軍がシンガポールを攻略した直後、昭和十七年二月中旬から三月上旬にわたっておこなった"集団虐殺事件"で、被害者の数は数千名とも数万名ともいわれる(裁判では五千名と称せられた)。…被害者の数についても数百人だ、いや数万人だという議論が後をたたないが、ここでは裁判の概要だけを紹介しておこう。…

審理がおこなわれた場所はシンガポール市の中心部にあるビクトリア・メモリアール・ホールに開設された法廷。開廷は昭和二十二年三月十日午前十時。被告はいずれも陸軍の西村琢磨中将、河村参郎少将、大石正幸中佐、横田昌隆中佐、城朝龍少佐、大西覚少佐、久松晴治大尉の七名。起訴状の内容は、「一九四二年二月十八日から同年三月三日までの間、シンガポール島において、被告人・西村琢磨は近衛師団長として、被告人・河村参郎は警備隊司令官として、また他の被告人は憲兵隊の将校として、一般住民の生命および安寧に関しすべての責任を有するところ、戦争の法規ならびに慣例に違反し、シンガポール島の中国一般居住民に対して、主としてポンゴール、チャンギー・ロード、アンバー・ロード、シンガポール・ドック、マタイカン、チャンギー・スピット、タナメラにおいて、これら虐殺に関与した」というものであった。

検察官側が提出した証拠摘要書によると、発端は、シンガポール占領直後、山下奉文軍司令官が麾下の西村、河村、松井、牟田口(廉也)の四司令官に発した一般指令にある。その要旨は、「中国民は隔離分類せらるべき集中地区に集合せしむべし。好ましからざる分子すなわち反日感情を有する者、前政府官庁官吏などは拉致して殺害すべし」というものであった。これは総司令部の原案であり、実際の中国人殺害の時期や場所についての選定・範囲・手段は各地区の指揮官の責任に委ねられた。

その結果、各地で実施された虐殺は二つの系統に分類されるとする。一つは、「近衛師団地区に居住する一般住民にたいしておこなわれたもので、これはポンゴールおよびチャンギー・ロード十マイル(約十六キロ)里標で実施された」「これについては近衛師団長の西村中将が責任を負うべきもの」であるという。いま一つは、「警備隊地区における一般住民の虐殺(その地区以外で現実に発生したものを含む)」で、その責は警備隊司令官であった河村参郎中将にある。受領した命令を各小地区の指揮官に伝達した大西覚少佐、横田昌隆中佐も同一責任者としての罪をまぬがれないという。射殺された中国人の数について検察官側があげたのは、

「二月二十八日、ポンゴール・ロード末端近くの海岸にて約三百名」
「三月一日頃、チャンギー・ロード十マイル里標近くにて二百名から三百名」 「二月二十三日、東海岸ロードの七・五マイル(約十二キロ)里標のあたりで約五百名」
「二月二十日から二十三日の間にマタイカン一マイル(約一・六キロ)地点にて約百二十名、タナメラ地域チャンギー海岸にて五百名六百名」
「二月十六日以降、タンジョン・ペガーにて約百五十名」
「二月二十一日以降、フォート・カニングのチャンギー海岸にて二百名から四百名」
「二月二十三日、アンバー・ロード近くの海岸にて約五百名」

という厖大なものであった。法廷では日本から派遣された加久田清正、黒瀬正三郎、藤岩睦郎の三弁護士が弁護にあたったが、被告の河村参郎中将は尋問に答えてこう証言している。

「作戦上の掃蕩についての命令はどういうものであったか」
「それは……軍は早急に新作戦のため主力を移動せんとす。しかれどもシンガポールの治安と秩序ははなはだ不良なり。地下工作の抗日華僑は、軍の作戦を妨害するゲリラとして勢力を得つつあり。総司令官はこれら抗日分子の絶滅を企図す。河村少将(当時)はただちにその管轄下の地域の作戦上の本掃蕩を指導し、抗日分子の一掃を実施すべし。本計画の実施の手段方法は参謀長をして指示せしむ……といったようなものでした。この命令を受けたあと、山下総司令官は"本工作は十分に実行されるよう注意せよ"と私どもを督励しました」
「参謀長からはどのような指示を受けたか」
「掃蕩の時期、対象、手段および方法について、つぎのような指示がありました。時期は二月二十一日、二十二日、二十三日とする。対象は、"元義勇軍の所属員""共産党員""盗人""武器を所持したり隠匿したりしている者""日本の作戦を妨害する分子および治安と秩序を妨害するおそれがある分子"など。また掃蕩の方法については、"監視下の場所を囲む警戒線を設け、抗日分子の逃走を防止する""適当な中心地域内を区画して、指示された地域内にすべての中国人を、現地民の協力者とともに集め、すべての抗日分子を審査する""上記の件に対応して、疑わしい場所を差し押さえ、隠匿されているすべての武器を没収する""すべての抗日容疑者を他の者から隔離する""すべての抗日分子を秘密裡に処分する。本件遂行のための場所はシンガポール市内であってもかまわない"というような指示を受けました」

