-- ◆【第04章】 いわゆる『南京事件』と支那敗残兵処断◆ --

--【第59項】 戦後のBC級戦犯裁判を根拠にする珍論 【後編】--

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本項では、引き続き【BC級戦犯裁判の実態】を見てみたいと思います。裁判の実態と言うより、【連合軍による虐待の実態】と言うべきなのですが、とくにかく酷いものです。大戦中の旧日本軍憲兵も、取り調べは厳しかったとは思うのですが、戦争中だった旧日本軍憲兵の対応と、戦争終了後の連合軍による対応は、等価で論じられるものではありません。

下記をご覧下さい。いわゆる旧日本軍関係者による【証言】が大半ですので、信憑性については、それはそれで検証する必要があるとは思いますが、どの証言も【異口同音】で、戦犯裁判の実態が事実上【復讐裁判】であった事を考えれば、下記証言はほぼ【真実】と見て間違いないでしょう。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

復員者による外地報告
以上の米軍による横浜裁判はいまとなって記録も公開されており、日本側にとって内容は苛酷に違いないが、外地の諸外国による戦犯裁判や戦犯者にたいする対応にくらべると、きわめて恵まれたものと言わなければならなかった。横浜裁判と外地の裁判とでは天国と地獄の差があると言ってもいい。…

「シンガポールにおける英軍の日本軍俘虜にたいする待遇は虐待と同じです。朝食はビスケット三枚、昼食も夕食もお粥で、野菜はほとんどたべさせてくれない。服務させられている仕事は波止場の荷役をはじめ市街地のどぶさらいや女性たちの産後の汚物の洗濯、婦人将校たちの下着類の洗濯などです。みな、ボロ着をまとって一日も早く日本に帰還できる日を待っています」とシンガポールのほうからの報告が入ってくる。

「オランダ兵から言語に絶する虐待を受けている。取り調べ中にサルマタ、フンドシまで脱がされ真裸にさせられて籐の棒で臀部を力いっぱい叩かれる。肉は切れ、棒に巻きつく。ある者はアリの群がりついている木の枝葉を裸に押しつけられ、全身をアリに食われた。あるときは拷問専用員ともいうべき逞しい現地民兵四、五人を連れてきて、それぞれに太い棒を持たせて叩かせる。拷問の結果、その場で絶命した者もある。口に入れるものはろくに支給されず、炊事場の流しの下の溝にたまっている飯粒をひそかにすくいあげ、泥水と一緒に飲み込むときもある。戦犯裁判というのはかたちだけのことで、これは復讐といっていい。このような惨憺たるわれわれの状況を復員省に伝えてもらいたい。日本は再建してかならずこの仇を討ってもらいたい」というバンジェルマシンからの連絡を伝えてくれる復員兵もあった。これら外地の裁判や戦犯収容所の実態は、数年後巣鴨プリズンに移管された人たちによって、『戦犯裁判の実相』(巣鴨法務委員編)として怒りをもって書きつけられているが、いまとなってみるとそれは正確な記録というよりも、むしも貴重な苦悶の証言集といったほうがふさわしい。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

グァム・クェゼリン裁判 "虐待"の毎日
…これでもまだいいほうで、中国側に逮捕された元奉天俘虜収容所所長の松田元治大佐などは監獄に運ばれたとき、虐待されたためもう歩くこともできなかった。香港占領地総督部の福知春男陸軍少将や山口教一法務大尉なども、いったん香港刑務所に収容されたため、イギリス兵によるすさまじい虐待を受けた。のちに述べるが、米軍あるいは米兵たちはまだしものこと、BC級裁判では"紳士の国"であるはずのイギリスおよびイギリス兵の虐待が最もはげしく、非人道的で、眼をそむけるばかりのものである。これはひときわ"誇り高い"国民が、その誇りをかつて傷つけられたことにたいする裏返しの復讐の感情のせいだったろうか。

米軍による上海法廷・監獄の場合もその虐待の例をあげていけば限りがないが、たとえば台湾軍律会議関係者たちが受けた虐待もその一つである。この事件では獄中で台湾軍司令官・安藤利吉大将が服毒自殺したのにつづいて松尾正三法務少佐も縊死するという悲劇が発生した。これに怒った監獄長のクラレンス・パーセック大尉は、事件の関係者のうち主なる六名を事務室に引っ張り出し、自殺予防と称して全員を素っ裸にさせた。厳重な身体検査ののちパンツ一枚だけの裸にしたまま六名を監獄の最上階にある独房の中にぶち込む。当時の上海の気温は日本内地の真冬だと思えば間違いない。床はコンクリート、三方の壁もコンクリート、正面は鉄格子、室内には取りつけられた寝台、机、椅子、様式便器があるのみで、木製のものはいっさいなかった。…一日目の昼食はなし。夕食はレーションの一部と便器用の水だけ。二日目になって監獄長は医師らしき人物を伴って巡視に来るもそのままにして姿を消す。夜も眠れず、三日目になると全員がほとんど神経も麻痺し、寒いという感覚もなくなり、ぼんやりして身体を抱いているだけであった。シャツとズボンと毛布一枚を与えられたのは三日目の午後である。以後も外に出ての運動はいっさい許されなかった。生きていられることが不思議なくらいの最小限の食べもので、それからおよそ三ヵ月あまり、法廷に引き出されるまで六名は暗い独房で過ごした。このような状況の中で、つぎつぎに絞首刑や終身刑が宣告されていったのである。



虐待の酷さもさることながら、その虐待の末の裁判ですから、まともな裁判であったはずがありません。【裁判ですら虐待行為の一種】と言ってもいいぐらいです。起訴事実まで捏造されてしまったら、裁かれる側の旧日本軍関係者達は、どうする事もできなかったでしょう。この様な裁判すらをも根拠にして、日本を非難する連中がいるというのは本当に呆れてしまいます。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

…英軍裁判の場合も、各地で逮捕・収容された日本人たちに与えられる毎日の食事は、片手に握ることができるほどの量であり、みな飢えに苦しみ、身体の衰弱とたたかわなければならなかった。作業に追い立てられる昼間も収容所に帰った夜間も、絶え間なく監視兵による虐待が続き、思考能力もなくなり、隙をみては地面にごろごろとよこたわる状態であった。ともに寝て無罪を信じて語っていた者が、翌日は死刑の宣告を受けて帰ってくる。もはや自分がいかなる行動を犯したのか、犯さなかったのかということは問題ではない。捕らえられ、起訴されるからには最悪の事態を覚悟しなければならなかった。ここまで英軍裁判をみてきて、米軍の横浜裁判などが一応は"事実"あるいは"真相"に執着をみせているのにたいし、こちらはかたち(法)のつじつま合わせにもっぱら終始し、"事実"の究明は二の次、三の次という感がまことに強い。起訴状には「虐待」「拷問」「殺害」といったおどろおどろしい名目が掲げられているが、その事実認定となるとたいていは漠然としており、ときにはまったく省略されており、真相や事実はどこかへ押しやられて、裁判は"起訴事実"をめぐる検察官側と弁護人側の法論議の場となっている場合が多い。被告にアリバイがあってもそれを無視されるケースや、強引に"関係者"に仕立てられるというケースが多く生まれている。ある上等兵はスパイ容疑で捕らえた現地民収容所の呼び出し係をつとめていたが、命令によって呼び出した現地民たちのうち二度と収容所に帰って来ない者があったので、彼らを殺害した"関係者"として十年の刑を宣告された。また、チャンギー刑務所の独房の壁に、「私は無罪だ」と血書して絞首台にのべって行った海軍のK兵曹は、起訴事実とはまったく無縁の人物であった。裁判に引き出された彼は否定し続けたが、判決では、「被告が事件に関係のないことはよく分かった。しかし別の事件に関係しているはずなので有罪である」として、死刑を宣告された。別の事件とはいったい何であろうか。刑を執行されるまでそのことについては知らされず、すべてをあきらめたK兵曹は、「英軍側にもその"事件"が何であるか説明できないでしょう。なぜなら起訴状にあらわれなかった"事件"だからです」と皮肉な言葉を残して死んでいった。こういった英軍裁判のいわば形式主義はほとんどのケースにみられ、日本側にとっての悲劇を多く生じた。英軍裁判の場合は、どの地においても傍聴席に日本人のすがたはなく、自分たちあるいは現地民のための裁判であり、母国の"植民地政策"と深く結びついていたことも見逃せない。




軍事裁判(※軍律審判も含む)は、本質的に占領地住民に対する【威嚇】的な意味合いがあり、裁判の際に弁護人を帯同せず、その手続きも簡略なものでした。即ち、【占領地=戦争・事変の最中】であるという軍事上の必要性のため、軍事裁判の制度自体は占領軍側に有利になっており、どこの国の軍事裁判でも、表向きは公正性を唱えつつも、判決の妥当性は副次的なものだったと考えられます。



【軍律審判(※軍律法廷)】は住民に軍律遵守徹底を目的とした【威嚇のための審判】


【軍律審判(※軍律法廷)】の手続自体は簡略なもので【弁護人の帯同は必要なかった】


『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

勿論軍律の規定事項には専横過酷の嫌あるものも多きは当然で、常時における法の観念に照らさば、いずれの文明交戦国の軍律にも議すべきものあるを免れない。

けれども軍律の目的は、犯罪の処罰そのものよりも軍に有害なる犯行を予戒的に防止するのが主で、平たく言えば厳罰をもって予め住民を威嚇するにあるから、苛厳の罰例を掲げたからとて是非ともこれを課すとは限らず、情状を酌量してその適用を自在にする、そこに軍律の伸縮性を認めるべきである。

将た軍律の犯人には多くの例において弁護人を附せず、被告の陳述と審判官の判断だけにて擬律処断するのであるから、被告の利益を考慮せざる不都合の制と云えば云えぬでもないが、占領地とても元々戦地であり、戦地のことは常時の規矩準縄をもって律し得ざる点少なからずあるの事実を斟酌せねばならぬ。



『南京事件と戦時国際法』 佐藤和男教授(※国際法学者)

軍律法廷は純然たる司法機関ではなく、統帥権に基づく機関であって、むしろ行政機関、あるいはせいぜい準司法機関というべきものである。

その行う審判は、機能的には軍事行動と把えるのが正確であり、その本来の目的は、戦争犯罪を行った敵対者の処断を通ずる威嚇によって、究極的には(占領地・作戦地帯における)自国軍隊の安全を確保することにあった。そのため、審判の手続は簡易にされ、軍罰(たいてい死刑)の執行は迅速であった。

軍律法廷の法的根拠は、国内法上は憲法に定める統帥権に、また国際法上は軍が行使する交戦権、わけても「敵国ノ領土ニ於ケル軍ノ権力」(ハーグ陸戦規則第三款)に存する。…



『戦時国際法提要 上巻』 信夫淳平博士(※国際法学者)

第三章 戦闘 第四款 間諜 第二項 間諜の処罰

六二七 間諜は以前はこれを捕らえたる軍において一応審問したるうえすぐ処罰(多くは絞銃殺)する風であったが、今日ではこれを戒め、陸戦法規慣例集規則の第三〇条に『現行中捕らえられたる間諜は裁判を経るに非ざれば之を罰することを得ず』とあるが如く、裁判に付した上でなければ之を処罰するを得ないこととなった。一段の進歩である。勿論その裁判は専ら軍事法廷で、そこには弁護人がある訳ではなく、又本人自身の挙ぐる反証とても充分に聴取せらるるや否やは疑はしき場合もあらんが、兎に角処罰に裁判を経るを要すとしてあるだけでも、その無きに勝や勿論である。…



『日露戦役国際公法』 篠田治策著(※法学博士、京城帝国大学総長)

第七章 軍律 第一節 軍律の性質

…軍律は陸軍刑法其他の軍事法規の如く国家主権によりて発布せらるるものにあらずして占領軍司令官の意図なり司令官が其欲するところに従ひ自己の軍隊の安全を図るが為めに適宜に規定し得べきものなり。従て其裁判手続きの如きも至て簡略なるを例とす。陸軍刑法及治罪法の如きは軍人軍属に適用せられ占領地人民に当然適用せらるべきものにあらず。又軍法会議の如きも法律により構成せられ其権限も亦法律により一定せるを以て軍律違反者を裁判すべきものにあらず。



しかしながら、【罪状を捏造する】というのは、法の濫用を通り越して無法の域に達していると言うべきでしょう。下記、窃盗犯として検挙されたデビッド氏は、旧日本軍による軍律審判により懲役三年の刑を受けた様ですが、死刑にはなっていなかった事が明白だったにもかかわらず、【三人の現地民の少年の証言】が根拠とされて、デビッド氏が【不法処刑された】事になってしまったとは、もはや言葉もありません。下記の様な戦犯裁判の一体どこに妥当性があるのでしょうか。肯定派の人達に、是非見解を伺いたいものです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