という。一部の抗日華僑が降伏の命令を無視して反日活動を継続し、民間人に変装してゲリラ活動をおこなおうとしたことは証拠によって明らかになっていた。そこで各地区では上層部からの命令の下達によって指示された"対象"を射殺したということになる。被告の一人は、「私の地区では百名前後を"処分"したが、上層部を満足させるため二百数十名と数を水増しして報告した。各地区ともそうであったと思う。供述した人数が起訴状ではさらに水増しされ、民間人たちの証言によって、なお数はふやされた」と告白しているが、各地区の人数を総合すればまさに"大量射殺"であったことは間違いない。

裁判にのぞんだ日本人弁護人たちも被告全員の死刑判決を覚悟して弁護にあたった。弁護で強調した論点は二つあり、一つは、降伏の命令を無視してゲリラ戦を計画されたとき、これを掃蕩するのは"不法"ではないという主張であった。「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(一九〇七年ヘーグにおいて調印)によれば、規則第四十条に、「当事者ノ一方ニ於テ休戦規約ノ重大ナル違反アリタルトキハ他ノ一方ハ規約廃棄ノ権利ヲ有スルノミナラズ緊急ノ場合ニ於テハ直ニ戦闘ヲ開始スルコトヲ得」とあり、これは不法の"虐殺"ではなく正当な"戦闘"である、という論である。いま一つは、日本軍における命令服従関係の特性、統帥命令の絶対性を説明し、強調した。

これにたいして検察側は、「軍事上の必要性が戦争法規からのいかなる逸脱も免責の事由となるという証拠はない」として弁護人の主張を一蹴した。ヘーグ条約の前文には、「条規ハ軍事上ノ必要ノ許ス限リ、努メテ戦争ノ惨害ヲ軽減スル希望ヲ以テ定メラレタルモノニシテ、交戦者相互間ノ関係及人民トノ関係ニ於テ交戦者ノ行動ノ一般ノ準縄(規則)タルベキモノトス」とある。「軍事上の必要性」はすでにこの規則の示すところ、制約されている事実を示している、という。そしてこの事件においては、第四十六条(「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産ナラビニ宗教ノ信仰及ソノ遵行ハ之ヲ尊重スベシ。私有財産ハ之ヲ没収スルコトヲ得ズ」)や禁止条項の第二十三条(「戦争ノ必要上ヤムヲ得ザル場合ヲ除キ外敵ノ財産ヲ破壊シ又ハ押収スルコト」)にみられる"制約"への考慮がまったくないし、どの点で軍事上の必要の緊急かつ避けがたい要求があるのか不明であって、「ただ数千の市民の大ざっぱな逮捕と殺害は、その作戦上の権限の継続に依存しようとする一種の変質的な軍事行動である」とした。

判決は昭和二十二年四月二日にくだされたが、全員死刑を覚悟していた弁護人たちにとってそれは不幸中の幸いといっていい、予想外のものであった。絞首刑の判決は河村参郎少将と大石正幸憲兵大佐の二人(昭和二十二年六月二十六日刑執行)にとどまり、西村琢麿中将、横田昌隆中佐、城朝龍中佐、大西覚少佐、久松晴治大尉の五名は終身刑となった。

全員死刑とならなかった誘因の一つに弁護人の一人は、日本人弁護側のアドバイザーを任ぜられていたベイト大尉という青年将校の助言をあげている。「ベイト大尉は、"グッド・フライデー(復活祭前の金曜日)"が近づいたので、その日までにMitigation(酌量減刑の嘆願)の段階に入るようにすれば宗教的に好影響があると強く主張した。日本人弁護団としてはその効果を疑問視していたが、もはや最大限の努力を続けた後で、出すべき新資料もないので一応その助言を受け入れて実行した。その結果、死刑は二名にとどまった。弁護団としてはこの"嘆願"が裁判に影響するとは予想しなかった。日本人の宗教生活と異なってキリスト教が毎日の生活や民衆に深く根づいていることに強い印象を受けた。法廷での宣誓もバイブルを持たせて宣誓させるが、日本人が良心に誓うのにたいし、彼らは神に誓う。そこにも宣誓の質の相違を感じた」と言っている。この青年将校は裁判の進行中にもさまざまな方法で弁護し、かつてエジプト攻略のとき英軍も類似のゲリラ殲滅作戦を敢行した例をあげたり、広島・長崎における原爆による一般民衆の惨禍の資料を提出したりして、判決を有利に導いたという。日本側にとって"恵まれた判決"であっても、しかし、中国人・華僑側にとってこれははなはだ不満な判決であった。当然のことに中国系の新聞は裁判の不当を難じ、数千の中国人の生命がわずか二名の日本人の生命と引き換えにされるのは許し難い。裁判をやりなおせ、という論評があいついだ。…

この事件の責を負って絞首台にのぼった河村参郎少将は、その遺書『十三階段を上る』の中で、「命令の絶対性がなくて軍隊の存在はない。私は至高の命令に服従し、全力を尽くした。悔いはない」と軍人らしい覚悟を述べ、このような悲劇をもたらした原因について、「本来これらの処断は、当然軍律発布の上、容疑者は、之を軍律会議に付し、罪状相当の処刑を行うべきである。それを掃蕩作戦命令によって処断したのは、形式上些か妥当ではない点があるが、それを知りつつ軍が敢えて強行しなければならなかった原因は、早急に行われる兵力転用に伴い、在昭南島(シンガポール)守備兵力を極度に減少しなければならない実情にあったためである。…」と言い遺している。