…この地の裁判は前述したようにほとんど海軍を被告としたものだったが、ただ一つだけ陸軍の独立混成第四連隊第二大隊の海野馬一少佐を裁いた法廷があった。海野少佐はポンティアナクの陸軍警備隊長として戦時中は俘虜収容所も管理していた。起訴状によると、「昭和十七年六月、俘虜収容所より逃走したオランダ軍俘虜ファン・レーダー中尉ほか二名を逮捕するや否や、ただちに部下に命じて斬首処刑せしめ、その死体をカプアス河に投棄せしめた」という。海野少佐としては終戦までまったくあずかり知らぬことだったが、責任者にして命令という烙印を押されて逮捕され、被告にされてしまった。死刑の宣告を受けたのは昭和二十二年の十一月二十八日。「一九時、『死刑を宣告す』と、実に簡単に片づけられた。呆然たらざるを得ない。馬鹿気た気がする。が、格別悲しいとは思はなかった。(中略)本年三月以来、『和蘭裁判だから……』と覚悟は決めていた」と日記に書いている。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

…村上正吾通訳に続いて二番目に死刑の判決を受けたのはフローレス島マルメラの憲兵分隊長であった山口亘利憲兵大尉である。山口大尉は憲兵少尉候補二十一期。東京憲兵隊本部、富田憲兵分隊長を経て昭和十八年一月、第五野戦憲兵隊付として出征し、アンボン、フローレス島に勤務し、スンバ島で終戦を迎えていた。オランダ側が提示した"罪状"は、「昭和十九年の夏ごろ、フローレス島のエンデー監獄に勤務していた看守デビッドを不法に処刑した」というものだったが、山口大尉としてはまったくあずかり知らぬことであった。金田弁護人たちが調べてみると、デビッドなる看守は勤務中に窃盗をはたらいてエンデー海軍特警隊に検挙され、軍律会議の裁判にかけられて懲役三年の判決言い渡しを受け、昭和十九年七月に海軍軍用機によってジャワ方面に身柄を送られたという事実が判明した。その身柄を運んだのが海軍特警隊の郡司兵曹長であったことも分かった。

郡司兵曹長を証人に呼ぶことは無理な状態にあったが、裁判となると金田弁護人はこまかに反証をあげて、被告人が無罪であること、デビッドが"不法処刑"された事実はないことなどを主張した。しかしオランダ側はこれを認めなかった。告訴の拠りどころとしたのはかつて日本軍に雇用されていた三人の現地民の少年の"証言"であり、この三人は法廷でも検察官の誘導尋問にうなずき、「私たちは山口が処刑している現場を見た」と証言したのと同じ結果になった。金田弁護人がなおも"調査"を申し出たにもかかわらず、山口憲兵大尉にたいしては、昭和二十三年二月十八日に死刑の判決がくだされた。わずか二日間(二月五日、七日)の審理であった。




下記については、あえて何も書かないでおきます。下記の様な真実は、オールドメディア上においては、故意に無視されたり、蔑ろにされたりする事が多いのですが、否定派支持の皆さんには、これを機会に是非知って頂きたいのです。言いがかりによって死刑に処された前田利貴陸軍大尉は、後世の日本人に伝えたかった事が沢山あったのだと思います。本HPが、微力ながらも、お手伝いできていれば幸いです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

"はい左様なら"
昭和二十三年四月二十九日、天皇誕生日の日には前田利貴陸軍大尉が死刑を宣告された。オランダ側がいう"罪状"は、「被告は戦時中、第四八師団司令部特務機関長の地位にあり、昭和十九年五月および十一月、ティモール島およびサウ島においてスパイ容疑をもって逮捕した現地民に拷問を加えて死に至らしめた」というのである。前田大尉は加賀・前田利家の子孫で華族の長男であり、学習院から法政大学に入って卒業後は三井物産に勤めていた。馬術が得意で学生時代には大会でしばしば優勝し、次期オリンピックの出場候補としても知られ、当時三十一歳、穏やかで肝のすわった、ユーモアに富む人物であったという。

「現地民の死」は前田の知らぬことであり責任も別人が負うべきであったが、オランダ側はなにかにつけて本人の毛並みの良さに眼をつけていたようなところがある。本人も、「取り調べを受けた時から私が将校であり且つ又華族の子弟であり法学士である為に、検事のシェファー中尉が非常に反感を持って居たので、今日(註・死刑判決)あるを予期し前以て遺髪を送った次第だが、兄(註・本人)の場合は原住民間の人望もあり、検事側の証人ルヂヤタニヤも公判の時には証言をぐらつかせて居たので最後まで希望を捨てなかったが、やはり此の様な結果になってしまった」(遺書)と弟や妹に書き残している。つぎの文も紹介しておいたほうがいいだろう。

「終戦後とかく部下から種々非難され、又此種戦犯者の取り調べに際しても、上官と部下が互いに責任をなすり合ひ、果ては外国人に対し我身可愛さから部下又は上官を売り、無事帰国した人々も多い中で、兄は常に部下たる石田、石渡両君及他の人々から愛され、召喚を受けてからは只管『部下及上官を無事内地に帰す』と云ふ初心を最後迄守り通せた事、加ふるに原住民特にサウ島民の総べてが最後の公判の時まで私の為に有利な証言をして呉れた事は、サウ島警備隊長時代(兄の責任のもとに行はれた一切の仕事)の至誠が天に通じているものと、之れ亦現在如何なる罪の汚名を受くるとも兄は幸福である一つの理由だ。原住民は皆『前田は曲った事のきらひな真直な人間だ、善人であるからなんとか助けて下さい』と嘆願して呉れたのだ。如何に兄を極悪人なりと軍法会議で決定しても一般の声は善人なりと言ふ。之れ丈でも充分ではないか」責任者の立場を十分に自覚し、覚悟した態度であった。

死刑を宣告された死刑囚たちは別のキャンプにともに収容されたが、ここでもアンボン人など監視兵による虐待が夜となく昼となく続いた。犬や猫の真似をさせたり、夜中におこして二時間もコンクリートの上に座らせて罵詈雑言を浴びせたり、腕立て伏せをくり返させて蹴りつけたり、お互いに日本人同士を殴らせたり、床の上にまいた飯粒を這いつくばって食べさせたり、その虐待の方法はよくも思いついたという種類のもので、死刑囚たちは半死半生となった。最初は身の不運を嘆く気持ちが強かったが、そのうちに死刑囚たちは、「われわれはどうせ死ぬのだ。この虐待はわれわれ一身に引き受け、同胞の人たちにすこしでも虐待のおよばぬように祈ろう」と申し合わせ、虐待されるたびに心中、そのことを神に祈ったという。…

死刑囚のキャンプにいた前田利貴大尉と穴井秀夫兵長は昭和二十三年九月九日午前五時四十分、ともに処刑された。前田大尉は最後まで誇りを失わなかった。死の前日に残る死刑囚たちに世話になったお礼の文を書き、「最後の希望として検事に申し出たこと」をつぎのように伝えた。

「1.目かくしをせぬ事、2.手を縛らぬ事、3.国歌奉唱、陛下の万歳三唱、4.古武士の髪に香をたき込んだのに倣い香水一ビン(之は死体を処理するものに対する私個人の心づかいであります)、 5.遺書、遺髪の送付、以上全部承認。当時私の決心は、自動車から下りたら、裁判長並びに立会者に微笑と共に挙手の礼をし、最後に遺留品として眼鏡を渡し、それから日本の方を向いて脱帽最敬礼、 国歌奉唱、両陛下万歳三唱、合掌して海行かばの上の句を唱え、下の句を奉唱し、此の世をば銃声と共に"はい左様なら"と言ふ順に行くつもりで、私の様な凡人に死の直前に歌が唄へるかどうか、之が 最後の難問題だと思ひます。皆様に対し遺留品として糸、針、古新聞、本(馬来語)、燐寸、其の他手拭、歯ぶらし、衣類なんでも申出に応じます。前田」

前夜に前田大尉はともに死ぬ穴井兵長にたいしてこまごまと注意を与えていたという。

「穴井君、左のポケットの上に白布で丸く縫いつけましたか」
「はい、明るいうちにつけておきました」
「白い丸が心臓のところにあたる。明日は早いから目標をつけて置かぬと弾が当たりそこなったら長く苦しむだけだからね。発つ時は毛布を忘れないように持って行きましょう。死んだら毛布に包んでもらうのです。砂や石が直接顔に当ってちょっと考えるといやな気分がするからね」

という対話が部屋から洩れてきたという。翌日の早晩、二人は書き置いたとおりの手順と態度で銃殺された。大きい声で歌も歌い、二人でなにごとか言葉を交わして笑い声をあげた直後、発射音が響いたという。さすがに監視兵たちも、この歌声と笑い声の最後にはおそれと、驚きを感じたらしい。あれほど続いていた収容所内での虐待が、そのときからぴたりとやんだ。




下記は、エピソード的にとても面白いと思いましたので、紹介したいと思います。少し長いのですが、これまでに肯定派や共産党支持者達等により吹聴されてきた旧日本軍によるフランス領インドシナ進駐には、【多くのデマ】が存在していた事が証明されていると思います。

インドシナに進駐していた南方総軍(※総司令官寺内寿一元帥)は、まさに【立つ鳥跡を濁さず】を体現した様な軍団でした。終戦直後の混乱期においても、在留日本人の復員を無事完了させ、そのまま現地に滞在し、英軍等にも協力して治安維持に従事していた様です。また、【現地ベトナム人との関係も良好】で、戦時中は旧日本軍に対してゲリラ活動をやっていたベトミン(※越南独立同盟)とも一定の信頼関係を築いていた様です。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

サイゴン裁判
…現在のベトナムを含む"仏印"(仏領インドシナ)がコーチシナ、アンナン、トンキンとカンボジア、ラオス---インドシナ半島東部にあった旧フランス領植民地の全域をさしていたことはよく知られている。終戦のとき、日本軍の南方総軍(司令官・寺内寿一元帥)は司令部をその仏印(ベトナム)のダラトに置き、指揮下には第三八軍(司令官・土橋勇逸中将。第二師団、第二一師団、第三七師団、独立混成第三四旅団、独立混成第七〇旅団が基幹)のほか飛行第五師団、航空廠、防空部隊、さらに七十余の独立部隊があり、およそ九万人の兵が仏印に駐屯していた。これらの将兵にたいする戦争裁判はフランスによっておこなわれたが、これも、当時の"仏印"の状況を知っておかなければよく理解できない。

戦時中、昭和二十年三月十日、日本軍は"明号作戦"なるものを発し、仏印にあったフランス軍の武装解除と抑留、アンナン(安南)兵の即時釈放、フランス系官吏の抑留などを実行し、急速に"安南の独立"を実現した。これによって政府が組織され、彼らは日本軍に協力するとともに治安にあたり、一般のベトナム住民の対日感情は決して悪くなかった。日本軍に反発・反抗するよりも、まずフランス支配からの脱却をねがう動静だったといっていい。

在仏印の日本軍は北部と南部に主点を置いていたが、北部仏印においては、第三八軍司令部および第二一師団(師団長・三国直福中将)および混成旅団が駐屯していて、米軍の上陸作戦にそなえて陣地を構築中だった。その兵力はおよそ二万。在留邦人の数は二千人。終戦とともに三国師団長は、中国国境近くの北部ラオカイ付近において中国軍と交戦中であった部隊を撤退させ、全軍を海岸線の近くに移動させると同時に、ハノイにあった師団司令部を、フランス軍の旧兵営が残っていたクアンイエンに移す。在留邦人のうちの女性や子どもも八月末までにはここに集め、やがては邦人全員を移動させて、その保護には司令部があたることとした。

連合国軍の合意によって北緯十六度以北の仏印駐屯日本軍は中国軍に投降することと定められ、中国軍が進駐するまでは日本軍がその治安を維持することになっていた。中国側の"投降受理主管"は中華民国第一方面軍司令官(蘆漢将軍)であり、五個軍十五師団をもって南下したが、大雨のため各地に洪水・氾濫が生じて、到着は遅れた。その間に在留フランス人たちがその生命・財産を保護してくれと日本軍に陳情に来て、師団司令部では兵を派遣してフランス人居留地域を警備している。アンナン人たちは日本人には親しみを抱いていたが、フランス人にたいしては強い怨みを維持していた。

終戦後一ヵ月あまりの昭和二十年九月二十七日、元仏印総督府の階下の広間で"降伏式"が開かれたときも、日本側からは土橋軍司令官、三国師団長、上田少将の三名が出席し、式場には百人をこえる中国人将校や米人が集まったが、フランス人のすがたはなかったという。飾られていた万国旗の中も、フランスの国旗だけは引き抜かれていた。到着した中華民国軍のうちクアンイエンの日本人集結地を警備した第一師団の師団長は「きちんと保護して、かならず帰還させるから安心せよ」という訓示をおこなっている。その約束どおり、昭和二十一年四月三日から四月十九日まで、九隻の米軍用船に乗せられてほとんどが帰国、復員した。…