上記を見てもわかると思いますが、旧日本軍は、酔狂で華僑の人達を殺害したわけではありません。【一部の抗日華僑が降伏の命令を無視して反日活動を継続し、民間人に変装してゲリラ活動をおこなおうとしたことは証拠によって明らかになっていた】とありますが、旧日本軍としては、掃討戦を行う理由が十分にあったのです。華僑達を処断する際の裁判の有無については争点にならなかった事は前述しましたが、興味を引くのが下記部分です。詳細な史料が欲しいところですが、要するに、【連合軍側も捕えた戦争犯罪者を処断する際に必ずしも裁判にかけていたわけではない】のです。



『孤島の土となるとも BC級戦犯裁判』
岩川隆著(※ノンフィクション作家)


…この青年将校(※注、ベイト大尉)は裁判の進行中にもさまざまな方法で弁護し、かつてエジプト攻略のとき英軍も類似のゲリラ殲滅作戦(※注、裁判無しでゲリラを処断)を敢行した例をあげたり、広島・長崎における原爆による一般民衆の惨禍の資料を提出したりして、判決を有利に導いたという。



上記英軍の対応は、ある意味当然の事です。本HPでは繰り返し指摘していますが、従来の国際慣習法においては、捕えた戦争犯罪者を処断する際には必ず裁判にかけなければならないとした【国際慣習法上の解釈は無かった】のです。あくまでも、【審問が必要】とされていたのみで、裁判が必要だったとの論は、戦後の肯定派達による【でっち上げ】なのです。(※詳細は【第35項】参照)



【審問】を全然行わずに戦時犯罪人を処罰する事は【国際慣習法規上で禁じられている】


『戦時国際法論』 立作太郎博士(※国際法学者)

凡そ戦時犯罪人は、軍事裁判所又は交戦国の任意に定むる裁判所に於て審問すべきものである。然れども全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。




【審問】には特定の手続法は無く手続法に則って行われる普通の【裁判とは異なる】


『戦時国際法講義 第二巻』
信夫淳平博士(※国際法学者)


審問には特定の手続法とては無く、従って手続法に違ふたるの故を以て被告を免訴するといふ普通の裁判とは異なる。又審問に記録を取るも取らざるも可なりで、宣告の効力には関係が無い。



また、絞首刑判決を受けた河村参郎少将は、遺書となった『十三階段を上る』の中で、【本来これらの処断は、当然軍律発布の上、容疑者は、之を軍律会議に付し、罪状相当の処刑を行うべきである】と書いてはいますが、戦後に行われた連合軍による戦犯裁判の本質が【復讐裁判】であり、本件裁判では絞首刑二名と予想外に【軽い判決】だった事を踏まえると、

仮に旧日本軍が正式な裁判によって処断したとしても、本件については二名程度の絞首刑者は出ていたと思うのですが、如何でしょうか。

改めて下記をご覧下さい。本HP的には、下記肯定派は【馬鹿の代名詞的な位置付け】です。日本語が全く読めていない人としか思えません。一体どの裁判史料を、どう読んだら下記結論になるのでしょうか。繰り返しますが、連合軍側は、【裁判を行うべきだったかどうか】については全く争点にしていません。戦後の肯定派達による勝手な【後付け解釈論】を根拠にして、【デマ】を吹聴するのは止めて頂きたいものです。



例えば戦後のBC級裁判では、必ずと言っていいほど、ゲリラの処刑にあたりきちんと裁判を行ったか

が争点となりました。「シンガポール華僑虐殺」裁判がその典型です…


処刑にあたりきちんと裁判が行われていた場合は、連合国もそう無茶な判決は出せなかったようです。


再掲しますが、この肯定派の日本語レベルは、以下にまとめております。興味をお持ちの方は、リンクにはしておりませんので、コピー・ペーストしてご覧下さい。[ http://oira0001.sitemix.jp/omake_frame01.html ]


次に下記をご覧下さい。【サンダンカン事件】と呼ばれてる様ですが、これも本当に酷い裁判です。旧日本軍は、【非常の場合】を想定した軍律審判手続きを制定していた様で、【現地州法院や現地警察署とも連係】しており、現地住民への配慮が伺えます。その手続に則り、かねてより調査済みの敵性不良分子(=スパイ)を処断したのですが、これまた戦後のBC級戦犯裁判によって、中田新一大尉は絞首刑の判決を受けています。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