南部仏印、つまり北緯十六度以南の日本軍を武装解除する役は英軍であった。英軍の司令部はビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)にあったので、南方軍の沼田多稼蔵参謀長以下若手の幕僚たちは二度にわたってダラトとのあいだを往復し、降伏条件などをとりきめている。英軍の先遣隊がサイゴンに到着したのは九月四日。その二日前の九月二日にもサイゴンでフランス人とのあいだに騒擾事件がおきている。

この日、コーチシナ解放委員会は政権樹立の祝典と連合国軍代表歓迎の催しを実施中に在留フランス人たちとのあいだにトラブルを生じ、それが拡大して数十人のフランス人が殺害された。日本軍側が治安に介入して夜になってようやく沈静。翌日、第二師団長・馬奈木敬信中将はチャン・バンチャオ(陳文交)コーチシナ解放委員長を呼び寄せて、自重をのぞむとともに武装を三分の一に減少することを勧告した。これにたいしてチャン・バンチャオ委員長は、前日の暴動はフランス人側の暴動であり非は向こうにあること、武装解除は指示どおり実施するがフランス人側の言動にもよく注意、警戒してほしいこと、今後日本軍に治安の責任がある期間はベトミン(越盟=越南独立同盟)は行動を慎み、迷惑はかけぬこと、などを言明して帰ったという。

もともとこのベトミンは、戦時中、米軍とあい呼応して謀略部隊あるいはゲリラとして日本軍に抵抗していたものである。終戦直後の八月二十五日、コーチシナ解放委員長の成立によってパオ・ダイ皇帝は退位(新政権・最高顧問)し、ホー・チミンを中核とする新政権が誕生。ベトナム民主共和国政府が発足することになった。したがって米英の連合軍にたいしてははなはだ好意的だったが、同じ連合軍でも相手がフランスとなると事情はまるで異なってくる。

先遣隊に続いて、九月中旬には、仏印における英軍管区最高責任者として英印軍第二〇師団の師団長グレーシー少将がサイゴンに到着した。ベトナム新政権はこれら英軍は歓迎したけれども、仏印軍の俘虜釈放につづいて本国からフランス軍の部隊がつぎつぎに到着するにおよんで、英軍と日本軍にはげしい抗議をおこなった。許可なく侵入してくる外国軍(フランス軍)にたいしては実力をもって攻撃すると声明し、実際にフランス軍とのあいだにさまざまな摩擦が生じ始めた。フランス側には仏印の主権国はわが国であるという自負と焦りがあり、落下傘で各地に政治要員を降下させる作戦を敢行。日本軍の治安の手の届かぬ地方に降下した政治要員たちは、ほとんどベトミンに捕らえられ殺害された。そのほかの深刻なトラブルは、前記の解放委員長との協約もあって、日本軍側が仲介・治安にのり出してようやく互いに妥協するといったたぐいであった。



対して、従来の植民地支配者であった仏軍に対するベトナム人の反感は相当なものでした。旧日本軍に対応する時は穏便に澄ましていたベトナム人ですが、仏軍が前面に出てくると、激しく抵抗して仏軍側に死傷者が出てしまうほどの騒動になっていた様です。旧日本軍側は、英仏両軍に従いつつも、ベトナム人の独立の妨げにならぬ様、言わば「面従腹背」の対応に終始していた様です。その結果、戦犯裁判においても、【ベトナムの民衆からの告発や訴えがほとんどなかった】という結果になっています。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

フランス軍への反感
のちのベトナム戦争にも関連してくるので、もうすこし終戦時の事情に触れておこう。英軍が到着して"北緯十六度以南の地域の管理責任"が日本軍から英軍に移されるとき、日本軍側は"ベトナムの独立を認めなければ事態は急変する。日本軍がおこなった明号作戦以後のベトナム政情の推移を日本側から詳細に聴取し、そのうえで接収・管理するよう"勧告したが、英軍司令官グレーシー少将は"予はインド統治三十年の体験を持っている"として、これを聞き入れなかった。英軍主宰で九月中旬にベトミン政府とフランス軍との会談を開催したが、これにも日本軍の代表は加えず、そこで"ベトナム警察の武装解除"を強行採決した。このときも日本軍側はこれを最悪の対策として、武装解除の目的を英軍に問い質したが、英軍側からの返答は"われわれが管理責任者として警察を再編成するためである"というものであった。日本側が、"武装解除の実行行為はかならず誤解を呼ぶ"と忠告したものの、英軍側は敗者・日本の言うことを認めようとしない。"摩擦を避けるため実行は日本軍がおこなってもらいたい"という申し入れであった。あいだに入った日本軍の説得によってベトナム側が涙ながらに一、二の警察隊を武装解除したのは九月二十二日である。この日の午前、日本軍の第二師団サイゴン警備隊によって第四警察隊もトラブルなく武装解除した。

ところがこの状況をひそかに見ていたフランス軍が、ベトミンくみやすしと考え、この日の午後になって独断で第一警察隊の武装解除におもむいた。これがいけなかった。彼らは日本軍側にたいする態度とはまったく逆転し、フランス軍側は武装解除どころか全面的な抵抗を受けて戦闘状態となり、死傷者を残して退却せざるを得なかった。反応は日本軍側が予想したとおりになった。フランス軍の"暴挙"にたいしてベトナム側の反感は一気に爆発し、この夜、解放委員長は連合国軍にたいして、「われわれは今後フランスはもちろんのこと連合国にたいして全面的抗争を敢行する。責めはフランス国にあり。解放委員会および解放軍は撤退する」という最終通牒を送り、サイゴンを去っていった。その後、日本軍の斡旋と誘導があって解放軍および解放委員会はいったん、九月末に、サイゴンに帰ってくる。そこであらためて英、仏、ベトナムの三者で政治解決をはかったが、会談は決裂し、ふたたびサイゴンを去って、その後の長い動乱の始まりとなった。以上はほとんど知られていない事実だが、日本軍側がベトナムの独立を助けるべく数々の努力を重ねたということは明記しておかなければならぬだろう。

以上のように、治安維持の役を押しつけられたため、日本軍の武装解除は遅れた。英軍側は勝者として当然の権利だという態度で、ときには日本の天皇の名までだして日本軍を使用し、いっぽうでは"戦犯指名"の威嚇をちらつかせつつ、戦闘にまで駆り出している。当時の日本軍側の報告記録によると、九月二十六日、英軍司令官グレーシー将軍は、南方軍の寺内総司令官、沼田総参謀長、馬奈木第二師団長の三名を彼らの司令部(旧コーチシナ政庁)に呼び寄せ、一時間余にわたって厳重な命令を下したという。その内容は、「予の命令は日本天皇の命令である。予の命令に服従せぬ者は今後、戦犯として処置する。対ベトミン作戦で日本軍将兵の戦闘には真剣味が欠けている。日本軍とベトミンは馴れ合いの行動をしているかのようにみえる。ベトミン軍は英仏軍にたいしては攻勢に出てきて、われわれはしばしば包囲される苦境に陥るが、日本軍が来れば戦闘を避け、すぐに撤退するのが通例のようだ。このようなことは、われわれには理解できぬ。われわれ連合国軍の食糧はプノンペンからサイゴンまで日本軍の手によって輸送を確保せよ。戦犯容疑者については、こちらの指名によって隠すことなく差し出すべし。英国は法治国であるから、無理無法なことはしない。なお、総司令官・寺内元帥は今後、サイゴンに住むことを命じる」というものであった。…

戦犯容疑者の指名が英軍によって開始されたのは昭和二十年十月になってからであった。英軍司令部に出頭を命じられ、そのまま拘置される者があれば、翌日、翌々日と、連続して取り調べを受ける者もある。サイゴン憲兵分隊、プノンペン憲兵分隊など、容疑者が多人数にわたる場合は、非常呼集されて武装したままトラックに乗せられ、サイゴンの刑務所に到着してから武装解除され、収容された。サイゴンには二ヵ所に刑務所があった。市内の中心にあるサイゴン中央刑務所と、郊外にあるチーホア軍刑務所がそれである。昭和二十一年一月の時点で、チーホア刑務所にはおよそ六百五十名の日本人が戦犯容疑者として収容されている。英軍によって逮捕された者は主として憲兵であったが、他はさまざまな理由ときっかけによっており、俘虜収容所関係者、在留邦人、外務省関係者、一般部隊関係者など入り混じっていた。これらの逮捕はほとんど噂と密告によったものである。米軍機搭乗員を殺害した事件などは釈放された連合国軍俘虜の口から洩らされ、証拠はなかったが、つぎつぎに逮捕されている。ほかの多くは日本軍の中の密告者、あるいは裏切り者の陳述をもとにしていた。取り調べの方法は巧妙で、"おまえの同僚はこのように言っていたぞ"などといういわばひっかけの方法を大いに利用していた。噂や裏切り者の密告によったということは、ベトナムの民衆からの告発や訴えがほとんどなかったからである。これまで述べてきた南方の各地では現地民からの告発が多かったが、ここではそれがみられなかったというのは大きい特色である。英、仏軍にたいして敵対感情を抱いていたということもその一つの原因であり、いっぽうで日本軍にたいして好感情を持っていたことがよくあらわれている。



戦後の仏軍の対応は酷いもので、【植民地支配者としての驕り】が前面に出ていた様です。連合軍による旧日本軍兵士の虐待については、それこそ数えきれないほどの事例があるのですが、【現地民や民間人】まで虐待していたのにはほとほと呆れてしまいます。しかも、根も葉もない言いがかりによる不当逮捕と拷問が、戦中ではなく【戦後】に行われていたのです。戦後の連合軍によるBC級戦犯裁判は、【法こそが最も凶暴な暴力手段】になり得る事を証明した様な裁判だったのです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

フランスに裁判権?
当初はフランス軍に戦争裁判をおこなう権限があるか否かということも議論される一つのテーマであった。日本軍のあいだでも、フランスは準連合国であり戦犯処理の権限はないというのが一般的な観測で、"この件で米軍関係者がサイゴンに来て討議したそうだ"という情報も流れた。しかしそれはあまりに楽観的な見方であった。日本軍の武装解除も終了しないのに英軍が急遽"仏印"から撤退したのはフランス政府の申し出によったものといわれる。フランスはいわゆる"仏領インドシナ"の主権国であり、領土を確保し、復権することに躍起になっていた。ベトナム独立の口火をつくったり、これを援助するような日本軍の過去の行為や戦後の態度は憎むべき対象であった。そのうえに在留フランス人たちや俘虜となったフランス人に与えた"残虐な行為"は許せない。英軍の撤退にともなってフランス軍は独自の"戦犯逮捕"に乗り出した。それまで英軍に逮捕された収容者のうち、そのままフランス側に移管された者もあったが、フランスにとってそれらはごく一部にすぎなかった。新しく戦犯捜査を開始したのは昭和二十一年三月下旬で、最初は一般布告によって告訴、告発を求めた。当然といえば当然だが、ベトナムの一般の民衆からはなかった。仏印軍のうちアンナン軍人で提訴した者もいない。

フランス側に戦争犯罪局という名称が登場するのは英軍と交代した昭和二十一年の三月下旬以後のことである。これはフランス政府の立法によって定められた捜査機関で、「極東においておこなわれた戦争犯罪についてはインドシナ駐在フランス共和国高等弁務官に隷属し、戦争犯罪の捜査を統合し、証拠を収集し、また戦争犯罪取り締まりを任とする軍事裁判所に戦争犯罪人を引き渡すことを任務とする」とされている。この戦争犯罪局は昭和二十三年中期まで活動し、閉鎖された。これを戦犯捜査の総元締とするなら、実動隊は"シュルテ"(探偵局)と呼ばれる機関と保安隊(警察機動隊)であった。

"シュルテ"といえば泣く子も黙るといおうか、フランスの統治は"シュルテ政治"と言われたぐらいで、シュルテは厖大な数にのぼる"密偵"を使用し、捜査網を張りめぐらし、アンナン人についてはもちろんのこと在留外国人の動静をも探り、情報を収集し、容疑者はただちに逮捕し、厳しい取り調べをおこなって検事局に送っていた。その統治法は秘密スパイによる恐怖政治といった一面があり、アンナン人が反仏思想を抱くにいたった原因はこのシュルテの存在にあったといっても過言ではない。もともと戦争犯罪とは無縁の機関だが、日本人の戦犯捜査にはこのシュルテが参加した。中でも、のちのフランス戦犯裁判で初期から中期までただ一人の検察官として活躍したガルトン大尉(のちに少佐に進級)の存在は特筆すべきものであった。シュルテに臨時の軍の名称を与え、彼ら"密偵"を大いに利用したのもこのガルトン大尉である。馬奈木敬信元第二師団長はつぎのように書き残している。

「ガルトン大尉は、昭和二十年に日本軍が仏印軍の武装解除をおこなった際に探偵局の一員として抑留され、終戦時まで日本軍の監視下にいた者で、対日感情は極度に悪く、その性格は非常識なところがあり、虚勢を張る癖を持っている。横暴であり、残忍であり、いわゆる植民地くずれの検事であった。かかる検事が探偵局勤務を兼ねているから戦犯処理の方法が軌道を外れた。戦争犯罪局のごときはガルトンの眼中にはなく、思いつきによって、また日本人にたいする反感と嫌がらせなどのために、勝手にキャンプにいる者を出頭せしめ、取り調べたのち刑務所に拘置した。終戦後サイゴンにおった日本人でガルトンの名を記憶しない者はおそらくない。それだけ彼は日本人を震駭せしめた」

シュルテの局内にその取調室はあった。捜索第二連隊・長原大佐と同じ連隊の中隊長・菅原顕二大尉の二人はそこでパンツ一つのすがたにされ、両足を棒に縛られたばかりか両手をうしろにまわして"ひょうたん手錠"をかけられ、腰を下ろすことがようやくという狭小な独房に拘禁されたという。水一リットルと塩水一リットルを飲まされたが、最初の水には下剤が入れてあった。下痢によって脱水症状をおこしたが、それから七十二時間、一滴の水も与えられず、一粒の食事ももらうことはできない。その間、看守からは殴打され、煙草の火を押しつけられ、足蹴りもくらった。その後、取調室にふたたび連行されて殴られ、三角錐の台の尖った部分に膝頭だけで坐らされ、痛みに耐えかねて失神するとカンフル注射をうたれて意識をとり戻した。チーホア刑務所に帰されたのはようやく五日目のことであったという。このような取り調べがガルトン大尉の指揮下におこなわれたことはいうまでもない。"ガルトン大尉の裁判"前記の一人、菅原顕二大尉は当時を回顧して、

「私どもが七十二時間にわたる探偵局の虐待に耐えることができたのは、留置場にいたアンナン人が、彼の褌に水をしめして差し入れてくれたり、また、ひそかに少量の飯を運んでくれたりしたからであった。アンナン人の青年の中にはハンマーで下半身の亀頭をたたきつぶされている者がいた。性器に赤蟻の巣を入れられて悲鳴をあげているアンナン人の女性も見た。この世のものとは思えなかった

と述べている。第三七師団鎮目連隊の大隊長・小寺次郎平少佐は、チーホア刑務所に拘留中、シュルテに呼び出されて取り調べを受け、刑務所に帰って独房内で自決した。ツーラン憲兵分隊長の山野泰典大尉は、ペンも紙もない独房の中で、洗濯石鹸の上に、「探偵局の拷問に抗死す」と刻んで自決した。その遺体はすさまじい拷問の跡を残しており、頭部や耳・鼻などは充血してただれ、化膿し、身体の各所は紫色にはれたり、血を流したりしていたという。ベトナムに永住を決意し、現地の女性を妻として農業に従事していた中村真男という人物は、戦時中に日本軍のスパイをつとめたという根も葉もない容疑によって捕らえられ、やはりシュルテに送られて拷問を受け、耐えきれずに房内で縊死している。他国他地の裁判と違って現地民や民間人も取り調べや拷問の対象となっているところが一つの特徴である。



仏領インドシナに進駐した旧日本軍と現地民との関係は、概ね良好だったのは間違いない様です。意外に思う人もいるかもしれませんが、旧日本軍は常に残虐だったとの【悪しき固定観念】を、これを機に払拭していただければ幸いです。現地民の独立運動家等は、戦時中の旧日本軍から見ても、不穏分子と見なされておかしくはなかったと思われるのですが、【日本側の立場を説明して、相手を納得させる方法がとられた】様で、現地民の心情をとても尊重していたと言えるでしょう。



『日本陸軍の仏印駐留に係る諸問題』 立川京一(※防衛研究所戦史研究センター戦史研究室長)

(3)仏印全般の状況
前段の最後に、太平洋戦争期に仏印に駐留していた日本軍部隊を取り巻く現地の全般的な状況について、主として駐留していた将兵の視点から、簡単に記しておく。「はじめに」で述べたように、仏印では太平洋戦争の開戦から終戦までの間、本格的な戦闘は45年3月9日に発動された仏印武力処理の際にしか生起していない。また、日本軍の北部仏印進駐以降、可能性が予想されていた中国軍の仏印への進攻も、42年末ごろまでには警戒する必要性が薄らいでいた。仏印の「地域内は比較的平穏な状態で、特に急を認めるような事象はなかった」のである。さらに、宗主国のフランスは日本と「協力」関係にあって、仏印のフランス人は、少なくとも表面上、日本人とは「友好」的でなければならなかった。しかも、現地住民は概して親日的であった。

実際、仏印に駐留していた将兵による戦後の回想においても、「連隊が印度支那に上陸して先ず感じたことは大東亜戦争の戦場でありながら、現実は全くそれとはかけ隔っていることであった。環境こそ異るが内地同様に治安の確立した外国であり、久しく北支の治安戦と云う戦線のない戦場を体験した者にとっては異様にも感ぜられた」とか、「駐屯地の治安は極めて良好であり、外出時身辺の危険は感じることはなかった」とか、「時々かかる空襲以外は、内地の軍隊、学校と何等変わりないことに驚きました」とかといった記述が散見される。仏印は「戦地とは云え内地同様に平穏」で、「なんだか戦争をして居る様な気がしない」というのが正直なところであった。

その一方で、 仏印はまだ未開の地が多く、地図さえも白く書いていない所がある。奥地には象や虎が棲息し、メコン河上流にはワニが棲んでいるといわれ、蛇も青ハブ、コブラ、ガラガラ蛇と数が多く、特に錦蛇の大きいのがおり、直径十数センチのものはざらで、中には三十センチ以上のものもいるらしいといったような不安感を抱いていた様子や、マラリア、チフス、赤痢、コレラ、デング熱等の「高温多湿、しかも非衛生的な環境より生ずる悪疫の流行、蔓延」への心配が綴られている。警戒すべきは、獰猛あるいは有毒な野生動物や伝染性の疫病であった。

2. 駐留中に生起した諸問題と解決・防止のための方策
これまで述べたように、仏印では太平洋戦争の開戦後も終戦まで、武力処理時以外に本格的な戦闘は生起せず、治安も概して良好であり、戦地であるにもかかわらず平穏であった。その反対に、自然環境は必ずしも日本軍に味方していたわけではなく、暑さと湿気は常に将兵につきまとっていたうえに、伝染性の疾病に罹患する危険は日常的であった。…

(d)フランス人との関係
仏印特有の事情であったが、日本軍はフランス人との関係で問題が生じないよう注意を払っていた。日仏間での不祥事の発生を防止するため、部隊ごとに仏印の特殊事情について教育を行ない、駐留中の厳正な軍紀の確立を目指した。また、憲兵隊も新たな部隊が仏印に到着した際、軍人軍属の軍紀風紀を取り締まった。さらに、問題対処のための苦肉の策と言えるかもしれないが、「フランス兵との『けんか』の仕方をどうするかという教育」が行なわれたという話も伝えられている。 日本軍はフランスとの関係を尊重すると同時に、各部隊に対して現地の独立運動の支援を固く禁じた。しかし、一方の独立運動家は日本軍の支援を期待して、たびたび接近をはかってきた。日本軍は、場合によっては、フランス側の取締りを逃れてきた運動家を匿い、逃亡の手助けをすることもあったが、原則として、日本側の立場を説明して、相手を納得させる方法がとられた。

おわりに
…他方、相違点は、現地住民との関係で、タイにおいては、現地の風習に対する不理解から現地人の間に反日感情を招き、駐留の途中で、その解消に努めなければならなかったが、仏印では、フランス人や安南人等の現地人との関係については、北部仏印進駐時から注意が払われており、将兵に対して仏印の特殊事情を進駐開始時から教育していたこともあって、フランス人との関係では45年3月までは静謐が保持され、現地人との関係も概して良好であった。



ところで、この様な話を聞いた人もいるのではないでしょうか。旧日本軍による仏領インドシナ支配により、ベトナム中部から北部にかけて【200万人の餓死者】が出たという話です。これも、元を辿ると、どうやら【日本発】の話の様で、正体不明の日本の歴史学者が、わざわざ現地ベトナムに行って吹き込んだものだった様です。【第56項】で書いた【百人斬り】の話や、偽物慰安婦【李容洙(イ・ヨンス)】の話に通じる所があります。



しんぶん「赤旗」 2005年4月14日
[ https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-04-14/12_01ftp.html ]

〈問い〉 日本占領下のベトナムで200万人が餓死したというのは本当ですか?(三重・一読者)

〈答え〉 60年前のアジア太平洋戦争は、アジアで2000万人以上の犠牲者をだしました。日本がおこなった各国への侵略と加害の歴史を私たちは忘れてはなりません。日本占領下のベトナムで起きた大量餓死もその一つです。1944〜45年、中部クアンチ省から北部にかけて、当時の人口の10分の1にあたる推定200万人が餓死したとされています。92〜95年に日本の学者と共同で餓死の調査をした歴史学者のバン・タオ教授は「調査で、200万人という数字が誇張でないことがよりはっきりした。45年当時、北部ハイズオン省で教師をしていたが、教え子の約半数が餓死した」と本紙特派員に答えています。



本項で紹介した資料を見ても、旧日本軍と中部〜北部仏領インドシナ【現地民との関係は良好】で、【200万人の餓死者】が出たという様な緊急事態は認められません。そもそもの話ですが、戦後の連合軍は、旧日本軍による戦争犯罪行為の発掘に躍起になっていたのですから、再び植民地支配者としての威厳を取り戻したかった仏軍から見れば、

200万人もの餓死者が本当に出ていたのであれば、嬉々として旧日本軍を陥れる格好の宣伝材料にしていたはずです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

サイゴン裁判
…在仏印の日本軍は北部と南部に主点を置いていたが、北部仏印においては、第三八軍司令部および第二一師団(師団長・三国直福中将)および混成旅団が駐屯していて、米軍の上陸作戦にそなえて陣地を構築中だった。その兵力はおよそ二万。在留邦人の数は二千人。終戦とともに三国師団長は、中国国境近くの北部ラオカイ付近において中国軍と交戦中であった部隊を撤退させ、全軍を海岸線の近くに移動させると同時に、ハノイにあった師団司令部を、フランス軍の旧兵営が残っていたクアンイエンに移す。在留邦人のうちの女性や子どもも八月末までにはここに集め、やがては邦人全員を移動させて、その保護には司令部があたることとした。

連合国軍の合意によって北緯十六度以北の仏印駐屯日本軍は中国軍に投降することと定められ、中国軍が進駐するまでは日本軍がその治安を維持することになっていた。中国側の"投降受理主管"は中華民国第一方面軍司令官(蘆漢将軍)であり、五個軍十五師団をもって南下したが、大雨のため各地に洪水・氾濫が生じて、到着は遅れた。その間に在留フランス人たちがその生命・財産を保護してくれと日本軍に陳情に来て、師団司令部では兵を派遣してフランス人居留地域を警備している。アンナン人たちは日本人には親しみを抱いていたが、フランス人にたいしては強い怨みを維持していた。



『日本陸軍の仏印駐留に係る諸問題』 立川京一(※防衛研究所戦史研究センター戦史研究室長)

おわりに
…他方、相違点は、現地住民との関係で、タイにおいては、現地の風習に対する不理解から現地人の間に反日感情を招き、駐留の途中で、その解消に努めなければならなかったが、仏印では、フランス人や安南人等の現地人との関係については、北部仏印進駐時から注意が払われており、将兵に対して仏印の特殊事情を進駐開始時から教育していたこともあって、フランス人との関係では45年3月までは静謐が保持され、現地人との関係も概して良好であった。



【200万人の餓死者】については、産経新聞記者高山正之氏が現地に赴き、ベトナム共産党幹部に直接取材したところ、「あの当時、ハノイは大洪水と干ばつに交互に見舞われ、多くの餓死者がでた。それを時期的に合うので日本軍と結び付けた。ただ、南の穀倉地帯との鉄道が連合国軍の爆撃で途絶えがちだったことも確かで、だから日本にも50万、いや5万ぐらいの責任はあったはずだ」との証言が得られたとの話や、「食糧危機は若干あったが、200万人餓死説は絶対に考えられない。当時、最悪の飢餓といわれた人口5万人の町ビン(ハノイ南方200キロ)に行ったが、人々が菜っ葉いりの白湯をすすっているのを見たものの餓死者は一人も見なかった。」(※元アイルランド大使石川良好氏談)との証言や、「飢餓の時、日本軍は仏植民地政府から食糧を買い、われわれが街角で炊き出しをして市民に配った。」(※元ハノイ高射砲部隊兵長落合茂氏談)との証言や、「ハノイの雑貨店マゾワイエの日本人女性が飢えた市民のために炊き出しをしていた。」(※同盟通信社小山房二特派員談)等の証言もありますが、