サンダンカン事件
ほかにはサンダンカン事件というのもとりあげられた。これは昭和二十年五月二十七日、北ボルネオのサンダンカン港の沖合に連合軍の上陸用舟艇が来襲し、軍艦からの砲撃と飛行機による空爆によっていよいよ上陸されるというとき、日本軍としては腹背に攻撃を受けてはかなわぬので、かねて調査ずみの"敵性不良分子(スパイ)"二十七名をいっせいに検挙して処刑したという事件である。この地を守備していたのは大塚貢大佐麾下の警備隊であったが、裁判の被告となったのはスパイたちの取り調べと処分に直接たずさわった憲兵分隊の中田新一憲兵大尉と小坂茂夫准尉であった。

"敵性不良分子"については軍の作戦命令として、非常の場合は正式の審判をおこなうことなく書面審理によって処置せよ、という通達がすでに四月ごろに出されており、同時に、軍律裁判は現地の州法院判事がおこなうことができるということも示達が発せられていた。憲兵分隊の中田新一憲兵大尉はこのルールを一応守った。スパイ処刑の際には州法院判事に連絡し、書面審理による軍律裁判を経て、全員死刑という判決も得ている。処刑も憲兵分隊の独断でおこなったのではなく、当時の指揮系統によって大塚大佐の命を受けて実行に踏みきったのである。しかし戦後の裁判となると英軍側は許さなかった。

ボルネオ第三七軍憲兵隊長も出廷して、"日本軍における上官命令の性質""略式軍律裁判の合法性"について述べたが受けつけない。地元のサンダカン警察署長も判事による略式軍律裁判の手続きと経過を証言したが、とりあげなかった。中田新一大尉は昭和二十二年一月二十五日に絞首刑の判決(刑執行は四月二十五日)を受けた。小坂茂夫准尉は禁固二十年の刑であった。ここでも"尉官受難"の結果となった。

スパイ処分にからむこの種の事件は各地のBC級裁判にきまってとりあげられているが、とりわけ英軍裁判の場合は多い。現地での裁判であり、戦争中に自分たちにくみして戦ってくれた"同志"たちのことを英軍としてはなおざりにすることはできない。むしろ大いにたたえなければならぬし、植民地政策という面からみてもその姿勢は必要である。日本軍側がいかに戦闘法規を守って処刑していようとも、そんなことは知ったことではなかった。



繰り返しますが、従来の国際慣習法においては、軍事裁判(※軍律審判も含む)についての規程は何も定められていませんでした。その制度は各国の【任意】に委ねられており、一般的に、軍事裁判の【手続きは簡略なもの】でした。旧日本軍による上記軍事裁判手続きにおいては、【全く違法性は無かった】と言えるでしょう。



軍律審判の【手続きは簡略なもの】で構わず軍事裁判所の構成は【適宜之を定めて良い】


『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

第四章 敵国領土の占領 第三款 占領地の軍事司法 大一項 軍律及び軍事法廷

七七五 軍律に依りて犯罪を処断する機関は、稀には陸海軍軍法会議を以て充つることあるも、多くは軍司令官に於て任意に構成する所の特設の軍法会議である。その名称は或は日清戦役に於けるが如く軍事法院といひ、日露戦役に於けるが如く軍事法廷といひ、支那事変に於けるが如く軍罰処分会議といふも可い。その構成及び管轄は、国に依り時に従ひ勿論その揆を一にしない。米国の一八六三年のリーバー陸戦法規には、第十三条に『軍事司法管轄権に二種あり。一は国内法律の明定するものに係り、二は交戦の普通法より来るものとす。……その一に属するものは軍法会議の管轄とし、二に係るもの即ち法律の規定に依り軍法会議の管轄に属せざるものは軍事委員会之を審問す。』と規定してその管轄を明らかにせるが、言ふ所の軍事委員会(military commissionで他国の軍事法廷に該当する)の構成のことに就ては特に規定する所が無い。



『上海戦と国際法』 信夫淳平博士(※国際法学者)

軍律は軍令若くは軍事刑法とはその性質を異にする。軍令は陸海空軍の統帥に関し勅定を経たる規程で、公示を要するものは特定の方式を履みたる上官報にて公示する(明治四十年九月軍令第一号、第一条及第三条)。軍事刑法即ち陸軍刑法、海軍刑法、陸海軍軍法会議法等は、憲法上の手続を経て制定公布する国家の法律で、本国及び占領地を通じ専ら軍人軍属(及び特定の場合に於ける軍人軍属以外の者)に限りて之を適用し、その裁判機関は法律を以て構成せられたる軍法会議(Court martial)である。然るに軍律は憲法上に謂ふ法律ではなく、占領司令官が己の便宜と欲する所に従つて制定布告する軍の命令で、その裁判機関は軍法会議でなくして、占領軍司令官に於て任意に構成せしむる軍事法廷である(英語では多く之を Military Court under Martial Law と称する)。



『日露戦役国際公法』 篠田治策著(※法学博士、京城帝国大学総長)

第七章 軍律 第一節 軍律の性質
…軍律は陸軍刑法其他の軍事法規の如く国家主権によりて発布せらるるものにあらずして占領軍司令官の意図なり司令官が其欲するところに従ひ自己の軍隊の安全を図るが為めに適宜に規定し得べきものなり。従て其裁判手続きの如きも至て簡略なるを例とす。



『戦時国際法講義』 高橋作衛、遠藤源六著(※国際法学者)