そもそもの話として、旧日本軍関係者の誰一人として200万人餓死の責任を問われていない事自体が変なのです。

下記赤旗記事を見て頂ければわかると思いますが、【第56項】でも書いた【百人斬り】報道や偽物慰安婦【李容洙(イ・ヨンス)】の時と全く同じで、【被告:本多勝一】や朝日新聞が最も得意とする手法、

証言とは、真実かどうかは重要ではない、利用価値があるかどうかが重要、『本当は〇〇だったと証言する人が現れた』と切り出してくるセンセーショナリズム

と言うわけです。

日本共産党は、この様に狂った政党であり、その支持者達も狂人だらけ、捏造によって日本を陥れ様とする【デマ拡散集団】なのです。



しんぶん「赤旗」 2005年4月14日
[ https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-04-14/12_01ftp.html ]

〈問い〉 日本占領下のベトナムで200万人が餓死したというのは本当ですか?(三重・一読者)

〈答え〉 60年前のアジア太平洋戦争は、アジアで2000万人以上の犠牲者をだしました。日本がおこなった各国への侵略と加害の歴史を私たちは忘れてはなりません。日本占領下のベトナムで起きた大量餓死もその一つです。1944〜45年、中部クアンチ省から北部にかけて、当時の人口の10分の1にあたる推定200万人が餓死したとされています。92〜95年に日本の学者と共同で餓死の調査をした歴史学者のバン・タオ教授は「調査で、200万人という数字が誇張でないことがよりはっきりした。45年当時、北部ハイズオン省で教師をしていたが、教え子の約半数が餓死した」と本紙特派員に答えています。




次に、支那における【BC級戦犯裁判の実態】を見てみたいと思います。その前に、面白いエピソードを一つ紹介します。上記仏領インドシナだけでなく、支那本土内においても、旧日本軍との関係が良好だった地域は複数あった様です。この類の話は、当時衆議院議員だった河村たかし氏の父親のエピソードにも通じるところがあります。河村氏が下記父親のエピソードを話した直後は、それこそ肯定派や朝日新聞の様なオールドメディアの連中からヒステリックに叩かれていましたが、複数の出所からのエピソードが一致している以上、【一定の真実】は認めるべきでしょう。肯定派の人達には、少しは【公平な視点】を持っていただきたいものです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

北京裁判 東洋的寛容精神
…いまあらためて考えてみると、在中国戦区陸海軍民およそ二百万人といわれた大量の日本人が、終戦の日からおよそ一年間、昭和二十一年七月中旬までに曲りなりにも復員・引き揚げを終えたという事実は驚異的なことである。その裏には、いわゆる支那派遣軍総司令部がその一年間にわたっておおむね戦時中のまま統帥機能を保持して終戦業務にあたることができた、それを許されたという事情がみられる。中国側首脳はこの統帥機能を尊重し、還送業務についても信頼して、細部には干渉しなかった。支那派遣軍は終戦当時、いぜんとして強大な戦力を持して健在であり、戦闘状態にあったとはいえ概して一般民衆と日本軍とは友好的協力関係を維持していた地域が多かった。予想された混乱や報復が、東北(満州)地域をのぞいてほとんど発生しなかったということも、南方の諸地域などとくらべると大きい特色である。…

真珠湾以前か以後か
終戦時に、華北はもちろんのこと華中・華南における主要都市や交通網を日本軍に占拠されていた中国政府は、辧法に規定したように、司法行政部を主管調査機関として組織的に戦犯捜査を実施することは難しかった。結果的には各地の住民に告訴や告発をうながし、その内容に頼るしかない。従って、中国大陸(中華民国)においては一般民衆の投書にもとづいて摘発され、逮捕された者が大部分ということになった。たとえば河南地区にあった第一二軍(軍司令官・鷹森孝中将)などは一件の投書もなく、この地区からは一名の戦犯容疑者もなし、という結果を生じている。第一二軍とは昭和十九年春における河南作戦(京漢線打通作戦)の主力(当時の軍司令官は内山英太郎中将)であった。関係者によると、「引き続き同地に駐留していたのだが一般住民との交情はきわめて良好で、何らの問題もおこらず、引き揚げるときには別れを惜しんで駅まで見送りに来た者も少なくなかった」と述べている。



いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書
提出者 河村たかし


平成十八年六月十三日提出 質問第三三五号

いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書
歩兵第一〇一旅団指令部伍長であった私の亡父、河村テ男(かねお)は、昭和二〇年八月一六日に武装解除されていた南京に到着し、南京市郊外の棲霞寺に翌二一年の一月まで滞在、同年三月に帰国した。同寺には司令部の約二五〇人が滞在していたが、彼の地で大変手厚く遇され、生き永らえることが出来たと感謝していた。そこで、戦後五〇年となる一〇年前、当時の戦友たちは、当時の南京市民のもてなしへの感謝の気持ちとして、寄付金を募り、南京市に一千本の桜を寄付し、体調の悪い父に代わり母が訪中した。その母も昨年一〇月亡くなった。彼の地において大虐殺が行われていたのであれば、そのわずか八年後にこのような心温まる交流が実在しえるとは思えない。そこで、いわゆる南京大虐殺事件について再検証すべきではないかと思うに至った。植樹一〇年目の今年、私も三名の元日本兵とともに南京市を訪れ、改めて感謝の思いを伝えてきたが、同時に南京事件記念館も訪問した。このように深いご縁のある者として、正しい相互理解をふまえた真の日中友好を促進したいとの思いから以下の通り質問する。…



では、支那における【BC級戦犯裁判の実態】を見てみたいと思いますが、現代の中国人にも繋がると言いますか、当時から現代にかけて変らぬ中国人の本質がよく表れていました。【お金】です。

下記を見てもわかる通り、罪状をでっち上げるのは他所のBC級戦犯裁判でも見受けられたのですが、【金目的】のために、罪状をでっち上げて、【民間人】まで拘束するというのは支那でのみ起こっていた事の様です。正気を疑いたくなりますが、この様な【裁判の名を借りた収奪】が実際に行われていたのです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

金銭や賄賂がからんだのも中国裁判の一つの特徴である。身代金を要求されたり、暗に身代金を提出させる目的で逮捕され、収容されたりした民間(富商)の日本人も多く、実際に金を積んで"無罪釈放"となった例も少なくない。中国の民衆も、当時は、清廉で知られる中共軍の到来を待ちわびており、戦犯裁判もどうせ国民党軍の、あるいは汚職官吏たちの結構な仕事だと冷たく眺めていたようなところもあった。収容体験者の一人は、「日本軍の武装解除とともに各地とも無政府状態となり、中国は現代のユニフォームを着た三国志の昔に帰った。その中で戦犯裁判がおこなわれた」と言っている。単なる"報復裁判"でないところが中国裁判の実態を複雑にしているといっていい。

"身代金次第"
新聞紙上には連日、勾留中の戦犯容疑者たちの顔写真と経歴が紹介され、民衆の告訴・告発を奨励していた。収容された者たちのそれぞれの運命がどのようになるかだれにも分からなかった。指名戦犯者ではない一般の戦犯容疑者のうち三十八名が五月十五日に釈放された。さらに五月末から六月初旬にかけて前例のない一日に二十数名ずつの簡単な取り調べがおこなわれ、六月七日には"金品と引き換えに"不起訴にされた三十余名が釈放された。予想されたことではあったが、金を積み財産を提供できる者は助かったのである。

たとえば竹中組の吉田支店長以下九名は一名につき百二十万元の保証金を出して釈放されている。また豪商といわれた貿易商の持原武彦などはその所有財産全部を没収される手続きのためこのときいったん釈放され、のちに再逮捕されて裁判を受け、死刑を宣告された(のち後審の結果、無期徒刑となり、上海に移監後、無罪となった)。起訴状の内容は、「諜報員として中国の情報を日本軍に提供し、利敵行為をなした」というものであった。起訴状はなんとでもできる。

日本の大企業関係者や経済人にたいして中国側の軍人官吏が期待し要求したのは金であり財産である。日本軍の高級軍人にたいしてもそれは同じであった。…「まだ金が(日本)連絡班にあるだろうと通訳官が暗に要求した由。どうしてここの裁判所は常に『金』という話題がつきまとうのだろう。その出し方如何が大へんだという。裁判長、陪審判事、予審判事、検察官、書記官、通訳、拘置所長、みんなそれぞれの派閥から"供出"された各派の利益代表だからという。これを教えてくれたのは台湾人である。中国は面白い国だ、不思議な国、不可解な国だ。融通無碍というか融通自在というか、その場その場で千変万化のテクニックをみせる。これは学問や知識と違う何か---中国人固有の何かだ」という佐藤日記の記述は、いまも考えさせられる問題を含んでいる。いずれにせよ、BC級戦犯裁判に"金"がからむといったような実態は、ほかの西欧諸国の裁判にはいっさいみられず、想像もできないことであった。



【金の延べ棒】や女性を差し出せとは開いた口が塞がりませんが、下記の様な【裁判をちらつかせた収奪行為】が堂々とまかり通っていたのです。いわゆる『南京事件』での、【旧日本軍による略奪等を批判する資格が支那には無かった】事が証明されているのではないでしょうか。この様なBC級戦犯裁判の実態に言及した著書・HP等が極めて少ないのにも首を傾げてしまいますが、自虐史観の暴風が吹き荒れていた昭和の時代においては、下記の様な【真実】の方がバッシングを受けていたであろう事は容易に想像できます。特に、中国批判等は、日本の歴史学会においては完全にタブーだったのでしょう。BC級戦犯裁判の実態に言及した著書・HP等が極めて少ないのが何よりの証拠です。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

つねに死刑をもってのぞむ
この地域にあった日本軍の第二三軍は昭和十九年十二月末までに湘桂作戦を終え、主力は広東にもどっていわゆる"対米戦備"の構築に努力していた。二年間は防御できる陣地をつくろうということであった。しかし終戦とともにまず米垣興業に置かれていた広東日本総領事館が、昭和二十年九月二十日ごろ、張発奎を司令官とする中国軍の第二方面軍に接収される。接収を実際におこなったのは張発奎の副官処長兼参謀であった陳駿南少将で、歩兵一個中隊を率いていたという。このときはやくも中国軍側の態度があらわれていた。米垣総領事が陳少将を官邸に案内して接待したところ、金の延べ棒の提供と、家政婦として女性をさし出すよう求めてきた。総領事が引き渡し財産目録を提示したが、それには目もくれない。金の延べ棒は日本からの送金が途絶えていてここにはないこと、女性もいないこと(日本人集中営に避難させていた)を伝えると、一行は思いのままに各室を点検してさまざまな物品を略奪した。これは略奪だと総領事がささやいていたのが陳少将の耳に入り、陳少将は、「米垣はけしからん。いずれ極刑にしてやる」と捨てぜりふを残して引き揚げて行ったという。米垣総領事は、それから一週間後の昭和二十年九月二十七日、事務引き継ぎのために出頭せよと命じられて中国軍司令部に出頭したところ、そのまま勾留された。



支那のBC級戦犯裁判でよく目に留まるのが、下記の様な、【金銭を集れそうな民間人】が故意に逮捕・拘束されたという事です。下記は、終戦直後の事の様ですが、中国人としての本質的な問題は、現代においても変らないのではないでしょうか。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

(※「徐州・漢口裁判」から抜粋)
…民間人にも逮捕の手は伸びていた。中央儲備銀行漢口分行顧問、中江銀行常務をはじめ三井、三菱、日綿実業、昭和通商、岩井産業、日東製粉など商社の漢口支店長なども敗戦となると逮捕、勾留された。変わったところでは児玉誉士夫のいわゆる児玉機関の機関員も捕えられている。中国側としてはこれまで述べてきたように、"釈放"と引きかえに金品を得たいという目的があからさまであった。この民間人関係では十一件三十四名が起訴され、死刑一名を含む有罪四名、無罪三十名の判決で終わっている。無罪が多かったのは各企業が救出作戦に乗り出して資金を工面したことや、もともと戦犯追及の事実もなにもなかったことが原因しているといえるだろう。唯一の死刑判決をくだされた佐々木正こと鈴木俊一についての起訴内容は、「漢口に本店を有する中国人材木業者に使用されて湖北省浦圻県趙李橋出張所に勤務中、日本軍鉄道隊使用の材木の伐採を命じられ中国人苦力を雇用。それらの労働者を奥地に連行して作業に従事させたが、そのうちの若干名は終戦後も行方不明のままとなっており、彼らは虐待によって死に至らしめられたものである」というものであった。苛酷な労働を強いて、虐待・致死の罪を犯したというのである。弁明も受け入れられず、金品をさし出すこともできず、鈴木俊一は処刑場に引かれた。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

上海裁判
…収監者たちで集まって自治の態勢を整えるいっぽう、重苦しい気持ちで一同はぽつりぽつりとくる起訴状を受け取ってつぎつぎに法定に引き出されていったが、前述したように、中国側の審理の内容はずさんで、だれでもいい、日本人に責任をとらせ、極刑を言い渡すのだという態度があらわであった。当時収監されていた人物のメモをみると、「森田重彦氏(華中バス重役)の保釈費五百万元、古屋二郎氏(海軍嘱託)の保釈費六百万元、満島進氏(元上海市警察局特高課長)の保釈費二百万元などはみな事実にして、ここに中国戦犯処理の一つの暗示を提供している。軍人にして正規の保釈を受けたる者は六月(昭和二十二年)の段階でいまだ一名もなし。およそ中国の犯罪は九九パーセントまで金銭にて解決できるという言い伝えは、決して戯言にあらず」などといった記述が眼につく。他の中国の裁判地と同じく、ここでも、地獄の沙汰も金次第、という金銭による身柄の取引がおこなわれていた。「支那の軍人・役人は、何時如何なる場合に於いても最も露骨なる形式に於ける天引き、役得を要求する種族なり。此傾向は汪南京政権時代には曾て見られざりしものにして蒋政権特異の現象なり。管理官(戦犯拘留所)更迭の際なども必ず相当額の餞別を要求するは常識的な事実なり」ともある。



程度の差はあれ、台湾で行われたBC級戦犯裁判も同じ様なものでした。中国本土の様に、日本人に対して悪意を持って告発する例は少なかった様ですが、【金銭目的】のために、裕福そうな日本人を告発する例が見受けられた様です。無論、国際法においては、【裁判さえやれば何をやってもよい】等の解釈は存在しませんので、金銭目的であった以上、どの様な裁判でも正当性が無い事は言うまでもありません。しかしながら、戦後の日本においては、この様な出鱈目な裁判を批判した文献等が、国内の学界において、【ほとんど見当たらない異常な時代】が続いているのです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

台北裁判
中国側の捜査や逮捕は米軍よりすこし遅れて開始された。最初に出頭を命じられたのは警察官(台北・北警察署高等係=特高外事)の平岡久巡査部長以下三名であった。昭和二十一年二月十五日、三名は台北県警察局に出向いたが、このときは人定尋問だけであったという。そのまま拘禁されて、十月九日に台北市警察局第一分局に送致された後も、取り調べはなかった。容疑の内容も知らされていないのに、三人は、「和諧書(和解書)を作るから金を出せ」と言われた、と平岡は報告している。「当時の金で一口五万円を要求され、苦心して一万五千円、二口で計三万円を渡したが、ついに和諧書は出なかった」という。

しかし、ほかの裁判地にくらべると、状況や処遇はそれほど苛酷であったとはいえない。戦前戦中から親しくしている台湾人も多く、彼らは日本人たちの"災難"を敬遠して眺めている姿勢で、中国本土のごとく積極的に悪意と報復の意図で告発したりする例は少なかった。ただし、このときを利用して、富裕な日本人から金を得ようとした例は幾つもある。実際に、金によって"和解"となった事件も多かった。平岡巡査部長たちの場合も、公判の前に、告発した家族(息子たち)のほうから、「金で弁償すれば釈放してやる」ともちかけられ、二度にわたって計三万円を渡したが、さらに、「和諧書を握っている係の者の印をもらうために七万円が必要」と言われ、これ以上は出せないと答えて、結局、起訴となったのであった。つけられた官選の中国人の弁護人も、事前の打ち合わせの際に、「金はあるか。あれば仮釈放になるかもしれない」とたずねたという。「五万円くらいは工面できる」と答えたが、仮釈放にはならなかった。…

「裁判そのものは実にいい加減なものであった。勝者の権力の前には法もなにもない。理屈はまったく通らない。加藤章少将の裁判で、少将が中国人弁護人に金時計(時価二十万円前程度)を贈ったところ、弁護人は、その価格の半分を裁判長に与えることを条件に判決を無期懲役から無罪にする約束になっていると言っていたという。結局、七年の刑と最終決定したが、弁護人が言っていたことは本当だったかもしれない。地獄の沙汰も金しだい、といった感じであった」




金銭目的の事例からは離れて、支那で行われたその他の【BC級戦犯裁判の実態】も見てみたいと思います。金銭目的のために罪状をでっち上げて裁判にかけるぐらいですから、その他の裁判もまともなものであったはずがありません。下記の裁判においても、復審によって無罪となった被告がいたのは幸いですが、死刑に処された48名の旧日本軍関係者の内、一体何人が【根も葉もない事実】によるものだったのか、非常に気になるところです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

…公開尋問をおこなって一般民衆に宣伝するとともに、中国軍側はこれら収容者に対する"偵訊"もすすめた。"偵訊"というのは中国刑事訴訟法でいう"検察官の尋問"である。"偵訊"によって起訴が決定した容疑者は一般の勾留者と隔離して特別倉に移す。憲兵隊関係者は告発があろうとなかろうと逮捕・収容されており、中国軍側としては告発待ちといった姿勢だったが、八月末になって告訴・告発のない広東憲兵隊関係者およそ三百五十名を初めて釈放した。続いて九月には、仏印憲兵隊関係者のうち二十名だけを残して、ほかの者を釈放。虚偽の告発であろうと伝聞であろうと言いがかりがなければさすがに中国側も起訴はできない。

収容された日本人については、最初に逮捕・抑留した機関(県政府・県国民党・地方法院)から"罪行調査表"が付されてきていたが、その表に罪行らしいものがまったく記されていないという例も多かった。容疑の内容が不明瞭な者も多数いて、捏造するにしても検察官たちは困った。現地に照会して(たとえ嘘でも)逮捕した理由について回答書を得る必要があった。このために昭和二十一年十一月から昭和二十二年二月までの四ヵ月間、広東軍法処の偵訊や公判はまったく停滞している。それらの回答書が地方機関から届き始めたのは昭和二十二年三月ごろからである。それから六ヵ月間はつぎつぎに到着して、検察官たちは、いささかでも"罪行"が記載されているものはすべて起訴した。

偵訊、予備訊問(公判開廷前の準備手続きで、受命の審判官がおこなう)、公判も連日、活発に続けられた。中国側が起訴した案件あるいは内容は、戦争犯罪審判条令によって死刑または無期懲役というケースが多かった。公判は昭和二十一年五月十六日から開始(小野兵団所属・汕頭地区憲兵隊長以下三名を被告とする事件)されたが、何でもかんでも死刑・重罪といおうか、法廷はつねに死刑の判決をもってのぞんだので、当初は死刑が続出した。これらの判決結果を認め刑の執行を許可する中国軍国防部も、さすがに、証拠もなく事実も曖昧な裁判が多いのに承認をためらったらしい。軍法処にいま一度の裁判、つまり"復審"を命じてくる事件がふえ、そのことが前記の地方機関への再度の問い合わせ、調査依頼の時期とも重なっている。

起訴した者については昭和二十二年八月ごろまでにほとんどの審理と判決を終了。既決者たちは市の郊外、白雲山麓にある広東第一監獄に拘禁されていたが、昭和二十二年九月以降はこれら既決者を対象とする再審理(復審)を主体として公判が続けられた。再審理となると、やみくもに事実をねじ曲げたうえでおこなった判決と現地から返ってきた回答書とのあいだに多くの矛盾が生じてくる。そのような起訴事実は見当たらないという現地機関からの報告もあって、死刑から無罪へ、第一監獄から戦犯拘留所に逆戻り、という例も少なくなかった。民衆の告発がいい加減というばかりではない。独立歩兵第二三旅団・独立歩兵第一三〇大隊三中隊長以下六名の"死刑囚"などは、事件がまったく根も葉もない"事実"であり、朝鮮籍兵士の誣告であったと判明して、一転、全員が無罪となっている。

広東裁判は昭和二十一年五月十六日から、この最後の復審の判決(昭和二十二年十二月二十日)まで、およそ一年七ヵ月にわたっておこなわれたことになる。件数は九十三件。被告となった者百七十名。裁判の結果は、死刑四十八名、無期懲役十九名、有期刑四十六名、無罪五十六名、その他不受理一名、というものであった。原審で死刑の宣告を受けた者が八十一名にものぼり、それが被告のほぼ半数だったということにも驚くが、復審によってそれがまた半数近くに減ったという事実にもあきれるしかなく、きわめてずさんな裁判であったことを象徴している。



BC級戦犯裁判の実態からは少し離れるのですが、下記を紹介したいと思います。裏切りは、いつの時代でもどこでもあるとは思うのですが、下記を読んだ時、現代にも通じる日本人の【甘さ】を見た様な気がしました。特に、支那人相手に下記の様な甘い対応は絶対に禁物でしょう。高谷厳水憲兵軍曹は、当初の命令通り、逮捕した支那工作員を全て処刑していれば、下記の様な事態にはならなかったと思います。下記事例は、現代の日本人にとっても【教訓】とするべきだと思いました。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

"厳重処分"の命令
…たとえば高谷厳水憲兵軍曹の場合がある。中国軍側による起訴状の内容は、「被告は広州中央地区憲兵西関地区派遣隊に勤務中、昭和二十年二月下旬、広州市長堤にある三井倉庫放火犯人容疑者三名を逮捕し、不法監禁のうえ取り調べにあたり殴打・酷刑を加えたのち、正当な審判を経ることなく二名を殺害した」というものであった。戦時中の三井倉庫爆破事件については事件発生後、領事館警察が、犯人を通告した者に対しては五十万元の賞金を与えるという広告を中国系の新聞に出した。これを見て高谷憲兵軍曹が使っていた中国人スパイのもとに秘密インキで書いた投書を送ってきた者がある。投書にもとづいて男二名女一名を逮捕して取り調べると、密告者はなんと爆破事件の謀略工作班長スー少佐という者であり、逮捕した者たちはみな彼の部下であった。彼は身の危険を感じるとともに賞金を獲得しようとしてあえて部下たちを売ってきたのである。

高谷憲兵軍曹はさっそくスー少佐をも逮捕。この報告を聞いた中央地区憲兵分隊長・牛山幸男憲兵大尉は四名全員の"厳重処分"を高谷に命令してきた。ここで命じられたとおり全員を"処分"しておけばなにごともなかったかもしれないが、高谷は、スー少佐を"処分"するのはもったいない、逆スパイとして利用できるのではないかと考えた。結局、高谷は"厳重処分"の命令を受けたにもかかわらずスー少佐と女性を助け、あとの二名を中央地区憲兵分隊で処刑することにした。ところが処刑がおこなわれる直前に釈放された女性が手紙を寄越し、処刑されるうちの一人は自分の夫であり、重慶側の別働隊員の大尉である、救ってもらえば日本軍のために尽くすと助命を嘆願してきた。高谷はここで彼をも救おうと努力している。いそいで手続きをとろうとしたが、高谷の所属する分遣隊と彼ら二人を留置した中央地区憲兵隊の位置に距離があることが不幸だった。二人は処刑されてしまった。終戦後に高谷が戦犯として逮捕されたのはその女性が中国軍側に告発したためである。

取り調べを受けた高谷は"厳重処分"の命令を受けたことを述べようとしたが、二人の処刑については多くの下士官が関与しており、日本軍側が"厳重処分の慣習"をかくしているので真相をくわしく説明することができない。高谷は上官である中央地区憲兵分隊長・牛山憲兵大尉の証言を求めた。牛山憲兵大尉は香港にいるはずであった。しかし中国側は行方不明として捜してくれない。結局昭和二十一年八月八日、死刑の判決を受けざるを得なかった。



支那でのBC級戦犯裁判は、国府軍と中共軍の内戦時期にも重なったせいで、国府軍・中共軍それぞれから逮捕されて裁判にかけられたケースも目だった様です。国府軍の方は、中共軍から攻め込まれて撤退する際に、無罪判決を言い渡して放免するケースが多かった様ですが、逆に中共軍の方は、死刑判決を出すケースが多かった様です。また、中共軍に関して言えば、【第57項】でも紹介しましたが、撤退する際のどさくさ紛れに【無裁判で処刑】する事例もあった様で、旧日本軍による無裁判処刑を非難する資格が無い事を証明しています。監獄内の状況も極めて悪く、獄死する者が相次いでいた様です。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