第一編 陸戦法規 第四章 敵の財産に対する交戦者の権利義務 第六節 占領

第三 司法
占領地内に於ける司法事務も特殊の必要なき限りは旧来の儘に継続すべきものとす。特に裁判所の構成の如き然り。然れども占領地住民の犯罪は其土地の公安に害あるのみならず占領軍の安危に係ること大なるを以て必要なる範囲に於て制限又は変更を受くることは疑を容れず。仮令ば民事若くは軍事に何等の関係なき刑事に関する事件の如きは其土地の法律に従ひ従来の裁判所に於て管轄するも何等の差支なかるべきも軍事に関係する犯罪又は軍令違反に付ては占領軍に属する軍法会議又は軍令会議に於て其占領者の法令に従ひ簡単なる手続きに依り処断するが如し。



にもかかわらず、旧日本軍関係者は処罰されたわけです。

きちんと裁判手続きを踏んでいても無意味だったのです。連合軍は、裁判の有無に関係なく、旧日本軍関係者を処罰する方針だったのです。


次に下記をご覧下さい。下記は、【ロアクール事件】と呼ばれている様ですが、これも、上記までの一連の流れと全く同じで、旧日本軍関係者は、【軍事裁判の手続きを経て死刑に処した】にもかかわらず、戦後のオランダ軍によるBC級戦犯裁判によって、【仮装裁判によって死刑を宣告した】と訴追されてしまったわけです。【仮装裁判】とは一体どういう定義なのかよくわかりませんが、要するに、

きちんと裁判をやっていたかどうかは関係ないのです。現地民の手前上、最初から旧日本軍関係者を処罰する方針だったのです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

ロアクール事件
…この法廷で裁判された件数は二十。被告数は八十八名(死刑十九名、無期一名、有期六十四名、無罪四名)にのぼった。被告数が多いのはいわゆる"ロアクール事件"というものが裁かれたためで、この事件だけで被告数は四十三名にもなり、この数はオランダ裁判のうち最多であった。事件の内容は内部ゲリラの殲滅作戦にかかわるものである。

前述したようにバリクパパンの沖合に連合国軍の艦艇が現れて艦砲射撃を開始したのは昭和二十年六月十五日のことであった。日本軍は敵の上陸に対応するとともに、千早第二号作戦命令にもとづき地区指揮官の権限によって"反日陰謀団団員"および"スパイ"を徹底的に掃蕩しなければならない立場に追い込まれた。ロアクール地区でも反日分子やスパイたちをつぎつぎに逮捕し、裁判によって死刑を宣告し、部下たちが処刑した。

オランダ側の起訴状をみるとつぎのようになっている。

「昭和二十年七月一日から八月十五日(終戦の日)まで、被告人等は三善部隊としてロアクールおよびその周辺を行動中、隊長および隊員として法令公報一九四六年第四五号第十条に該当する"団体の資格においての戦争犯罪"を犯した。

すなわち昭和二十年七月三十日ごろ、連合国軍に呼応して抗日反乱の陰謀ありとの想像のもとに、婦女子および子どもを含む約百二十八名の市民を大量検挙し、そのうち約百名を仮装裁判によって死刑を宣告。彼らを炭鉱第四号廃坑に連行して斬首・刺殺などの方法により殺害のうえ、それらの死体を同廃坑に投棄したが、一部の者は死に至らざるまま投坑せられ、また蹲踞したまま生き埋めにするなど、その処刑方法は残虐をきわめた。

また、同部隊に八月に入って前記同様の嫌疑をもって逮捕した約三十名(いち一名は女子)を前後三回にわたってロアクールよりテンガロンに至る街道沿いのゴム園において斬首などの方法によって殺害処刑した。

さらに同部隊は、日時は明瞭ならざるも、終戦直前にバリクパパンよりロアクールに移送されてきた俘虜約三十名およびインドネシア人男子五名、妊婦二名を前記ゴム園において正当な理由なく斬首などの方法により殺害処刑した」

これが事実とすればまことに無残なことだが、日本軍側に言わせると、「人数は多くされており最後の事件は事実無根」ということになる。佐々木弁護人は、起訴事実のうち最後の件は事実無根であることを各方面から論証して、反駁した。そのほかの事実については、彼らを逮捕したことは正当であり、処刑は戦争遂行の必要からやむを得ない行為であったとして無罪を主張。仮に有罪としても、責任者はべつにして、部下たちの行為は命令による不可抗力のもので無罪であると強調した。これにたいして法廷は、最後の事実を証拠不十分と認め、他の二つの事実についてのみ審理をすすめて判決をくだした。死刑を宣告されたのは、ロアクール地区指揮官の三善孝海軍大佐、ロアクール地区大隊長・高松信夫海軍主計少佐、副官兼第二中隊第三小隊長・亘就市海軍中尉、第二中隊長(のち大隊長)の水口繁海軍主計大尉の四名であった。無罪は三名のみで、他の三十六名もことごとく有罪、有期刑を言い渡された。