再び瀋陽裁判へ
…起訴事件は百十五件、被告数は百三十六名で、審判の結果は、死刑二十二名、無期刑五名、有期刑二十九名、無罪七十九名、その他結果不明一名、となっている。このうち久保撫順炭鉱次長は、二件の裁判の被告となり、一件は無罪となったもののべつの一件では死刑を宣告され、被告として二度法廷に引き出されているので、起訴された実人員は百三十五名ということになる。無罪判決が多いのは、中共軍に攻められた国府軍が撤退するにあたり、残る日本人たちに無罪を言い渡したためであった。このあたりの事情は、中共軍が撤退するときに数多くの日本人を"処刑"したのとは対照的である。

特殊法人あるいは会社関係ということでみると、十七件三十名である。死刑十一名を含む有罪十五名、無罪十五名。死刑の判決を受けたのは、前にも触れたが、西安炭鉱労務係・森覚のほか、撫順炭鉱における"平頂山事件"に関連して起訴された者が多い。「結果は予想だにせざりし極刑を宣せらる。暫く唖然たり」(満多野仁平満鉄元社員)、「実に"無実の罪なり"の怨恨心を捨て切る迄には、そして現在の心境に達する迄には永い問悶え苦しみました」(坂本春吉撫順警察署元警察官)などという遺書の言葉にその悲痛な胸のうちがあふれている。民間人関係では十四件十八名が起訴され、結果は有罪十名(うち死刑三名)、無罪八名であった。密告されて、なにがなにやら分からぬうちに法定に引き出され、「被告人はかつて警察官として勤務時代に中国住民を逮捕し酷刑をほどこした」とされた死刑判決、といった類が多い。ほとんどは終戦直後の混乱時の"被害者"とみるほうが正しい。当時は密告を専門にして生活していた者たちもいたという。ほかに所属不明の十件十名(無罪九名、不明一名)があるが、これらも、いわれなき"密告"による起訴であった。有罪の判決を受けた者たちはみな瀋陽城内の遼寧第一監獄(満州国時代の奉天第一監獄)に送られた。昭和二十二年の秋になって戦犯拘留所が閉鎖され、以後は、未決者や無罪を言い渡されながら確定前であった者たちもここに移送されている。栄養失調で倒れる者があいつぎ、十七名が獄死。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

満州裁判 二重の裁判
終戦直後の満州は、ソ連軍、中共軍(八路軍)、国府軍(国民政府軍)と入れかわり立ちかわり攻防をくり返し、各地区で「とったりとられたり」の状態が続いたことは、前に述べたとおりである。そのような状況の中で、帰国をのぞむ日本人たちが逃げ惑い、強姦されたり殺害されたりして、悲惨な運命をたどる者が数多くあったこともよく知られている。戦犯裁判を考えた場合も、国府軍の法廷に引き出されたのちふたたび中共軍に逮捕されて裁判を受けたり、逆に中共軍に裁かれたのちに国府軍の裁判を受けるといったような、二重の裁判を受ける者がかなり多くみられたのも満州の地ならではの特徴である。それらの実態は体験者たちの報告を聞くとよく分かる。たとえば満州国警察官(錦州省錦州市に勤務。終戦時、錦州警務庁刑事、監督警尉)であった谷春松(福島県出身)はまず中共軍に捕らえられ、その暴虐を目の当たりにしたと言っている。

終戦直後、谷はおよそ六十戸ある日本人住宅街(ほとんどは老人・婦女子)を暴民から守るため、いわゆる隣組活動に力を尽くしていた。日本の軍隊が早期に撤退していったため錦州市街地は掠奪や暴力によって支配されていた。錦州市勤務を昭和十年来続けてきた谷は住民から頼りにされていたのである。いちはやく進入していた中共軍の兵が谷の住居をたずねてきたのは昭和二十年十一月のことであった。たまたま谷は理髪店に行っていた。逃げようと思えば逃げられたが、それでは隣組のほかの日本人のだれかが人質にとられてしまう。意を決して中共軍の本部に出かけて行くと、「おまえは長いあいだ警察官として活躍しているが、その間に中国人を取り調べて拷問しているだろう」と訊かれた。谷としては、たしかに逮捕して調べたことはあるが、拷問といわれるような行為は、天地神明に誓って、やったことがない。否定すると、その日は帰宅を許されたものの一週間後の夕刻、元警務庁の建物で催される治安会議に出かけるところを、ほかの出席メンバーとともに逮捕された。

いきなり縄をかけられ後手に縛られた。錦州市の副市長であった匹田捨三氏も私の目の前で縛られた。見れば、中共軍の兵は憲兵少尉以下十五、六名。私たちをトラックに乗せて、元警務庁とは逆の方向に走り始めた。泣いたり哀願する者もあり、全員がともに銃殺されるらしいという。縛られた手の縄をなんとかして解こうとするうちに、空き地に来て、トラックは止まった。県長の董さんが引きずりおろされ、有無を言わせず泣きながら銃殺された。匹田副市長はさすがに悠然としていたが、座ったままのところを二発撃たれて息を引きとった。つぎは、私の番であった。さいわい手の縄がほどけそうになったので、トラックから降ろされる瞬間、私は反対側にとび降りてひたすら逃げた」という。途中で中共軍の歩哨に呼びとめられ、誤魔化して通り抜けようとすると、発砲してくる。公園の茂みに隠れたり、裏通りを走ったりして、ようやく知人の家に駆け込み、押入れの中に隠れたという。裁判も取り調べもあったものではない。後から考えれば、この日、昭和二十年十一月二十三日の夕刻、蒋介石の国府軍が錦州に入城し、中共軍は錦州を撤退せざるを得なかった。逃げるに際して、火事場さわぎの状態で、県長や副市長たちを殺害したのであった。

自宅に帰ることができた谷春松は、しかし、昭和二十一年五月十一日、日本に引き揚げのため錦州駅に集合したところを、今度は国府軍によって逮捕、連行される。拘留された場所は錦州市内大馬路にあった商工会議所の建物であった。「そこには、知り合いの憲兵、警察官、省公署の役人たちが多数いて、毎日拷問をかけられ、立って歩けない状態で、みんな這って動いていた。たとえば錦州地方検察庁次長の亀岡忠彰氏などは新聞紙を燃やした、いわゆる火あぶりのあい、やけどの傷がひどかった」という。…谷の場合は、昭和二十三年一月に釈放され、以後は市内の日本人経営の雑貨屋を手伝いながら戦犯拘留所への差し入れを続け、昭和二十三年五月下旬に錦州に向かい、葫蘆島を経て、六月十七日に佐世保に上陸した。



ついでに、【中帰連(※中国帰還者連絡会)】について触れておきたいと思います。おそらく一度ぐらいはその名を聞いた事があるのではないでしょうか。中帰連自体は、会員の高齢化のために2002年に解散しているのですが、この連中が遺した【自虐の傷跡】は、長い間日本の歴史観に対して暗い影を落としていました。いわば、支那の手先となって【自虐の懺悔】を繰り返していた連中だったのです。その様な工作員がどの様にして生まれたのか、下記証言に語られています。下記の様な【真実】は、朝日新聞や日本共産党支持者等により揉み消されてきたのですが、これを機会にその真実の一旦でも知って頂ければ幸いです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

通化省蒙江県の副県長であった竹崎収二(高知県出身)も、国府軍の裁判で裁かれ、さらに中共軍に逮捕されるという運命をたどらなければならなかった一人である。…ところが国府軍が追い払われて中共軍が進出してくるにおよんで、昭和二十六年四月、今度は中共軍に"戦犯"として再逮捕される。このとき逮捕・勾留された日本人は二十五名前後であるという。それから二年半、竹崎はいわゆる"洗脳教育"の毎日を過ごした。

最初の一年間は部屋の中にただ座ったまま"反省"を求められた。南京虫に食われながら、風呂もなく、衣服はほころびを縫う針も持たされないこの一年間はじつに苦痛の毎日であった。その"反省"の一年が終わると、つぎは"学習"が始まった。議題を出してお互いに討論させられる。朝から晩までこれ一本でやられたのにも参った。あれだけやられては、たいていの人が洗脳される。共産主義に徹底するようにならなければ帰国させてくれなかった。さすがは大国民で、いかにも気が長い、と思ったものだ。最初は馬鹿にしてかかっていても、やっているうちにしだいにそのような気持ちになっていくのだから不思議である。当時、中共では、一般国民も隣組組織によってこの"学習"をくり返し、政府の制作を徹底させていた。死刑の判決があっても二年間は"緩期"と呼ばれて、この間は刑の執行を見合わせ、成績がいい者はどしどし減刑もする。逆に、短期刑の者でも服役(反省・学習)の態度が悪い者はつぎつぎに刑期を延長させることができるようになっていた。国府軍つまり国民党は腐敗しきっておりまったく期待を持てなかったが、これにたいして当時の中共は質実剛健というのか、国民をだまさぬ方針が徹底していた。日本人戦犯者たちも、そのことを知り、学習を続け、中共讃美者になっていく者がほとんどであった

と竹崎は言っている。

"懺悔"と"感謝"と"誓い"
…裁判にかけられ有期刑の判決を受けた被告人総数は四十五名ということになる。"思想改造"を受けていたほかの千余名の抑留者たちは、昭和三十一年六月二十一日、七月十五日、八月十八日の三回にわたって"不起訴処分"となって釈放された。"不起訴処分"になった者たちとはみずからの戦争犯罪を認め、いわゆる"思想改造"に成功した者たちということである。"革命思想"に生まれ変わった日本人たちといってもいい。不起訴決定宣布大会というものが催され、会場は異様な"感動"につつまれたという。場所は撫順市役所の講堂であった。正面の雛壇には最高人民検察院検察長の代理の検察官が座り、向かってその左には千余名の釈放者の身柄を受け取ることになった中国紅十字会の代表が座った。二階の傍聴席は一般の市民がぎっしりつまっていた。映画班のフラッシュが光り、大会の模様はすべて録音されていた。田中魁著『中共抑留記』によると、検察官がおごそかに起訴免除の決定書を読み上げると会場は一瞬、感激のすすり泣きの声があちこちでおきたという。



恐ろしい事です。国家が絶対的な権力を行使して、【強制的な思想改造】を行っても、誰も非難する事ができないし、誰も逆らう事ができないのです。この様な国が、日本のすぐ隣に存在しているという事をよく覚えておいて下さい。


最後に、旧ソ連で行われた【BC級戦犯裁判の実態】を見てみたいと思います。【第35項】でも少し触れたのですが、戦後に戦犯裁判を行う事を提言したのは旧ソ連でした。当時の米英指導者は、【裁判無しの即決処刑】を訴えていたのです。結果的に、旧ソ連に同意し、戦犯裁判が行われる事にはなったのですが、旧ソ連は、公平性・公正性のために戦犯裁判を行う事を提言していたわけではなく、旧ソ連共産党の正当性を旧ソ連人民に見せつけるための【プロパガンダ】にすぎませんでした。



『戦争犯罪と法』 多谷千香子著(※元旧ユーゴ戦犯法廷判事)

第1章 20世紀の戦争と国際刑事裁判 第3節 第二次世界大戦後の戦犯裁判

(1)ニュルンベルグ裁判と東京裁判の功績
ニュルンベルグ裁判は、1945年8月8日の英・米・仏・ソ連の「ヨーロッパ枢軸諸国の主要戦争犯罪人の訴追と処罰のための協定」(いわゆるロンドン協定)によって設置され、東京裁判は、ロンドン協定を模した1946年1月19日の連合国軍最高司令官マッカーサーの「極東国際軍事裁判所設置に関する命令」に基づいて設置された。国際軍事法廷を作って戦犯を処罰したことは、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約が国際軍事法廷での戦犯裁判を予定しながら実現できなかったことを実現した点、及び日独の戦争指導者を裁判によらず即決処刑すべしという主張もあったが、これを退け、ともかくも裁判を実現した点で一つの進歩であった。

(※以下、注釈)
イギリスのチャーチル首相は「ドイツ戦犯は即決処刑により銃殺すべし」との意見であり、アメリカもイギリスに同調していた。これに対して、ドイツ降伏前から、戦犯裁判を主張していたのは、ソ連である。しかし、ソ連の主張した戦犯裁判は、スターリンの下で行われた裁判がそうであったように、show trial(※注、「見せしめ裁判」)であって、はじめから結論の決められた見世物としての裁判にすぎなかった。ニュルンベルグ裁判で裁判官を務めたソ連出身のニキチェンコは、ニュルンベルグ裁判の被告人がすべて有罪であり、絞首刑に処すべきことを裁判開始前から公に言明していた。

ところで、ソ連は、特別委員会を設置し、とくにナチスによるソ連侵攻後のドイツ戦犯の証拠について、積極的に証拠を集めていた。それが、ソ連の意図する見世物としての裁判とは裏腹に、ニュルンベルグ裁判をより公正な裁判にするのに役立った。ソ連は、1939年8月23日にドイツと相互不可侵条約を結び、同年9月1日のナチスによるポーランド侵攻を助け、9月17日にはソ連自身が、ロシア人やウクライナ人の保護を名目に東ポーランドに侵攻し、カチンの森事件(=ポーランド人将校1万5000人の虐殺事件)を犯した。ニュルンベルグ裁判では、ソ連自身の検察官が、カチンの森事件をナチスの犯罪に仕立てて立件しようとしたが成功せず、起訴は取り下げられた。1990年、ゴルバチョフ大統領は、カチンの森事件は、スターリンの命令でソ連軍が犯した事件であることを認めた。