三善海軍大佐は当時五十六歳。「この判決は当初より予期される処なりしも部下より三名の士官が自分と同じく死刑を宣告されしことはまことに遺憾。ひたすら彼らの減刑が実現せんことを神にかけて祈念している」と故国に出した手紙の中に書いているが、部下たちの減刑はならなかった。処刑(昭和二十三年十月四日)される日も、「作戦完遂の努力」はやむを得ないものであり、祖国日本の再興を願いつつオランダ兵の銃先に立ち一斉射撃を受けるが、無念なのは三名の部下を道連れにしたことだ、と遺書の中にくり返している。日本側にとっては、被告にされた者が多数であったこともあり、死刑を宣告された上官が部下の身を案じ、部下はまた上官の運命に涙するというところがこの裁判の特徴でもあった。




次に下記をご覧下さい。戦時中の下記悲惨な事件について、現地旧日本軍の対応は、やむを得なかったと思われます。戦争犯罪行為に対する軍律を制定した上で処断しており、無秩序に処断していたわけではありません。当初は連合軍司令官も【軍律は妥当なり】との見解を示していた様ですが、植民地を旧日本軍に奪われたオランダ側は、現地民に対して再び支配者的な地位を誇示するためか、あえて旧日本軍関係者を訴追したものと思われます。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

現地採用兵補(※注、現地で採用された補充兵)の復讐
…つぎには極端な食糧不足から発生した事件が多いのもホーランディア裁判の特徴であった。当時の北部・西部のニューギニアは不毛未開の土地といってよかった。補給輸送の杜絶した日本軍は 飢餓状態に陥り、自給自足の努力も追いつかなかった。いわば餓鬼となって食料の奪い合いや盗みが横行し、果ては"人肉嗜食"のため殺人をおかすというような状況さえ現出した。

軍としてはこれらの混乱を制するには厳格な軍律を施行する以外にはなかった。各兵団は昭和十九年六月ごろに「軍糧秣を窃盗したる者は何人を問はず銃殺に処す」という軍律を制定し、同時に、独立中隊以上の指揮官ならびに特設機関の長にたいし"その刑事事件について審問処理の権限を与える"という緊急措置をとった。異常事態における非常の権限授与であって、このことによって実際に日本人の兵の中にも処刑される者が出ている。

"兵補"にも処刑される者があいついだが、戦後になってこの軍律が妥当なものであるかどうかがあらためて問題にされた。西部ニューギニアのマノクワリに進駐した連合軍の司令官は実情を目の当りにして、「軍律は妥当なり」と認めたことが伝えられたが、その後に上陸したオランダ側はこれを認めなかった。軍律の否認はそれらの処刑を正当なものと認めないということであり、"戦争犯罪"として取り扱うということでもあった。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

菩薩行の弁護
…「個人ごとの裁判ではあるが、一緒に法廷に招集して審理された。このようにして数人分をまとめて連日開廷する方法が採られたので、開始されると審理は一気にすすみ徹夜で弁護の準備をしなければならぬこともあった。証拠法は、英米法と違い、反対訊問の機会を与えなかった。検察官が認めたものをそのまま裁判官が認めるという必要はむろんないのだが、結果的にそうなっていた。日本の旧刑事訴訟法では司法警察官作成の調書は、地方裁判所の第一審事件の場合は、原則として形式的証拠力がなく、予審判事が取り調べたものについてのみ効力を認めている。しかしオランダ側は、原則として、警察官が取り調べたものも証拠としての効力を認めた」と青木猶吉弁護人は述べている。青木弁護人は山形地裁から満州の地方法院に転じ、間島省延吉地方法院長、奉天高等法院勤務ののち退職して奉天で弁護士を開業中に終戦を迎えたという経歴の持ち主である。在職中に思想問題を取り扱っていたという密告があって終戦直後は奉天警察に捕えられ、現地処分かソ連抑留かと危惧していたところ、幸いに疑いが晴れて釈放された。引き揚げて帰郷の途中、妻はチフスのため京都で死亡。戦争のむなしさと被害者について思いを深くしていたとき復員局が外地でおこなわれる戦争裁判のための弁護人を募集していることを知った。思い立って、二十年の裁判官の経験を生かして弁護に当たりたいと申し出たところ、復員局の係官たちは、「これまでみずから積極的にそこまで言ってくれた人は一人もいない。すぐにお願いしたい」と言ったという。…

オランダは自国の統治下にあったインドネシア人が反旗をひるがえしつつあるのにたいして威令を示すため、日本人を極刑に処することでその後の統治に役立たせようとしていた。バタビアで聞いたところでは、日本人戦犯容疑者の二割を死刑に求刑するという方針だということであった。このような政治目的を定めて日本人に死刑を科そうとしているので、弁護のための努力は、その壁にぶつかって功を奉さなかった。鉄の壁、という感があった。勝った者が負けた者を裁判することは、裁判を公平におこなうことを不可能にする。検察官と取調官は元日本軍の俘虜として収容されていた人物たちであった。それが復讐し得る立場になり、目前にその機会を与えられたのであるから、報復をおこなうのは当然で、人間性の弱点ともいえる。かりに日本人がその立場に立ったとしても同じだったのではなかろうか。結局、勝てば官軍、負ければ賊軍、という表現が端的に戦争裁判の実態を示している。証拠についてみても、歪曲し、デッチあげで、戦争犯罪が構成されていた。検察官や取調官のみならず、裁判官自身も歪められた予断を抱いているので私は法廷の弁論で、"勝者の裁判に合法性なし"と述べた。戦争裁判は第三国によっておこなわれるべきだろう。第三国の裁判がおこなわれないときはせめて、被害地や犯行地でない場所でおこなうなど、個人感情が移らぬようにしておこなえば、まだ少しはあらためることができるだろう。」



本件は、結果的に、【無裁判による処断】となってはしまいましたが、繰り返し述べている通り、当時の国際慣習法においては、【戦争犯罪者に対する裁判義務は存在しなかった】のですから、緊急時における対応して、上記旧日本軍側の対応に違法性は無かったと言えます。(※詳細は【第35項】参照)



【審問】を全然行わずに戦時犯罪人を処罰する事は【国際慣習法規上で禁じられている】


『戦時国際法論』 立作太郎博士(※国際法学者)

凡そ戦時犯罪人は、軍事裁判所又は交戦国の任意に定むる裁判所に於て審問すべきものである。然れども全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。




【審問】には特定の手続法は無く手続法に則って行われる普通の【裁判とは異なる】


『戦時国際法講義 第二巻』
信夫淳平博士(※国際法学者)


審問には特定の手続法とては無く、従って手続法に違ふたるの故を以て被告を免訴するといふ普通の裁判とは異なる。又審問に記録を取るも取らざるも可なりで、宣告の効力には関係が無い。



それにもかかわらず、オランダ側は、旧日本軍関係者を処罰しました。

旧日本軍関係者が、きちんと裁判をやっていたかどうかは【関係なかった】のです。


少し話は変りますが、次に下記をご覧下さい。下記は、【中共軍による無裁判処刑】の実例です。終戦直後、中共軍は国府軍との内戦に突入しており、どさくさ紛れに、この様な処断が行われていた様ですが、要は、【連合軍側も同じ様な処断をやっていた】という事です。先にも紹介した英軍の例もありますが、どの国でも、混乱時や緊急時においては、同じ様な事態が発生していたのです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

満州裁判 二重の裁判
終戦直後の満州は、ソ連軍、中共軍(八路軍)、国府軍(国民政府軍)と入れかわり立ちかわり攻防をくり返し、各地区で「とったりとられたり」の状態が続いたことは、前に述べたとおりである。そのような状況の中で、帰国をのぞむ日本人たちが逃げ惑い、強姦されたり殺害されたりして、悲惨な運命をたどる者が数多くあったこともよく知られている。戦犯裁判を考えた場合も、国府軍の法廷に引き出されたのちふたたび中共軍に逮捕されて裁判を受けたり、逆に中共軍に裁かれたのちに国府軍の裁判を受けるといったような、二重の裁判を受ける者がかなり多くみられたのも満州の地ならではの特徴である。それらの実態は体験者たちの報告を聞くとよく分かる。たとえば満州国警察官(錦州省錦州市に勤務。終戦時、錦州警務庁刑事、監督警尉)であった谷春松(福島県出身)はまず中共軍に捕らえられ、その暴虐を目の当たりにしたと言っている。

終戦直後、谷はおよそ六十戸ある日本人住宅街(ほとんどは老人・婦女子)を暴民から守るため、いわゆる隣組活動に力を尽くしていた。日本の軍隊が早期に撤退していったため錦州市街地は掠奪や暴力によって支配されていた。錦州市勤務を昭和十年来続けてきた谷は住民から頼りにされていたのである。いちはやく進入していた中共軍の兵が谷の住居をたずねてきたのは昭和二十年十一月のことであった。たまたま谷は理髪店に行っていた。逃げようと思えば逃げられたが、それでは隣組のほかの日本人のだれかが人質にとられてしまう。意を決して中共軍の本部に出かけて行くと、「おまえは長いあいだ警察官として活躍しているが、その間に中国人を取り調べて拷問しているだろう」と訊かれた。谷としては、たしかに逮捕して調べたことはあるが、拷問といわれるような行為は、天地神明に誓って、やったことがない。否定すると、その日は帰宅を許されたものの一週間後の夕刻、元警務庁の建物で催される治安会議に出かけるところを、ほかの出席メンバーとともに逮捕された。

いきなり縄をかけられ後手に縛られた。錦州市の副市長であった匹田捨三氏も私の目の前で縛られた。見れば、中共軍の兵は憲兵少尉以下十五、六名。私たちをトラックに乗せて、元警務庁とは逆の方向に走り始めた。泣いたり哀願する者もあり、全員がともに銃殺されるらしいという。縛られた手の縄をなんとかして解こうとするうちに、空き地に来て、トラックは止まった。県長の董さんが引きずりおろされ、有無を言わせず泣きながら銃殺された。匹田副市長はさすがに悠然としていたが、座ったままのところを二発撃たれて息を引きとった。つぎは、私の番であった。さいわい手の縄がほどけそうになったので、トラックから降ろされる瞬間、私は反対側にとび降りてひたすら逃げた」という。途中で中共軍の歩哨に呼びとめられ、誤魔化して通り抜けようとすると、発砲してくる。公園の茂みに隠れたり、裏通りを走ったりして、ようやく知人の家に駆け込み、押入れの中に隠れたという。裁判も取り調べもあったものではない。後から考えれば、この日、昭和二十年十一月二十三日の夕刻、蒋介石の国府軍が錦州に入城し、中共軍は錦州を撤退せざるを得なかった。逃げるに際して、火事場さわぎの状態で、県長や副市長たちを殺害したのであった。