ともあれ、戦犯裁判は実際に行われていたので、その実態を検証してみたいと思いますが、予想するまでもなく、【惨憺たるもの】でした。戦中の軍事的必要等が反映されている軍事裁判であればまだしも、【戦後】に行われた戦犯裁判なのですから、もはや軍事的必要等は存在していないはずです。にもかかわらず、露骨に手間を省いた旧ソ連の戦犯裁判のいい加減さには呆れるのですが、それ以上に、戦地での軍事裁判の様な戦犯裁判が、【旧ソ連の国内法に基づいていた】というのが驚きです。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

"オソ"で判決を決定
軍法会議の開設地はウラジオストク、ニコリスク、中央アジアなどであったが、大部分の裁判はハバロフスクでおこなわれた。くり返すようだが、他国のような"戦争犯罪人裁判規程"はなく、一般ソ連人にたいして施行されているソ連刑法によって裁判はすすめられている。法令上は公開裁判ということであったが、事実は秘密裁判というにふさわしく、また形式的であった。

被告には弁護人もつけられず、検察側の証人は"密告者"などソ連の側についた人物たちで検察官に都合のいい証言をおこなう者にかぎられていた。被告側の証人はほとんど認められず、また稀に認められた場合も、ソ連側が故意に妨害し、発信不可能に陥った。被告人自身の法廷における発言も、禁止されるか無視されて、まったく一方的に判決がくだされた。審理らしい審理はおこなわれず、調書を認めさせるだけの裁判といってもいい。従って審理の所要時間はきわめて短く、驚いたことに、十数分で判決を言い渡されるという例も多かった。裁判する前にすでに判決が決定しているという印象を受けた」

と体験者たちは異口同音に言う。これが事実なら、裁判といえるものかどうか。まがりなりにも他の七ヵ国が"裁判規程"をつくって裁判した実情と比較すると、都合のいい形式的な一つの行動としか思えない。言い換えれば世界に類のない自己流の"秘密裁判"であり、とても"公表"できる戦争裁判とは思えない。



旧ソ連の国内法においては、【間諜行為】と、国家の転覆等を企てる【謀略活動】が最も罪の重い犯罪とされていた様です。独裁国家らしい国内規定なのですが、通常の軍隊の編制等まで【謀略活動】に認定されてしまえば、旧ソ連の国内法においては、戦闘行為に関わった旧日本軍関係者は全て犯罪者となってしまいます。国際法の規程を踏まえた上での国内法整備という概念が全く無いのが特徴です。旧日本軍は、例えば空襲軍律においては、国内法に依らず、国際法解釈に基づいて新たに制定したのですが、例えるなら、旧日本軍側が、国際法を無視して、国内法の殺人罪をもって米軍航空機搭乗員を処罰する様なものです。単に殺人罪を適用するであれば、合法的な戦闘行為における旧日本軍兵士殺害ですら、殺人罪の適用により有罪となる、という具合でしょうか。幸い、下記ケースにおいては死刑判決にはならなかった様ですが、

改めて、国際法・慣習法の視点から見てみれば、言葉を失うほどの【法が転じて無法と化した】戦犯裁判です。



「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 岩川隆著(※ノンフィクション作家)

国際法と無縁なソ連裁判
裁判の具体例をみてみよう。ほとんどは闇から闇といった感の"秘密裁判"だったが、帰国者たちの報告によって、おぼろに分かっている例もある。たとえば元関東軍総参謀副長であった松村知勝少将の場合、起訴事実は、「(参謀本部ロシア課長として)対ソ情報活動を指導し実施した」「(関東軍参謀、作戦課長として作戦、編制、兵站を主管事項として)謀略に任ずる第一機動旅団を編成した」というもので、やはり情報活動、謀略活動を"犯罪"とした追及であった。

この起訴事実にたいして被告の村松側は、「国防のために軍が存在する以上、他国の軍情その他の情報蒐集をおこなうことは当然の行為であり、被告人は職務上これをおこなったもので、非合法的行為を犯したものではない。いわんや、国際法規からいえば、俘虜となった後、それまでのスパイ行為が判明したとしてもこれを問わない、ということになっている。戦争犯罪には該当しない」と抗弁した。ヘーグ陸戦法規第三十一条によると、「一旦所属軍に復帰したる後に至り敵の為に捕へられたる間諜は俘虜として取扱はるべく前の間諜行為に対しては何等の責を負うことなし」とある。戦争犯罪の基準たる国際的な"陸戦法規"に照らし合わせて、対ソ情報活動は正常な軍事活動である、としたのである。第一機動旅団の編制については、これを"謀略活動"とみなすほうがおかしい。「同旅団は謀略部隊ではない。正規の軍隊であり、所属員は制服を着用し、あくまで軍隊として行動した。国際法にいう破壊謀略は、非軍人かまたは軍人が平服を着ておこなうものを言い、軍隊が制服のままおこなうものは、すべて作戦活動である」と主張した。

これにたいして、ソ連側の検察官の言い分は、「対ソ情報活動は、ソ連刑法第五十八条第六項の"間諜罪"に該当する」というのであった。その第五十八条第六項というのを調べてみると、つぎのようにある。「間諜即ち特に国家の秘密に属する情報を外国、反革命団体又は個人に通報する目的を以て交付・窃取・若くは蒐集したる者は、財産の全部又は一部を没収して三年以上の自由拘束に処す」謀略部隊だと追及する根拠は、同じく第五十八条第九項の、「謀略とは、爆薬又は焼夷剤を以て施設・交通線・司令部・砲兵陣地等を破壊焼却するもの」という条文によっていた。これらはみなソ連国内の刑法である。

戦闘や戦争についてさえもソ連人民にたいするのと同じ刑法を適用させようとするのだから、客観的にみて、当然のことに無理や矛盾が生じてくる。国際法などは、しかし、ソ連の軍事裁判にとって無縁のものであった。村松側の主張に対して検察官側は一応、会議は開いたものの、「条文に、軍服と平服の区別は書いていない。従ってこの条項は戦時にも適用される」という結論を引き出して、これを被告側に通告した。さらに適用された条項に、第五十八条の第二項というのもあった。それも、つぎのようなものである。

「反革命の目的を以て、ソビエト領域内に武装徒党を組みて侵入し、又は武装反乱を起し、同目的を以て中央・地方等に於ける政権を奪取し、ソビエト連邦及び連邦共和国より圧倒的にその国土の一部を分離せしめ、若くはソビエト連邦が外国と締結せる条約を破棄せしめたる者は、最高の社会防衛処分即ち銃殺若くは財産没収、連邦共和国・ソビエト連邦の国籍を剥奪し、永久にソビエト連邦領域内より追放して勤労民の敵なりとの宣告を為す。但し、情状軽き者は財産の全部又は一部を没収して三年以上の自由拘束に処す」、これを戦争裁判にもあてはめようというのであるから、対戦国の日本人はみな"戦争犯罪者"ということになる。

この松村元少将についての裁判は昭和二十四年八月二十五日におこなわれている。裁判とか審理と呼ばれる類のものではなかった。開廷されて発言を許されたとき松村は、「公訴の事実は認めるとして、これを戦争犯罪とは認めない。認めることができない。国際法や国際慣例から考えてみても犯罪を構成しない」とあらためて主張したが、裁判長は強引にも、「これは新しい国際協定に拠るものである」と言い放ち、その国際協定がどのようなものであるか、いつどこで協定されたものであるのか、いっさい説明はしなかった。

"審理"のための時間は一時間半か二時間くらいであった。休息の後に呼び出されて、唖然とするうちに判決が言い渡された。「刑法第五十八条第六項の罪(諜報)は三十五年の刑に該当し、同第五十八条第九項の罪(破壊謀略)も二十五年の刑に該当する。よってこれを綜合し、二十五年の矯正労働に処する。本来は死刑に相当するが、死刑が廃止されたので、二十五年の刑をもってこれに代える。被告人の私有財産は没収する」というのである。ソ連の国内法では、前述したとおり、死刑を廃止(昭和二十二年)したり復活(昭和二十五年)したりしている。死刑を廃止した直後は、二十五年の"矯正労働"というのが最高刑であった。「本来は死刑に相当するが」という文句が挿入されているのは"極刑"といってよく、この村松元少将のほかは下村信貞満州国外交部次長にたいする判決文くらいのものであったという。

「その時期(第二段階)の裁判では、中佐以上の階級者はほとんど二十五年の最高刑、少佐以下兵までは十年から十五年の有期刑で、階級によって刑期を決めるがごときで、起訴事実は関係なかったと思われる」と松村元少将は言っている。小畑信良陸軍少将は、終戦のとき奉天第四四参謀長であったが、奉天特務機関長、関東防衛軍参謀長を歴任していた。この小畑元少将にたいする起訴事実も同じようなものであった。「参謀長、特務機関長として対ソ情報蒐集の統括をおこなった」「謀略部隊の編制を命じ、その教育を指導した」という二項がまず筆頭に掲げられていた。謀略部隊の編制というのは、第四四軍隷下で在索倫の北方第一〇七師団(師団長・安部孝一中将)で挺身隊を編制したことを指している。挺身隊とはつまり斬り込み隊である。斬り込み隊もまたソ連側からみると謀略部隊ということになるのである。小畑少将の場合は、いま一つ、「愛国運動を妨害し、破壊させた」という起訴事実もつけ加えられていた。これは小畑少将がおこなった熱河の匪賊(ゲリラ)討伐作戦を指しており、これらゲリラの活動も、ソ連側に言わせると愛国運動ということになるのであった。

のちに帰国することができた小畑少将は、裁判・審理の実状について、「ソ連側は"戦車を攻撃するのに正面から行くのならいいが、後方から攻撃するのは謀略であると解する"などという程度で、話にならなかった。安部孝一師団長が証人として出廷し、挺身隊の編制要領は大本営から通達され、関東軍を通じて命令としてきたものだが、終戦の二、三週間前のことで、軍に報告する余裕もなかったと証言した。実際、私は、挺身隊のことも知らなかった。軍司令官(第四四軍)の本郷義夫中将はすでに復員・帰国しており、証人に立ってもらうすべはなかった」と言っている。

この"小畑裁判"の場合はまだ死刑が廃止されていない時期におこなわれている。判決の結果は、匪賊討伐に関する起訴事実についてのみ二十五年の矯正労働で、"対ソ情報蒐集"と"挺身隊"に関してはいずれも死刑であった。判決の言い渡しを受けるとき、ロシア語がよく分からなかったが、"死刑"という言葉がまじっていることだけは理解できた。小畑が思わず、「死刑とは何だ」と通訳に訊くと、「死刑とは、あなた、死刑です」と言ったので小畑は笑い出したという。裁判長たちはあわてて書類をまとめ、逃げるように法廷を引きあげようとしている。姿を消す直前に裁判長は、「モスクワに嘆願書と控訴文を出せ」と言い置いて去った。前述したように、判決にたいして不服の場合は七十二時間以内に"上訴"することが許されており、裁判長はそのことを言ったのである。小畑は死刑を覚悟して上訴の意思をあらわさなかったが、ソ連側のほうがなおも積極的にもちかけてきたので結局は上訴した。その結果は死刑を減じられて、矯正労働二十五年ということになった。



国際法を無視して、国内法規が優先されるのであれば、【国際法の存在意義は無い】と言えるでしょう。この発想は、特定のテロ思想にも通じるところがあり、

要は、自分達こそが正義であると強調しているだけの、裁判の名を借りた【自己主張】でしかないのだと思います。


以上で、【BC級戦犯裁判の実態】の再検証を終わりたいと思いますが、もう何も言う事は無いでしょう。

まかり間違っても、この様な裁判(※の様なもの)を根拠にしてはならないのです。

否定派の皆さんには、戦後に行われたBC級戦犯裁判は、

如何なる正当性も担保されていない裁判だったと理解していただければ十分だと思います。

これ以上、いくら再検証を重ねても、

戦後に行われたBC級戦犯裁判の惨憺たる実態しか明らかにならないと思います。

名著のタイトル『孤島の土となるとも』を【故郷の土となるもの】と書いてしまったお粗末さはともかく、それ以上に、本BC級戦犯裁判を根拠とする様な、下記の様なお粗末な解釈を晒さない様にして下さい。



馬鹿の言い分その@


馬鹿の言い分そのA


『孤島の土となるとも BC級戦犯裁判』





--【第59項】 戦後のBC級戦犯裁判を根拠にする珍論 【後編】--

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