自宅に帰ることができた谷春松は、しかし、昭和二十一年五月十一日、日本に引き揚げのため錦州駅に集合したところを、今度は国府軍によって逮捕、連行される。拘留された場所は錦州市内大馬路にあった商工会議所の建物であった。「そこには、知り合いの憲兵、警察官、省公署の役人たちが多数いて、毎日拷問をかけられ、立って歩けない状態で、みんな這って動いていた。たとえば錦州地方検察庁次長の亀岡忠彰氏などは新聞紙を燃やした、いわゆる火あぶりのあい、やけどの傷がひどかった」という。…谷の場合は、昭和二十三年一月に釈放され、以後は市内の日本人経営の雑貨屋を手伝いながら戦犯拘留所への差し入れを続け、昭和二十三年五月下旬に錦州に向かい、葫蘆島を経て、六月十七日に佐世保に上陸した。



『孤島の土となるとも BC級戦犯裁判』
岩川隆著(※ノンフィクション作家)


…この青年将校(※注、ベイト大尉)は裁判の進行中にもさまざまな方法で弁護し、かつてエジプト攻略のとき英軍も類似のゲリラ殲滅作戦(※注、裁判無しでゲリラを処断)を敢行した例をあげたり、広島・長崎における原爆による一般民衆の惨禍の資料を提出したりして、判決を有利に導いたという。



肯定派達に、上記の様な事例を突き付けると、決まってこの様な屁理屈で抗弁してきます。



連合軍がそうだったからと言って旧日本軍の行いが許されるわけではありません。


上記の発想が【ひっくり返っている】のです。

連合軍側もそうであった以上、旧日本軍側だけを殊更取り上げるのは、明白に公平性が欠落しているナンセンスな歴史観なのです。

ちなみに、より人道法が完備された現代においてすら、この様な事例が発生している事を付言しておきます。



毎日新聞 『無抵抗イラク人射殺:交戦規定に違反せず 米海兵隊』 2005年05月06日

【ワシントン及川正也】 米軍によるイラク・ファルージャ掃討作戦中の昨年11月、米海兵隊員が無抵抗のイラク人負傷者を射殺した事件で、米海兵隊は4日、「交戦規定と一致する行動で、自己防衛のためだった」とする調査結果を発表した。これにより事件に関する軍法会議は開かれず、海兵隊員の刑事責任は問われないことになる。調査結果によると、事件は同13日にファルージャのモスク(イスラム礼拝堂)内で作戦行動中の海兵隊員がライフル銃で、イラク人3人を射殺。この様子を従軍取材していた米NBCテレビが撮影、武装していないイラク人1人の射殺直前の場面が放映された。ビデオによると、この海兵隊員は「死んだふりをしている」と叫んでから、銃撃していた。この海兵隊員は聴取に対し「襲いかかろうとしてきたので、自己防衛のために撃った」と主張。複数の目撃証言やビデオの検証、法医学的検証などと合わせて検討した結果、「交戦規定と矛盾しない」と判断、正当な戦闘行為と結論付けた。調査では、死んだふりをして不意を突いて襲撃してくることがある反米武装勢力の戦術なども考慮された。




以上、名著【「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」岩川隆著(※講談社)】から引用させて頂きましたが、本項を一通り読めば、普通の読解力がある人であれば、誰でも瞬時に気が付くと思います。

旧日本軍が、きちんと裁判をやったかどうかについては、何の意味も無かったのです。

連合軍側は、旧日本軍側が非の打ちどころのない完璧な裁判をやっていたとしても、【いや、その裁判は不当だ】と言いがかりを付けて、旧日本軍関係者を処罰するつもりだったのです。名著【「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」岩川隆著(※講談社)】には、その証拠が山ほど載っているのです。にもかかわらず、肯定派の言い草がこれです。



馬鹿の言い分その@


馬鹿の言い分そのA


上記twitterをご覧になれば失笑してしまうと思うのですが、

名著のタイトルは、『故郷の土となるとも』ではなく、『孤島の土となるとも』です。絶対読んでいませんよね、この人。



『孤島の土となるとも BC級戦犯裁判』


【デマ】を飛ばして、平然としている肯定派の厚顔無恥ぶりに呆れて、あえて晒しましたが、

この人は日本語が理解出来ない出自の人なのだろうな、と思う根拠は、本項を見て頂ければ一目瞭然だと思います。




--【第57項】 戦後のBC級戦犯裁判を根拠にする珍論 【前編】--

【第56項】へ   トップページに戻る   【第58項】へ